87 漆黒の策謀
白石side
『瞬く星空と見つめ合う時間です。ラジオの前の皆さん、こんばんは。本日の天気は本当に不思議でしたね……』
小さなラジオから流れる音声をBGMに、俺と清音は芦屋の残した文献を読み漁っている。
全ての儀式を終え、帰宅して。現時刻は0時を過ぎた。
頁を捲る音、屋根を叩く雨音だけが聞こえて……蝋燭の灯りがわずかな風に揺れている。
『――朝から曇天でしたが冬の名残りの雪が降りしきりました。私自身は東京に居たのですが、まるでサンタさんが現れたかのような鈴の音を聞いたんですよ。
東京だけでなく日本の各地で開花予測よりも早く桜が咲き、春だけではなく全ての季節の花々を丸ごと詰め込んだようなひとときが訪れました。
これは〝吉兆〟なのか〝凶兆〟なのかと不安になられる方も多いでしょう。あなたは、どちらだと思いますか?』
「凶兆に決まってるだろ」
ラジオから流れる声につぶやきで返し、泣き過ぎて腫れた目を擦る。あの状況を見た人間は明日、全てを忘れるだろう。不文律の修正力は強い。
花を咲かせた植物達は皆、芦屋が現世を去るとともにその花を散らし、青々とした葉は落ちた。冬に逆戻りしたかのように寒くなって冷たい雨が降りしきり、現在も止む気配を見せていない。
神職になった神継にも記憶の脱落が既に現れていると連絡があった。俺は……そんな事が自分に起こるはずがないと確信していても『もしかしたら』と言う恐怖に支配されている。
今更資料を読んだって何も変わらないのはわかっているが、眠れないんだ。
『夕方前には雪も止んで空に虹が現れましたね。見た事ないほど大きくて、鮮やかな七色は心の内側にその色を刻み……私はいつのまにか涙を流していました。
そして、これは周りの人に信じていただけないのですが……私は確かに見たのです。桜色の花びらが七色の輝きを纏い、虹の橋を渡って雲間の青に溶けていくのを……』
ラジオで喋ってる奴が見たのは現実だ。桜の花びらに包まれ、女神は常世に去った。
儚い桜色を抱え、東の空に船は消えて……後に残された俺たちの心も、この国の大地も灰色に染まっている。涙雨がその悲しみを癒してくれるかどうかは、わからない。
あの後行われた国護結界の人柱交代儀式では、少々事件が起きた。
━━━━━━
「僕の代わりにお姉ちゃんが人柱になるの?」
「そうじゃよ、其方は真幸の元へゆくがよい。長きの勤めご苦労じゃったな」
国護結界の『繋』の中でも重要地点の素盞嗚神社境内で、俺たちに囲まれている小さな少年。彼は間違いなく芦屋と同じ顔をしている。女の子かと思われたが、どうやら男子のようだ……。
これは幼少期の心理的な傷が作り出した、解離性人格障害の魂だ。自分の代わりに傷を受けてくれる人格を芦屋は作り出したが、それは形代となって国護結界を支えていた。
……なんでポテト食ってるんだろう。喚び出した時から赤い箱に入ったポテトフライを齧っていて、腹の減る匂いを振り撒いている。そして、咲陽に人柱の交代と言われて渋い表情を浮かべた。
「あの、お姉ちゃんの力じゃ足りないと思う。僕でも精一杯だったんだから。
僕自身の力は強くないけど、本体につながってるから常に供給があった。もし交代なんかしちゃったら、お姉ちゃんは地中で何度も死ぬことになるよ」
「何度も死ぬとは……どういう事じゃ?」
「大地に霊力を吸われちゃうの。今はまだ僕の力がいっぱいだけど、本体が遠くにいってしまったから、接続が切れて供給がなくなった国護結界はその影響を受けてる。だんだん境界線が狭まって消えちゃうと思うよ。みんな、そのお話をしに来たんだと思ってたんだけどなぁ」
