89 芽吹き
白石side
「パパ急いで!早くしないと二人が来ちゃうわよ!」
「すまないね、用水路が開かれるのを忘れていた。でも今日の作業はこれでおしまいだ。何時に来るんだっけ?」
「お昼にはくるって言ってたわね。着替えてお化粧し直さないと」
「君は化粧なんかしなくたって綺麗だよ」
「……んもぉ♡パパったら♡」
「おっほん!すみません、直人さん。あれがうちの両親です」
「お、おう。……仲がいいんだな」
現時刻11:30 清音の実家に到着。
無人駅から徒歩数分の距離だが都会と違って完全な住宅街だ。静かで暖かな陽だまりの中、道路で猫がゴロゴロしている長閑な場所。
気配があるのに人が見当らないな……昼時ということもあり近所からは腹の減るいい匂いが漂い、笑い声が聞こえてくる。家で飯を食ってるんだろう。
やたらでかい木の門と高い壁に囲まれているが、清音の実家は古い建築物だ。流石に城じゃないが、敷地がかなり広いな。平屋の建物の前に車が2台、軽トラックと軽バンが並んでいる。農家らしいラインナップだ。
敷地は奥の方に向かって縦長に広がり、そのほとんどが芝生に覆われている。建物が複数あるが、どれも木造で歴史を感じさせるものばかりだ。神社みたいだな。
庭に古い井戸があって、泥だらけのトラクターが横付けされている。
そこで、これまた全身泥だらけの妙齢の夫婦がいちゃついていた。
清音の咳払いによって俺たちの来訪に気づいた夫婦が駆け寄ってくる。
頬に浮かんだエクボ、すっきりした目元、いかにも人が良さそうな顔つきに思わずホッとしてしまう。
二人ともに清音の雰囲気は似ているようだが、どちらかというと颯人さんの方の顔だな。頭の中で月読がビックリしてる。全員顔がいい。
それにしても……颯人さん似の顔から、芦屋似の顔が生まれたのか。そうか。
「おかえりなさい!電車で来たんでしょう?疲れてるだろうから早く上がって!こんな格好でごめんなさいね」
「いらっしゃい、よく来たねぇ」
「ただいま帰りました。二人とも、田んぼに行ってたの?」
「そうなのよ。今日から水路が開かれるから、水を引いておかないといけなくて。順番が最初なのを忘れてたの」
「上がってお茶でも飲んでいてくれるか?パパもママも泥んこだから、お風呂に入ってくるよ」
「はいはーい、直人さん行きましょう」
「…………」
親御さん方はニコニコした笑顔でチラチラ顔を見てくるが、警戒心が全く感じられない。俺が発する陰気な気配を感じているはずなのに、本当にいい人たちなんだとわかる。
俺は腰を折ってしっかり頭を下げた。
「いきなりお邪魔してすみません。俺……いえ、私は白石直人です。はじめまして」
「初めまして、なんて他人行儀にしなくていいんだよ!気にせずいつも通りにしてね。えぇと……なんて言ったらいいかわからないけど、私達はちゃーんと全部覚えてるよ」
「近所の人たちは忘れてしまっているけど、私達は君たちがしてくれた事を忘れない。彼の方がどんな方だったのかもね。
今日はたくさん話そう。うちは男子がいなかったから楽しみにしてたんだ!これからよろしくね」
親父さんは自分の服でゴシゴシ手を擦り、差し出してくる。迷わず握ると暖かい眼差しをもらって、緊張が解けていく。
清音からどこまで聞いてるかわからんが、嫌な印象はなさそうで安心した。
「ありがとうございます。お邪魔します」
「うん、お菓子もたくさんあるから食べて待っていてね。ママー!お風呂入ろう!」
「はーい!」
二人は俺たちより先に玄関に入り、清音がしかめ面で眉間を揉んでいる。
「一緒に入りますってナチュラルに言うのやめてほしかった……」
「ふ、こう言うのには慣れてる。本当に仲が良いんだな」
