68 悲劇のヒロイン
アリスside
「それじゃ、ふうって息をかければよかったんですか!?」
『いや、うん、そうだと思うよ。理屈で言えば』
「くっ、……んふ、ククク……」
堪えきれない笑いをもらし、颯人様が顔を背ける。えぇ、えぇ、さぞ面白かったことでしょうとも!!!
真幸さんは真っ黒から真っ白になったマガツヒノカミを見て優しい微笑みを浮かべた。
『綺麗な髪だなぁ。アリスの色とおんなじ色だ』
「ほ?私は茶髪ですが」
『ううん。俺が初めて見た時、アリスは気配が真っ白だったんだ。だから……あの時連れて帰ったんだよ』
「…………でも、それは……」
真幸さんににすっかり懐いている私の相棒は、しっかりと抱きつき頭を撫でられている。
あれが今までで一番変化があった所だろう。マガツヒノカミは真幸さんをお母さんのように慕うようになった。
私は苦い口の中を噛み締めながら、幸せそうな光景から目を逸らす。ほわほわしてる場合じゃなくなってしまってますから。さっきの清めなんかじゃ、現実的に全然足りないんですよ。
目の前に広がる瘴気はますます濃くなって、渦を巻いている。
瘴気に晒されているだけで、何かに握り潰されそうなほどに身体が痛む。私の心は澱んでいてこんな風に酷い有様だろうと思わせてくる。瘴気という穢れの影響が、こんなにモロに来るとは予測していませんでした。
この穢れと同じものは私の中にもずっとある。道満の手下出会った頃、真幸さんの心を殺すきっかけになる事をした。颯人様の命を奪い……お二人を地獄に突き落とした張本人だったんです。
他の罪は背負えても、この事についてだけはまだなにも整理できてない。ご本人達が謝罪を断り、思うところがあったとしても『私のせいではない』と言い切ってしまわれるから。私は何も言えないし、触れる事を許されない。
妃菜ちゃんが大村神社で言っていたとおり、私自身が攫ったりしなければ、あんな事にならなかったかもしれないのに。
私は……一番大切で、大好きで、尊い人を『死にたい』と思わせるほどに追い詰めた。
『アリスもくっつくか?』
「……いえ、私は」
『また変なこと考えてるだろ。いつでも甘えていいって言ったじゃないか。いつもそうだけど、俺が抱っこしたいんだよ、おいで』
真幸さんの柔らかい吐息と共に紡ぎ出される、静かな颯人様の声が胸に突き刺さる。
颯人様は、私には何も言わない。私から心臓に刃をうけて、私に食べられたのに……何にも、言わないの。
「あぁ、これはとても良いな……我も巻き込んでもらおう。とてもわかりやすくて良い癒しの方法だ」
「ひゃっ!?は、颯人様!?」
「アリスが抱えた過去は、言葉にする必要すらない事なのだ。我と真幸の魂が結ばれたのは其方のお陰だと思っている。
そのような顔をするでない」
「…………」
大きな腕がみんなを抱きしめて、温かい体温を伝えてくる。真幸さんもマガツヒノカミも幸せそうに笑い、私に触れてくれる。
きゅうっと抱きしめられて、胸の痛みが解けていく。
じっと私の瞳を見つめた弟分がうん、と頷いて握り拳を作る。そこにはすっかり成長した男の子の力強い拳があった。
「オレ、浄化できる気がしてきた」
「出来そうな色になりましたもんねー」
「うん。髪の毛白いのは落ち着かないけど、まぁいい。黒は色が染まらないだろ?これなら茶色になる」
「え?わざわざ茶色に染めるんですか?」
「うん。アリスとお揃いにする」
「……それも、いいかもしれませんねぇ」
「うん。ここを早く終わらせてそうしよう!もう少し先で浄化を試してみるか」
「はい」
和やかで暖かなひとときを過ごし、私達はまた黒い瘴気の渦の中へと歩いていく。この先で何が待っていても私が大切なお二人を守りたい。マガツヒノカミと……私よりもずっと綺麗なままの相棒と一緒に。
