夕暮れのうさぎ
「あっついなー」
トイレからうさぎのぼやきが聞こえた。
しばらく留守にしていたからもう来ないものだと思っていた。
というか、来ないのが普通だ。
「あんたまた来たの。鈴蘭さんとかいう人が──」
そこまで言って、トイレに入ったわたしは言葉を切った。
「あっついなー今日は本当にあついよ」
暑いのは被り物をしているからで、いい加減それを外したらいいんじゃないかとか、今目前で起こっている問題はそこじゃない。
窓から差し込む夕暮れに照らされたうさぎの頭は、暑いとか暑くないとかそれ以前に、燃えていた。
「おー田中さん、ひっさしっぶりー。で、鈴蘭やっぱ来たって?」
「ち、ちょ、も、燃えてんだけど!」
「燃えてる?ああ、今日の夕日はいつもより赤いし暑いよね」
「そうじゃなくて!」
そうじゃない。
鈴蘭さんが取り立てにトイレに乗り込んだとか、今日の夕日がいつもより赤いとか、問題はそんなことじゃない。
「あんたのうさぎ、頭がぼや騒ぎなの!」
「失礼な」
違う!
失礼かもしれないが、確かにうさぎの頭はいつだって若干ぼや騒ぎは否めない。
が、今は本当にぼや騒ぎなのだ。
「脳味噌のことじゃなくて!燃えてる!被り物燃えてんだって!」
「燃えてる?」
まっさかーとか何とか言ったうさぎが、自分の頭をようやく撫でた。
「あっち!ちょ、燃えてる!田中さん燃えてる!」
「燃えてんのはあんただから!」
「ど、どーしよー!?」
わあわあ言ってトイレ中を駆け巡るうさぎと、呆然とそれを眺めるしかないわたし。
そもそも、だいぶ煙も出ているというのに、どうして火災報知機が鳴らないんだ。
「たーなーかーさーん!」
「わあっ来んな!」
己を見失ったうさぎが、頭を燃やしてわたしに駆けてくる。
どうする!?
ジャ─────!!!!!
「……こうすればよかったんだよね」
手洗い場の蛇口に手のひらを当てて、うさぎに向かって狙いを定め、勢いよく捻った。
「消えたか、よかった」
「俺、びっちょりなんだけど」
へたれた被り物の毛を撫でつけながら、小さく呟いたうさぎを完全に無視した。
ぶつくさ言ううさぎをそのままにトイレを出たなら、またもや、先生に出くわした。
「先生、火災報知機壊れてますよ」
「あら大変」
「危機は免れましたけど」
「危機?」
首を傾げる先生をその場に残し、ちょっとだけ赤くなった手のひらを見つめて言った。
「さようなら先生」
ああ、今日の夕日は本当に赤い。