「結界が……消える」
「咲陽は、僕の本体の近くにいた人たちが寄り集まってるみたいだけどそれでも足りない。結界自体を維持できたとしても、境界線も効果も狭まると思う。
僕の声を保つならずっと謳い続けて行かなきゃだし、力を吸い取られては死んで、再生して、それを繰り返すことになるよ」
「…………」
「僕も最初はそんな感じだったし。痛いのは慣れてるけど、咲陽はそんな思いしてほしくないなぁ……僕、咲陽が好きなの」
「妾も其方が好きじゃ。愛らしい子じゃからな」
「愛らしい?」
「可愛いと言うことじゃ」
「えへ……えへへ」
咲陽の懐で顔をぐりぐり押し付けて、少年が笑う。嬉しそうに顔を綻ばせて、頬が赤くなっている。
「確かにかわいい奴だな」
「可愛いですね。異論はありません」
「パシャ!パシャシャ!!」
「少昊……やめろ。撮るな」
「無理ですよ!ヒトガミ様の小さいお姿ですよ!?あの姿を世に残さないなんて罪を犯せません!!」
「盗撮こそ犯罪じゃねぇのかよ……」
散々カメラで写真を撮ってる少昊を横目に、饕餮が進み出る。黒猫姿の中国の神は頭を下げて、芦屋(小)に撫でられている。
「にゃんこだ!かわいいね!」
「グルグル……」
「んふふ、かわいい、かわいい……かわいいねぇ。いい子だなぁ」
鈴村は耐え切れないと言った様子でしゃがみ込み、飛鳥に抱きしめられている。星野まで顔を覆ってるぞ。……そうか、こいつらは一度会ったことがあるんだったな。
颯人さんが仮死状態の時に、芦屋がこの姿になっていたと聞いた事がある。
幼少期に受けた虐待を身代わっていた少年は、今や国護結界を支える礎にまでなったのか。
もちろん、別人なんかじゃない。芦屋の魂の匂いがしているから、間違うはずがない。結局あいつは自身を捧げて全てを保っていたんだ。
しんみりした気持ちになっていると、本殿前に集まった奴らがざわめき出す。胸に忌々しい金色のバッヂをつけたスーツ姿の集団。その中にいる顔馴染みの左近は、ずっとしかめ面をしていた。
「国護結界がなくなってしまうのか」
「それは困る……再び天変地異に見舞われるのでは?」
「いや、各地の神社仏閣は復興しているし、塚や祠も復活しているだろう」
「ヒトガミが支えていたのには理由があるのだ。まだ、国護結界は奴の力がなければ……」
「――ハッ、随分な言い様だな。奴だって?……全ての復興を成し遂げたのは一体誰だと思ってるんだよ、お前らは。口先で敬うことすら出来ねぇのか。腐ってんな」
黒いスーツの集団を睨みつけ、腕を組んで黒い気持ちを言葉に乗せる。足元から黒い霧が立ち上がり、体の中に憎しみが立ち上がっていく。
「国護結界を作ったのも、全国の壊された要や繋を直したのも、今の今まで守っていたのも、誰がやった?言ってみろよ、その薄汚え口で」
「白石さん、落ち着いて下さい」
「清音は黙ってろ。一度は聞いておかなきゃならん。この国を守ってきた奴の末路が形式上だけでも『更迭』……いや『追放』だなんて、俺は納得していない。
俺たちの女神がしてきた苦労を知っておきながら、こんな言い方をするクソどもが蔓延っている……そんな国を守らなきゃならないなんて吐き気がするぜ。守ってやるにも理由が欲しいんだが、見つからないんだよなぁ」
「…………」
「天変地異を復活させたのは確かに蘆屋道満だった。だがな、その前は?
