宿舎で日常-2
「ねぇ、葵」
「ん? 何、緋月」
野菜炒め、とは主婦はよく考えたものだ。
ヘルシー、尚かつ、余り物で作れる。
バランスの良い食事、ナンバーワンだ。しかもお手軽。葉物だったら大雑把に炒めるだけで良いのだから。
根菜があっても軽く電子レンジで温めればすぐに出来る。
「葵、コーヒー」
「はいはい」
フライパンを振るいながら適当に答える。
ガス台を前にしている僕は脇に手を伸ばして据え付けられている戸棚からインスタントコーヒーの入っている瓶を取り出してガス台の隣にある作業台に置いた。
同じく戸棚からマグカップを取り出してこれも作業台に置くと、瓶を取り上げて片手で蓋を開け、マグの中に適当に注ぎ込んだ。
そこで丁度野菜炒めが出来上がる。ガスを止めると、すぐに野菜炒めが出来上がったフライパンを退けてヤカンを取り出し、水を注ぎ入れて火に掛けた。ガスコンロが一つというのは正直、不便だ。
野菜炒めを大皿によそり、フライパンを水で冷ましながらシンクの中に放り込んだ。
「っと、今日は葉桜は外で飯を食ってくるから……」
呟きながら箸を二つ取り上げて台所から居間へ。
居間のソファーでは、疲れた様子の緋月が座って待っていた。
「コーヒーはすぐ出来るから」
「ん、さすが葵。素晴らしい主夫になれるな」
「就職先に困った時に頼るよ」
「そんなこと言わずに永久就職してみればどうだい?」
「誰があんたみたいな横暴娘に……」
僕が言いかけると、緋月は屈託のない笑顔を浮かべて箸を取る。その瞬間、箸が消えた。
「……はい?」
「あ、うっかり箸をすり潰してしまったね。箸使わせて貰うよ」
「……はい」
怒らせてはいけない、忘れていた。何故、彼女がこの若さで陸軍准尉の階級まで登り詰めているのかを……。
僕は冷や汗を流しながら早足で台所に戻ると、丁度よくお湯が沸いていた。
お湯を用意してあったマグに注ぎ入れる。ついでに自分の物も。もちろん、磨り潰されてしまった箸の代わりも持って。
そしてすぐに居間に戻ると、緋月は美味しそうに野菜炒めを食べていた。
「ん、さすがだ。葵。良い味付けだよ」
「そいつはどうも。はい、コーヒー」
「お、ありがと」
緋月は僕からマグカップを受け取ると、美味しそうにそれを啜った。
「……うん、よく分量を心得ているな。やはり、葵、キミは私に永久就職すると良い」
「生憎、狙撃兵の安月給で間に合っていますので」
僕が肩を竦めて緋月の対面側に座ると、彼女はニヤニヤと笑みを浮かべて言った。
「そうかぁ? 愛用のライフルのメンテで大分金を取られているんじゃないのか?」
「あと、テメエらの食事代でな」
僕は言い返しながらコーヒーを啜ると、緋月は肩を竦めて見せた。
「それは心外だな。私達が大食いだと言いたいのか?」
「小食でも高い食材を使っていりゃ食事代が飛ぶよ」
「なるほど、確かにごもっともな意見」
緋月はうむうむと頷くと、テーブルに手を這わせた。
「だけど、葵、キミは忘れているよ。このテーブルの色のように」
いや、色って何だよ。
ちなみにガラステーブルだから無色透明である。
つつつ、と緋月の華奢な指先がテーブルの上を這っていく。
「下には下にあるものの色が見える。それをテーブルの色と思わない……そう、ガラステーブルだと知っていればね」
その白い指はすっとテーブルから持ち上がって僕の顎に触れた。
いつの間にか、隣に座っていた緋月によって。
「ミスディレクション……か」
「一昔前のバスケマンガの技名だね」
黒○のバスケである。叔父が持っていたのを借りて読んだ事がある。
一定対象に注目を移す事で注目を逸らす。まさに今、それをやられた。
緋月はうっとりとした目で僕の頭の後ろに手を回すと微笑んで見せた。
「私の物になれ、葵。不自由はさせないよ」
妖しく輝く紅い目でじっと僕を射竦める。長い黒髪と色白な肌がそれを強調してより美しさを際だたせている。
大人びた顔が僕をじっと見つめながらさらりと頭に回した手で髪の毛を撫でる。
「あ……」
口説かれている。
そう悟った瞬間にはもう遅かった。
緋月は色っぽく唇を開くと、ちろりと真っ赤な舌を突きだして自ら指先を舐め、そして僕の唇にちょんと触れさせる。
湿った指が意図も容易く、僕の唇を押し開けると口腔の内側を指でなぞってみせた。
その指はくすぐるような軽やかなタッチで、でも尚かつ、何かを誘うような……。
「あぁ……」
「ふふふ……可愛いな、キミは」
思わず吐息をつく僕に緋月はそっと微笑んで指をそっと引き抜いて唾液でベタベタになった指を色っぽく舐めてみせる。
「食べたくなっちゃうよ」
すっと僕の頭を引き寄せる、そして柔らかそうな唇が再びそっと開かれ……。
「あー! 緋月! また葵くんを!」
その瞬間、声と共に僕の身体が後ろへと引かれた。
それに我に返って振り返ると、そこには葉桜がむすっと怒ったような顔で立っていた。
「やぁ、葉桜、残念だ。折角、愛の好感をしていたというのに」
「一方的だったじゃないの!」
「そうかな?葵は抵抗していなかったけど」
「もう騙されないから! 葵くんは抵抗できなかったの!」
「おやおや、もうタネが分かってしまったか。残念だ」
緋月は肩を竦めると、僕の口腔を蹂躙した指を名残惜しそうに舐めながら微笑んだ。
「ところで、葉桜、キミは今日、衛生兵の同僚の飲み会ではなかったのかい?」
「中止になったの! 第三班の出撃命令で!」
「ほう、なるほどな」
緋月はニヤニヤと笑うとソファーに座ってテーブルの上にある僕のマグを取り上げてずずず、とそれを飲んだ。
そして、ちらっとこっちを向いて言った。
「葵、コーヒー」
「……あいよ」
榊原緋月、陸軍准尉で第三八独立部隊の隊長を務める。
第三八独立部隊の説明は追々となるが、まぁ、明らかに強い。
驚異的な握力と人を射止めるような瞳。これ以上に何かあるらしい……僕も知らない事が多い。
ま、彼女も僕のルームメイトで……危険な人だ。
もう一人、ルームメイトがいるのだが……それはまたの機会、お話ししよう。