「えぇ、はい、もうバレてしまっては仕方ありませんね。うちの一族はみんなああです。仲良しすぎて困るくらいですから」
「ふ、良いことだ。家庭円満は夫婦円満から始まるってもんだろ」
「そうですね、ふふ」
清音に手を握られて、引き戸の玄関をくぐる。カラカラと音を立てた古いガラス戸は丁寧に使われていて、古いものを大切にしているようだ。
なんだか顔がにやけてしまった。
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「けぷ……失礼しました」
「お前そういうとこ芦屋に似てるよな」
「曲がりなりにも乙女ですからね!直人さんはあんなに食べて良く平気ですね?私、お腹パンパンなんですけど」
「いや、これでも割と膨れてるぞ。すごかったな……オランダ屋の落花生パイ、銚子電鉄のぬれ煎餅に道の駅の枇杷ゼリー。生栗むし羊羹、ぴーなっつ最中、バターミルクの饅頭に……あぁ、鉄砲漬けと、八街のバターピーナッツもあった」
「沢山食べさせるのが実家なんです。帰る頃には太ってますよきっと」
「そりゃいい、お前は痩せすぎだ。でも……おはぎがめちゃくちゃうまかった。帰りに買って行きたいんだが」
「お気に召しましたか?ご当地スーパー『おどや』のおはぎですよ」
「漬物と永遠ループできるよな、あれ」
「五つも食べられませんよ、普通は。ウチの父はたいそうお喜びでしたが。
いっぱい食べる君が好き!とか言ってました」
「飯食って気に入られるならいくらでも食う。いいご両親だ」
「……ふふ。ありがとうございます」
俺と清音はおやつタイムに用意してもらったお菓子とおはぎを散々食った。おかげで昼飯は食わずじまいだが、泊まる予定だから夕飯が楽しみだ。
さて……そろそろ頭を切りかえよう。今回清音のご両親が保護した龍は阿那娑達多。大意は清涼、無熱、徳が高い、人を潤す、正しい判断、大局からみた結論、宇宙の法に則った結論……てとこか。
保護対象の龍自体は既に神社に預けられて、回復待ち。農作物を荒し回っていた犯人は妖怪ではなく突然姿を現した龍に怯えた野生生物だったから、既に事件は解決したも同然だな。
それにしても……宇宙の法則、ねぇ。この世界は和風ファンタジーからSFに鞍替えか?いや、宇宙理論が引き出されてきたってことは『創世』に関わる結末になるってことだろうな。
俺たちは、過去や未来だけでなく命の始まりに触れようとしている。そんな気がしてならない。
……ダメだ、考えても無駄だな。思考が散漫だしこれ以上ないくらい面倒な事件の終わり際にしてはあっけなさすぎる。清音の担当事件はもう、考える必要は無いだろう。たまにはこういうのもあっていいよな。
サクサク、と砂をふむとつま先がくすぐったい気がする。千葉の海岸は黒い土ばかりかと思っていたが、白くてかわいた砂浜もあると今回初めて知った。
夕飯まで散歩に行ってお腹を空かせてこいと言われて、近くの海岸に来ているんだが……太平洋はだだっ広い。
浜辺が長く広がっていて、館山湾が近くにあるここは、海辺の町だ。海も山もあって資源が豊富なのが千葉の特徴と言えるだろう。事実として食糧難になっていた時期もこの辺りでは食い物に困った記録はなかった。
浜辺に来る途中には学校があり、宿屋があり、民家があり、小さな商店があり……安定した人々の生活がある。
芦屋がいたら、きっと『いいところだな』って言っていただろう。
浜辺に腰を下ろすと、柔らかい砂浜に包まれて尻がくすぐったい気がするぜ。
東の果てに向かったアイツらもこっちの方に消えてった。
今どうしてるんだろうな、常世は高天原みてぇに時間の流れが早いんだろうか。もしかしてもう子供を産んだか?
