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幸福な微睡み   作者: 東西南北


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1 ローレスの従者


 

 私がローレス殿下にお仕えすることになったのは、殿下がまだ五歳という幼い頃でした。


 前王妃様が急逝され、側妃様が王妃の座に昇り詰められた直後のことです。宮廷の風向きは、一瞬にして変わりました。


 しかし、私が殿下にお仕えするにあたって理解せねばならなかったのは、もっと根深い、王家の血に塗れた「過去」でございました。


  


 陛下が真に愛していたのは、側妃殿下――今の王妃様だけでございました。


 前王妃様は、あくまで国益のための政略で嫁いできた「器」に過ぎなかったのです。なかなか子が授からぬ前王妃様を疎ましく思った陛下は、すぐに側妃様を迎え入れ、寵愛を独占されました。その結果、先に生まれたのは側妃様の御子であるアレクセイ殿下でございます。


 宮廷の噂では、前王妃様は陛下より、侍医を通じて密かに「避妊薬」を飲まされていたのではないかと言われておりました。子をなさぬまま、側妃様の息子であるアレクセイ殿下が王位継承の道筋を固める……それが王妃様の描いた青写真だったのでしょう。


 しかし、運命の悪戯か、前王妃様は身ごもられました。それがローレス殿下でございます。


 側妃様にとって、それは決して許されざる「異物」の誕生でした。


 その後、前王妃様はわずかな闘病の末、呆気なく息を引き取られました。公式には「病死」でございます。しかし、その死が本当に病によるものだったのか――宮廷の影では、今も「毒殺であった」という噂が、消えることなく囁かれ続けております。


 私が殿下に初めてお目にかかったとき、その瞳の奥には、母を失った子供の悲しみなどではなく、もっと冷ややかな、全てを見透かすような「諦念」が宿っておりました。




 アレクセイ殿下の住まう宮殿は、常に華やかで、笑い声と高価な調度品に満ちていました。現王妃様は、自分の腹を痛めた息子に全てを与え、彼を「王家の太陽」として育て上げようとしました。アレクセイ殿下は、何もかもが与えられて当たり前という環境で育ちました。周囲はそれを「王子らしいご気性」と持て囃して甘やかしました。


 対して、ローレス殿下が宛がわれたのは、宮殿の最果てにある、湿気と古い書物の匂いが立ち込める離宮でした。


 殿下は、自分が「王妃様に排除され損ねた失敗作」であることを、幼くして理解しておられたのです。


 かつては豪華であったはずのカーテンも色あせ、使用人たちも「将来性のない王子」の元へは寄り付きませんでした。ですが、殿下は決して不満を漏らしませんでした。


 それどころか、殿下は幼い頃から、アレクセイ殿下の「お遊び」を、離れた場所から冷徹なほど正確に観察しておられたのです。




 ある日のこと、私は殿下が窓辺で、庭園で蝶を追いかけるアレクセイ殿下を眺めているのを見ました。


「兄上は、蝶も生きているのだとなぜ考えない」


 殿下はぽつりと、感情の読めない声で仰いました。


「兄上は蝶を捕まえて、飽きたら壊して捨てる。母上(王妃)はそれを笑って見ている。……あの人たちが支配する国が、どうなるか。私には痛いほどよく分かる」


 当時の殿下はまだ幼く、周囲からは「前王妃の暗い面影を残す、気味の悪い子供」と見なされていました。勉強も、教練も、あえて平均的に、特筆すべき点がないように振る舞うことを私は強要されました。それが殿下の生き残るための「鎧」だったのです。


 一方のアレクセイ殿下は、甘やかされるだけ甘やかされ、教育らしい教育も「王子を疲れさせる」という理由で拒絶されていました。その差は歴然としていました。殿下は夜な夜な、私が持ってくる古びた書物を貪るように読み、王国の歴史、経済、政治の裏側を独学で吸収していったのです。




 殿下が「婚約者」を意識し始めたのは、アレクサンドラ様が初めて夜会に出席された時です。


 まだあどけなさの残る公爵令嬢が、王妃派の意地悪な淑女たちに囲まれていても、理路整然と、かつ優雅に切り返したあの瞬間。


「……あの人は、国の宝だ」


 殿下の瞳に、初めて「欲望」という名の光が宿ったのを覚えています。


 アレクセイ殿下は、ただの「派手な飾り」や「自分を崇拝する者」を求めて、王妃様が用意した令嬢たちを次々と品定めしていました。ですが、殿下は違いました。殿下が見ていたのは、アレクサンドラ様の髪の美しさでも、ドレスの豪奢さでもありません。


 彼女が言葉を選び、論理を組み立て、その場を支配する「知性」そのものでした。


「兄上では、あの方を潰してしまう。あの方の輝きは、あの幼稚な『光』の中では曇ってしまうのだ」


 殿下の執着は、そこから始まりました。


 アレクセイ殿下がアレクサンドラ様を「つまらない説教をする女」として遠ざけるたび、殿下は影からその様子を観察し、あの方が傷つくたび心を痛めました。


 殿下は、王妃様が自分を「毒を盛ってでも消すべきだった予備の駒」としか見ていないことを知っています。しかし、その「影」こそが、殿下には最大の武器でした。誰も殿下に期待していないからこそ、殿下は誰にも邪魔されず、この国の深淵を覗き込み、準備を整えることができたのです。


「私には、何一つ足りないものなどない。……兄上が捨てた最高の宝を、この手で拾い上げよう」


 そう仰る殿下の瞳は、アレクセイ殿下のように甘やかされた子供のそれではなく、獲物を虎視眈々と狙う獣の眼光そのものでした。私は、このお方こそがこの国の真の支配者になるのだと、その時、確信したのです。



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