政治で民を苦しめていた過去がなかったとは言わせねぇよ。
天変地異がなくたって苦しんでいた奴らはごまんといた。誰が苦しめていたんだったかな」
多すぎる税収、保証されない安全、海外からの圧力、自給率を下げるような法令、犯罪者を増やすばかりの法律。
働いても働いても永遠に搾取されて、自分が生きるのに精一杯な生活。
出生率が下がるのも当たり前だよ。誰かを幸せにしてやれる未来なんか見えやしねぇんだから。子供を産める環境じゃなかったなんて、誰にでもわかる状態だった。
政治って、誰を守るためのものだ?誰を生かすためのものなんだ?と叫ばずにはいられない仕事をしてきた奴がいる。
国力を下げ、民衆を疲弊させてきたのはお前達政治家だ。その行先を危惧して道満は国護結界を壊した。それも元々壊れかけていたんだ。
古来の先人達が築いたものを蔑ろにし、粗末にして破壊してきた現代人。それが今更嘆いたところで、誰も聞いちゃくれねぇよ。
「俺たちが今後も国のために働くってのは、強制じゃねぇよな。真神陰陽寮は解体されちまったし、給料もねぇし。
その結果芦屋みたいに『追放』される結末がまた用意されるだけじゃないのか?そんなの御免だぜ。
あぁ……それなら、これを機会に国護結界なんか壊しちまえばいい。俺たちも楽ができるってもんだ」
首に下がった鎖が、芦屋のくれた神器の勾玉を揺らす。俺の憎しみの中でも暖かく優しい気配は絶えることはない。
奥歯を噛み締めると、胸の奥が鋭い痛みを発した。
これは芦屋が望んでいることじゃない。それでも……俺は、今目の前にいるクソッタレな奴らが、俺たちの大切な女神に不名誉を着せた事実が許せない。
星野の真剣な眼差しが俺の目に届き、視線を逸らす。鈴村と飛鳥が肩に手を置き、無言のままで『堪えろ』と伝えてくる。
わかってるよ……こんな事言うべきじゃないって、わかってはいるんだ。
「……お兄ちゃん、心が泣いてる」
「…………」
「苦しくて、痛くて、悲しい気持ちなんだよね?僕、お兄ちゃんのお顔を見てるとお胸が痛くなるの」
「…………」
足元に居る彼が、俺の着物の裾を握った。心の奥底から湧いてくる荒神堕ちの黒い気配を少年は吸い込み、まっすぐな瞳で見上げてくる。
綺麗な黒だな。芦屋が失ったものが、ここにある。星空の輝きに満ちて、ただただ誰かを『守ろう』としてきた純粋な魂が。
「前にね、妃菜に抱っこされたらとっても幸せな気持ちになったの。だから、僕もしてあげる!おいで、白石」
「……っ、」
柔らかな言葉に膝から力が抜けて、座り込んでしまった。すかさず小さな体に抱きしめられる。ポテトのいい匂いをぷんぷんさせやがって。
少年の悲しい温かさが俺の口端を勝手に上げて、目から涙がこぼれ落ちた。
こんな小さくても、芦屋は芦屋だ。心のトゲトゲした部分が抜け落ちて、暖かい体温に包まれちまった。……何にも浮かんでこなくなっちまう。
荒神になって今ここにいる奴らを殺してやってもよかったのに、そうはさせてくれないのか。
抱きしめるだけで鎮めちまうのか。そうだよな、芦屋だもんな。
「ねーえ、泣きたいのを我慢しなくていいんだよ?そんなに噛んだら、歯が割れちゃう」
「お前こそ我慢しなくていい。……芦屋の本体は今、あたたかくて優しい場所に居る。颯人さんが笑顔で迎えてくれて『よく頑張ったな』って言ってくれるから。
……かえろう、もう十分だ。休んでくれ」
目を瞑って祈るように告げる。『かえる』って、言ってくれ。俺の汚いものをこれ以上見せたくないんだ。
吐息が顔にかかって、頬に柔らかいものが触れた。満面の笑みを浮かべた彼は、ちゅうちゅうと音を立てて何度もキスをしてくる。
「むちゅっ」
「……くすぐってぇな……」
「チューしてもダメかぁ、どうしたら元気になる?」
「お前が本体のところに戻ってくれたら、元気になる」
「でも、結界が」