二人の住処は、安らげる家になったか?――幸せでいてくれているのだろうか。ぼうっとした頭に戻って、緊張を手放した。事件解決も済んじまっていたし、清音がいるから俺は完全に気が緩んでいる。
《・》何かを二人で話したい。その思いだけで口が勝手に開いた。
「なぁ、実家があるってどんな気分だ?俺は、もう忘れちまったよ」
「そう、ですか」
「清音はいつかここに帰るのか?海に縁があるのかな、颯人さんの血を着いでるもんな。
ここの海も好きだな……何があってもお前は一人にならないってのがわかって、嬉しかった」
波の音に消えてしまうような小さな声で尋ねると、清音は海の果てを見つめながら眉を顰める。……また凹むようなこと言っちまった。いい加減どうにかしたいが、安心したのは本当なんだ。
清音は〝俺がいなくても大丈夫〟だって知れたから。
「私の実家は、あなたの実家にもしていただきます。伏見さんが芦屋さんにそうしたように」
「……」
「私はあなたを諦めないと言ったでしょう?改心させてみせますからね」
「改心か。……約束も守らず『愛してる』さえまともに言えない、いつまでもグダグダしてる男のどこが良いんだ?」
「――あなただからです。直人さん」
清音の視線はずっと、綺麗でまっすぐだ。俺にくれる気持ちの色に鼓動が跳ね上がり、胸の中から幸せな気分が満ち満ちてくる。
思わず手を伸ばし、引っ込めた。小さな手が意気地なしの俺の手を掴み、自分の胸元へ導く。
手に触れた彼女の心臓からは、俺と同じ速さの脈動を感じた。
「俺が俺であるだけで意味を成すのか?」
「えぇ、その通りですよ。白石直人が白石直人である限り……いえ、そうでなくなったとしても私があなたを想う理由になります」
「…………」
「龍神が回復しなければ意思疎通ができませんし、明日まではお休みです。今だけはゆっくりして……ちゃんと整理して。何も考えない日にしましょう」
「休んでもいいのかな」
「はい。目的の半分はそれですよ。あなたには休憩が必要です」
手を繋いだまま砂浜に寝そべり、遠い空を眺める。穏やかな波音と温かい風に瞼を閉じると……自分の両親の顔が浮かんだ。
匂いも、声も忘れつつある俺の安らげる場所だった人たち。もうすぐ、会いに行くからな。その時には清音をきちんと紹介できたらいいが。
上空で緩やかに弧を描く風は、どこまでも柔らかく優しい感触だった。
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「では!これから第一回稲作体験会を始めます!」
「「おー!!」」
「お、おー?いや、俺手伝うって言ったけど、流石に邪魔になりませんか」
「直人くん!タメ語!タメ語でよろしく!」
「あ、はい。わかった……」
現時刻……あっという間に一晩を過ごして朝の6:30 清音の両親と本人、俺の四人で田んぼにやって来た。
夜明けと共に龍神に会いに行ったが「まだ眠い、ムリ」と言われた。どうもここの土地を守って消耗したらしく、神社から動かしたら死にかねないという事で……とりあえず農作業を手伝うことにしたんだが。
全員で麦わら帽子を被り、上下ジャージと手甲をつけている。足元は何故か地下足袋だが、田んぼの中を歩きやすいようにだそうだ。裸足だとムカデに噛まれたり怪我をするらしい。
目の前にあるでかい水田は朝の空を水面に映し出し、流れる雲が見える。まるで鏡のようだな。
「では、今日は水引後の田んぼ起こしその1ですよ!」
「本で見たが、たんぼ起こしは水を引く前だけじゃないのか?天地返しして空気に触れさせる目的と、微生物の発生を促して……」
「それはもう済んでます。水を引く前に少なくても3回は土を掘り起こして乾燥させなければなりません。水を入れる前に土を柔らかくするんですよ。
それから水を蓄えられるように畦を作り、水の出口を減らします」
「あぜ……って言うのか。畦道と同じか?」
「田んぼの四辺全てを泥で塗り固め、水が長持ちするようにします。畦道とは少し意味が違いますね。
作業が難しいので、私と母が担当です。直人さんは父のトラクターに乗ってください」
「お、おう」
やけにハキハキしてる清音は笑顔を浮かべ、田んぼの端っこで泥を練りはじめた。土を……泥で埋めるのか?
ただ水を張れば良いってもんじゃねぇのか、水田てのは。俺の知らない彼女が見えて、何となくワクワクしてきた。
「直人くんは私とペアシートだよ!浮気してないでこっちおいで〜」
「は……あぁ、お邪魔します」
親父さん……ひょうきんなのはいいが、突っ込みづらいんだよ。
トラクターってのは土を掻き起こす回転式の刃とオープンカーがくっついてるモノなんだが、これ道路を走れるんだよな。ウインカーもナンバーもついてる。メーターは40km/時が限界のようだが、エンジン音がなかなか良い。
二つついたシートに横並びで座ると、親父さんが軽快な様子で運転を始めた。水田の端っこから丁寧に土を起こしてかき混ぜているが……こりゃ難しいぞ。
下手な奴が運転したら端っこに手が入らん。柔らかい土の上だからハンドルが取られるし、水が入ってぬかるんでるからまっすぐ進まない。
チラッと見えた彼の腕は筋肉質で若々しい。農作業ってのは機械を使っても力仕事なんだな……。
「直人君もやってみる?免許持ってるんでしょ?かっこいいスポーツカー持ってるって聞いたよー」
「あ、いや……足で使ってるだけなんだが、トラクターは難しそうだな。チェンジがよくわからん」
「ふふ、車と違って耕す機能もついてるからねぇ。でも、何でも経験だよ!ささ、どうぞー」
「はぁ……」
運転をかわって座席の周りを見渡すといろんなレバーやらスイッチやらが並んでいて頭が混乱してきた。……マニュアルだからクラッチがあるんだ。
恐る恐る運転してみると、思った通り難しい。しかも……。
「重ステかよ!!いや、そりゃそうだよな。ABS必要ねーもんな……」
「はっはっはっ!筋力の鍛錬になるよ!ささ、あと40反あるからねぇ!スピードアップしようかぁ」
「40……マジか」
振動と重さの伝わるハンドルを切りつつ、俺は苦笑いでアクセルを踏んだ。
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「器用だな、お前」
「直人さんこそ端っこまで綺麗に耕しましたねぇ。私は慣れてるだけです。畦を作るのは腰をやられますけどねぇ」
「お疲れさんだったな」
「お互い様ですよ、ありがとうございます。休憩にしましょう」
田んぼの脇に並んで座り、俺たちはどろんこのままで腰掛ける。草の柔らかいクッションに腰を下ろすと、手の痺れも足の疲労もじわじわ溶けていくような感覚になった。
汗を拭い、女性二人が作った畦を眺める。
こねた泥をくわで田んぼのヘリにぺたりと貼り付け、それを繰り返すだけなんだが……こんなのできる気がしない。
『左官屋が壁を塗る』みたいなやり方だから相当器用じゃなきゃ無理だろ。
綺麗に整えられた田んぼは稲を植えるだけかと思いきや、このあと泥を均したり土の中のゴミなんかを丁寧に取り除く作業もあるらしい。
人の手で、だぞ。米は一粒残さず食わなきゃならんってのは……よく理解できた。
植える前から、米農家はこんなに大変な思いをしてるんだな。
呆然と風景を眺めていると、目の前にぬっとおにぎりが現れる。笑顔で差し出してるのは清音の母ちゃんだが、親子して動作がよく似ている。
「はい、おにぎりですよ!たくさんあるから遠慮しないでね!」
「すんません、いただきます」
「いろんな中身があるから、ロシアンルーレットみたいに楽しんで!」
「ハズレがあるって事か」
「母のハズレは恐ろしいですよ。火を吹くか、青ざめるかです」
「怖ぇ……」
俺は……頬の肉を揉みつつ自分がいつの間にか笑いっぱなしなのに気づいた。しばらくこんな風に笑っていなかったから、顔の筋肉がいてぇ。
底抜けに明るい一家の優しさが心の中に染みてきて、何度も何度も泣きそうになってる。
昔から長い間こうして〝人が生きる食い物〟を作ってきた農家の人たちは、偉大だ。医者や消防士とか、それこそ神継達とも同じような仕事のように思う。
自分たちが食う分だけ作ってるわけじゃないんだぜ?どう考えてもこの重労働の対価としては……米の価格が低すぎる。
毎年毎年こんな思いをしているのにな。
「白石くん、今度は夏においでよ。この辺りは蛍が飛ぶから、夕方の涼しい時間にお散歩するととっても綺麗だよ」
「へぇ……てか農作業して疲れてるだろうに、散歩すんのか?」
「うん。散歩というか水を見にね。収穫までは朝、昼、晩と田んぼの水位を見にきて水路の流量を調整するんだ。
雨が降ったり降らなかったりすると余計に回数は増えるねぇ。気温も関係あるよ〜」
「大変だな……『米農家が旅行に行けない』てのはそれか」
「そうねぇ。私はそれより夏の草むしりが嫌だよぉ、暑いし腰が痛いし。ずーっと水の中で歩くのは骨が折れるしね」
「鴨を導入する話は?こないだママがネットで見つけて、やってみるって言ってたでしょ?」
清音のタメ語、新鮮だよな……。両親にだけタメ語らしい。俺には使わないんだが、何でだ。
そのうち同じように話してくれんのかな。
「合鴨は可愛すぎるからだめ。無理よ」
「どう言うこと?」
「「…………」」
沈黙してしまったご両親の言いたいことはわかる。バトンタッチしてやろう。
「あー、カモはヒレで水をかき混ぜるから雑草が生えにくくなるから水田でよく採り入れられるな。鴨はひなから買って育って……秋には丸々太る。分かるか?」
「普通にご飯もあげるんだから、そうなりますよね」
「あぁ。そんで……育った鴨は食用肉になるのが普通だ」
「…………!!!」
「野生と違って変なものを食ってないから臭みが少なくて、高く売れることもあるらしい。
そのまま翌年も同じ鴨を使う、ってわけにはいかねぇんだ。飛んでいっちまうから」
「………………ふわふわの雛から育てた鴨さんが、ドナドナされるのは辛いですね」
「そうだろうな、長年一緒にいた奴が居なくなるのは寂しいもんだ。本当に、寂しいよ」
「直人さん……」
晴れた空に、小鳥が飛んでいる。木々から離れた木の葉が舞い、ひらひらと降ってくる。
親父さんとお袋さんは空気を読んで、二人きりにしてくれた。気が利きすぎるってのも血脈か?