「大丈夫だ。お前が行ってくれるなら、俺が支える。咲陽と俺とで力を合わせればいい。それならできるだろ?」
「……うん!できると思うよー。白石はつよいもんね!」
「あぁ、そうだ。お前の左腕だからな」
腕の中でじっと瞳を見つめられて、奥深くまで光を宿した黒を見つめる。綺麗だな……俺は、芦屋の持つ黒が一番好きだった。
あいつは闇を抱えてもなお、光を宿していた。深淵を覗いてもそれに染まらなかった。いつでも眩しいものを俺に見せてくれていた。
「じゃあ、僕……行くね?」
「あぁ。元気でな。またきっと会える」
「…………ちゅっ」
頬に再び柔らかいものが触れて、彼は笑顔のままで消えて行く。
これでいい。芦屋はこの先の事を知らないでいてくれ。
「――さて、白石……どうするのじゃ?」
咲陽がニヤリと嗤い、肩を叩く。鈴村と飛鳥は苦い顔をしている……そうか、これはお前たちも視ていない未来なんだな。
「俺は世の中の人間が好きじゃねぇが、あの子をかえすためなら何でもやってやるよ……仕方ねぇ。
俺の勾玉と、あの夫婦の勾玉を持て。そして、この国の大地で眠ってくれ」
俺の言葉をそのまま受け取り、スーツの奴らは悦びを噛み殺せずにいる。バカだな……お前達のその歓喜はいつか恐怖に変わるのに。
「あの子と勾玉を交わすのではないのか?」
「清音の力の封印は、放っておけばなくなる。芦屋に〝イチャイチャするのを見せる〟って『与賞契約』をしたが、それをなしていない。
もう直ぐ無効化して、新しい女神が生まれるだろう。それまでは美しい日本を守ってやるよ」
「お主が目指す先は……何なのじゃ」
不安げな咲陽の目を覗き込み、俺の一番近くでいつも背中を見せてくれていた伏見を思う。頭の中の淡いグリーンとブラウンの瞳は俺の黒い気配を察知して、翳りを見せた。
「もちろん〝ハッピーアンドピース〟だ。芦屋が目指したゴールだよ。さぁ、国護結界の人柱……形代を俺と咲陽で引きつごう」
━━━━━━
『――今夜の激しい雨は止む気配を見せず、朝方まで降り続く予定です。現在各地で洪水、土砂災害警報が出ています。非難の指示が出た際は……』
「みんな流されればいいさ。お前達の罪を数えながら死ね」
手の中にある分厚い本を閉じて本棚にしまう。そこには『形代の支配と代償』と書かれていた。
「……直人さん」
本棚に手をかけたまま暗い気持ちでいると、清音がやってくる。なんだか眉毛がキリッとしてるぞ……同じ本の写しを読んでいたのか、マズったな。
芦屋はいつも一つの本を丸々写して二冊作り上げ、そこに独自の解釈を加えている。探していたその本は……清音が持っていた。
「何を考えているんですか」
「ん?主語がねぇからわからんが。一体何の話だ?」
「あなたが形代を負担した事についてです。私との約束も破りましたね」
「そもそも俺たちは、芦屋との与賞契約を破っているだろ?今更嘘の一つや二つ増えたってたいして変わらねぇよ」
「…………」
「俺は晴れて人柱となった。この国の根幹を支える国護結界の要だ。芦屋は戻って来てから再び自分が担おうとしていたんだろうが、そうはさせねぇ」
「どうしてですか?」
「人間は自分の思い通りにならない神を現世から追放した。常世の使者だろうが、不文律だろうが関係ない。芦屋はそんなものとっくに超越していたし、人間の主張を受け入れて常世に行っただけの事だ」
「人々の安寧のために去られた、と」
「そうだ。芦屋と颯人さんは自分の清庭を持っている。
沖縄のばあちゃん達が守り、クロノス、カイロスが時空を歪めてどこの次元にも干渉できる。イナンナ……イシュタルという伝説の戦女神が見守る居場所があるんだ。現世から去らずとも居られたはずの場所がな」
「お戻りになった芦屋さんを廃そうとする人たちが現れる事を、危惧されてるんですか?」
隣に立った清音からは鋭い霊力の波動が伝わってくる。綺麗な真っ白い気配は、俺の本心を曝け出そうと言霊を吐いてくるが……舐めんなよ。俺は陰陽師になってから最短で神になった男だぜ。