重箱に詰まった一つ一つ丁寧に作られたおにぎり、その中に詰まっている具材。米の研ぎ方から炊き方、握り方まで細部にこだわりを感じる。
保温ポットから注いでくれた味噌汁はわかめと豆腐で、あらかじめちゃんと湯通ししてから煮てるから歯応えがいい。
何でもないように出してくれる緑茶は、めんどくさい方の淹れ方を採用してるのがわかる。あの香りは一度冷ました湯でなければ出ないんだ。
歯応えのいい副菜の漬物は青菜の筋まで綺麗に取り除き、加えられた昆布はきちんと酒で拭いてあるものだ。
手間暇が惜しみなく注がれている。
――――清音の家の物は、全部……芦屋が作る飯の味だ。芦屋が作ったものと全く同じなんだよ。
堪えていたものが勝手に溢れて、次々と顎から落ちる。
でも、今までと同じように寂寥感があったとしても絶望はない。
清音の家族に散々笑わされて、甘やかされて、人の営みを見せつけられて。
俺は、前を向きたい気分になっちまった。
伝って行く涙の温度が高く、汗をかいて下がった体温にそれを思い知らされる。
俺はまだ〝熱い涙〟が流せるんだと。
「こっちは肉味噌か。これも懐かしい味だな」
「悪魔の卵かけご飯っぽいのも、わかめとしゃけのおにぎりもあります。うちのご飯は先祖代々受け継がれたものですよ」
「……うまいな。本当にうまい」
あたたかな指先が雫に触れて、清音の優しい気持ちが伝わってくる。
失ってしまったものを取り戻せるかどうかは、確証がない。
極論を言ってしまえば、芦屋達が死んでしまっていたなら諦めることもできて、時間が癒してくれることもあるだろう。
だが、今の状況は結構キツイもんだ。どっちつかずのままで思い悩むしかなかったから。
……それならキツイ状況を変えりゃいい。それだけのことだったとようやく思い至った。
「悩んでたって、愚痴ってたって何にもなんねぇ。俺たちはあいつに希望を託されたんだ。
やる事やって、さっさと結婚しようぜ」
「はい!……はい?」
「今日の夜、龍神を迎えに行く前にご両親と挨拶して行こう。しばらく忙しくなるから」
「は?」
「婚約指輪はもう買ってある。結婚指輪は一緒に買おうな」
「…………」
真っ赤な顔になった清音の頬を撫で、額をくっつける。
――アイツ、みたいに。
「清音……愛してる」
「はわ……」
「俺達が一緒に生きる未来を、つくろう」
キラキラ輝く間近の瞳は、俺が大好きな黒と寸分違わぬ色を讃えている。
衝動のままに唇を重ねて、清音の頬をびしょびしょに濡らしてやった。
慌てて袖で吹いてるが、顔にまで泥がついちまったな。
「鼻にまでついてるぞ、可愛いけど」
「む、むぅ……むぅ…………」
「あぁ、そうだ……久しぶりにここにもしとくか」
首に下がったネックレスには、ダイヤモンドと蛍石がぶら下がって陽光を返している。
そこにも口付けると突然炸裂した光に包まれた。
「なっ!?何でだ!!」
「はわわ……!?」
清音の間抜けな声と共に真白に染まった世界の中で瞼を閉じて、愛おしい人の泥だらけの体を抱きしめた。