「そうだな、あいつらには幸せに過ごしてほしい。それだけだ」
「あなたの勾玉を下さらないんですか?私に」
「ごめんな、多分無理だ」
「…………これを、読んでください」
「え?なんだこれ」
「芦屋さんの書かれた、あなたの記録です」
オレンジ色の花々が飾る華やかな和紙で装丁された、手作りの本が清音によって俺の手に渡る。
それは四角い四隅が丸くなるまで作った人が触って、使っていた証が残されていた。
中を開くと……芦屋の綺麗な字がびっしりと並んでいる。
『今日、白石に接触した。昔の俺みたいにとんがっていたけど、目は綺麗な色をしている。それに、いい奴だった。
もう少し背後関係をしっかり調べて人となりを把握するつもりだったけど、俺自身がそばに居てどんな人かを知りたい。すごく楽しみだ』
『悠人君の顔は白石にそっくりだなぁ。ちょっと優しさがプラスされた感じだ。また身の回りにイケメンが増えるのか?イケメンパラダイスになりそう。いや、もうそうだよな……』
『白石を最後に仲間は増やさない事にした。これ以上俺の大切な人を作りたくない。失うのが、怖いから。
白石はちょっと危ないな……直ぐ自分のことを犠牲にしようとしてくる。颯人に愚痴ったら『其方が言うのか?』って言われた。確かに俺たちはよく似てる』
『白石の抱く悲しい愛は、俺が行き先を見つけて結びつけてやりたい。
コーヒーに砂糖を入れるときの顔、見てられないよ』
『やっと見つけた。……白石も、毎回こうやって彼女を探していたのか。
今の彼女はもう結婚しているみたいだ。遠くから見ている白石の瞳は〝悲しみ〟じゃなくて〝願い〟が見える。彼女が幸せであるように、ただそれだけを願っている』
『何度見つけても白石の運命と交わらないのはどうしてだろう?もしかして、白石自身がそう仕向けているのか?
だったら、俺の血族に引き入れて影響を打ち消せばいい。
勝手だけど許してくれるよね。俺は……白石の幸せな笑顔が見たいんだ』
『血族に魂を繋いで縁を結びつけた。これで、白石と出会えるはずだ。今度こそ、絶対に。
もうすぐだからね、白石。だから、そんなに泣かないで』
「…………芦屋……」
火傷のような痛みが足の裏からじわじわと広がっていき、頭のてっぺんまで到達した。芦屋は、俺が清音を見つけては遠くから眺めていたのを、清音を遠ざけていたのを知っているのか。
そして、自分の力で呼び寄せて出会わせてくれたのか。
『かわいいカップルだな……二人を見ていると嬉しくて仕方ない。こうでなくちゃダメだよ。白石はずうっと頑張って来たんだ。直ぐ危ない思考に走るのは、累にもよく似ている。
綺麗で、汚れていないから0か100しか考えられないんだ。本当に不器用だな』
累の文字を見た瞬間、俺はようやく思い至った。累がやって来た仕事を、芦屋は知っていたんだ。
そりゃそうか……アイツが知らないはずなんかなかったのに。全部を知っていて、なお俺たちを大切にしてくれていたんだ。愛してくれていたんだ。
順番にページを捲るたび手先が震えて、視界が歪んでくる。
分厚い本の最後には……最近書かれた文字が並んでいる。墨の匂いがふんわりと鼻に届いた。
――白石、今この本を見てるだろ?きっと、捻くれ者の君は素直に話してくれないだろうから、ここに書くね。
俺は自分が書いて来た仲間の全部をあなたに残す。みんなの名前がつけられた本には俺の過ごして来た全てと、想いが詰まってるんだ。
どうせまた極端な思考に走って、危険な事をしようとするってわかってるから。これ、重石になるだろ?みんなには内緒にしてね。
でも、もう嫌な仕事はやめてくれ。白石は清音さんと幸せになる権利がある。そうなってくれるように努力して来た、俺の苦労を無駄にしないでくれよな。
白石は、ずっとずっと俺の大切な左腕だ。だから、無理しても復活させたんだからね――
いつの間にか溢れた雫がノートをたたき、慌てて着物の袖に水滴を吸わせた。小筆で書かれた俺への言葉が、胸の中に染み込んでくる。
欠損なんて気にしないだろうと思っていたが、そんな理由で自分の体を治していたのか。
――白石に幸せになってほしい。俺も、颯人を手に入れてようやくわかった。
好きな人と一緒に居ると、何もかもが輝いて見える。色のなくなった世界でも全てが鮮明に見えて、全部が綺麗なんだ。
白石は間違えないで。
清音さんと共に手を取り合って、正しい未来を目指して。
それが、俺のためにやって欲しいことだ。俺は預言が為されなくても現世には必ず戻る。……お願いだから、俺の日本を壊さないでくれ――
「あなたは、国護結界の人柱に関与してこの国を壊すつもりだったんですか?」
「…………」
「それで、芦屋さんが戻らなくてもいい世界を作ろうとしたんですね」
清音に袖を引っ張られて、書堂の床にぺたんと座り込む。胸に抱えたオレンジ色の冊子ある金木犀は俺の誕生花で、秋を代表する花だ。
花言葉は『真実の愛』『初恋』『気高い人』……俺には似合わない言葉ばかりだな。
「私自身は真幸さんに対して、あなたほどの思い入れがないと勘違いされてるんでしょうが、違いますよ。
その本に書いてある通り、私があなたと出会ったのは真幸さんのおかげだったんですから」
「そう、だな」
「私はあなたと、真幸さんのことを本当はずっとずっと昔から知っていました」
「え?……何、言って……」
清音が俺の手を握り、祈るように唇で触れる。まるで、芦屋がくれる女神の祝福のように優しい霊力が沁みて来た。
「ふとした瞬間に、いつもあなた達がいました。前世も、その前も、ずっと、ずっと。
泣きそうな顔をしているあなたの少し後ろで眉を顰めて……決意に燃える彼女が居た。
全部、思い出したんです。あなたと真幸さんは私が繰り返す一生の中で、ずっと見守ってくれていた人だと」
「…………」
「悲しみに溺れないでください。私はあなたを諦めるつもりはありません。最後の記憶の鍵を開けるのは直人さんですよ」
「芦屋との契約は、不履行だ」
「そんなの関係ありません。私が決めたことですから。私はあなたの言葉を貰わなければ力を解放しませんよ。
知っていますか?愛というのはとても強い力を持ちます。それは時に……呪いともなる」
「まさか、自分を呪ったのか?」
「はい、とても上手にできましたよ。真幸さんと違って私はとても業が深いんです。良くないことにも手を染めて、呪いを作り出すのも得意です。人間らしいでしょう?」
「……はは、そう……か」
俯くことを許されず、清音は俺の頬を挟んで持ち上げる。間近に迫った俺の好きな人は胸の中にある冷たいものを全部追い出して、あたたかいもので満たそうとしている。
「……ダメだ、俺はお前と居てはいけない男だ」
「そんなこと誰が決めたんですか?直人さんが決めたことなら、私が全部覆してあげます。
私はあなたのことが好きですから。あなたの罪も、闇も、喜びも、幸せも私だけのものです」
あっという間に唇が触れて、今まで蓋がされていた想いが溢れ出してくる。必死でその蓋を閉めようとしても押し流されて、どこかへ行ってしまった。
「敵わねぇな、なんで身の回りの女はみんなこんなに強い奴ばかりなんだ」
「ふふ……そういう巡り合わせなんです。あなたの思い通りになんかさせませんからね。
本当にハッピーアンドピースな結末にして見せます」
「…………うん」
「お返事、くださらないんですか?」
清音の囁きに誘われて、体の自我が彼方へと吹き飛んでいく。細い顎を持ち上げて唇を食むと、月下美人の香りが理性まで奪って行くのを感じた。
「好きだ、愛してる。清音……俺を止めてくれ」
「はい、お任せください」
蝋燭の灯りが消え、闇に包まれる中で俺たちは触れ合い、熱を分け合う。
頭が溶けるような感覚と甘い痺れの海に何もかもを揺蕩わせて、俺は瞼を閉じた。