そう思うと、少しだけ元気になれる気がした。
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「うーーーーーん、これは……」
「もの凄い瘴気の渦だ。紫は妖気だな」
『これは流石に浄化しないと厳しいな』
「……マガツヒノカミ、大丈夫ですか?」
「あまり大丈夫ではないな」
「そうですよねー……」
私達は廃寺の奥にある小さなお堂の前に辿り着いている……筈だ。
黒と紫の入り混じった濃い瘴気はずっしりと重く、夜の闇をより際立たせている。悪霊達を祓ってきても解消しない。
周囲に何があるのかすら、もうほとんど見えなくなっている。
途中で何度も広域浄化を試みたが上手くいかず、隠り世の隔たりを超えられない他のメンバーとも合流できず……ただ茫然と禍々しい色を見つめるしかない。
暗闇の中でもピカピカ光っている颯人様と真幸さんは瘴気をもろともせずにいるが、私もマガツヒノカミも精神的な部分にまで侵食がある。
瘴気を吸ってしまうと、人間であれば臓腑が腐り、時間が経てば死に至る事もある。
神や妖怪でもそれは同じで、こんな毒沼のような気配に浸されれば心身が侵食されて……マイナス思考にとらわれ、身体のコントロールが甘くなる。
私は手に持った神器、透明な盾を地面に突き立てて膝をついた。
さっき真っ白に染まったはずのマガツヒノカミは禍々しい瘴気の色に髪が染まり、まだらに白と黒とを浮かばせている。
『やはり積極的に体に瘴気を吸い込んでる。内側から浄化する必要があるみたいだね』
「うむ……マガツヒノカミのうちに秘められたセオリツヒメノカミをいかにして目覚めさせるかだな。一度綺麗にしてやろう」
『うん』
私の頬に触れた真幸さんは額をくっつけて、瞼を閉じる。綺麗な形の唇が何かを囁き……その言霊が染み込んでくる。
虹色の結界は暖かさを失って、まだ春になりきれない世界の気温を伝えていた。
私の指先は冷えて赤く染まっている。それを見て、私の女神様が掌で包み込んでくれる。
「アリス、其方が依代であるマガツヒノカミとは全てがつながっている。心の奥底にある昏い物をどうにかせねばならぬ。自身が穢れたままでは浄化など叶わぬのだ」
「はい……」
『大丈夫だよ、アリスは必ずできる。周囲の瘴気は俺達が抑えるから、マガツヒノカミと少し話をしてみて』
「はい」
真幸さんは私にしてくれたのと同じようにしてマガツヒノカミと額を合わせ、手を握って温めてくれる。
鼻先が赤くなったマガツヒノカミは眉を顰め、真幸さんに抱きついた。
「オレとアリスは、真幸が好きだ。颯人様も好きだよ……だから、あの時。あの地下で、二人を傷つけて堕としたことをずっと忘れられない。
アリスはどうしたらそれを忘れられる?そうじゃなきゃ浄化なんて無理だ
「……マガツヒノカミ、私は忘れませんよ。私は、私の犯した罪を忘れてはいけないんです」
灰空色の瞳は半分が昏く染まり、そこから涙がぽろんと溢れる。
ごめんね……私のせいで苦しい思いをさせて。私が未熟だから、本当の力を発揮できないままでいさせて。
胸が苦しくて『くぅ』と喉を鳴かせるとマガツヒノカミが私に抱きついた。
瘴気と血の匂い……そして……私が作った蠱毒の呪いの匂いがする。
雨に濡れた土がいつまでも乾かず、そこに雑菌が繁殖し、有機物が腐って行く時のつんとした嫌な匂い。なんで……この匂いがするの?今更、どうして??
わずかな逡巡ののち、ずっと考えていたことが思考の海に浮かび、勝手に口から言葉として滑り落ちる。
「もしかして、今までの悪行全部をあなたが背負ってるんじゃありませんか?この、匂いって蠱毒の匂いですよね」
「…………」
ほとんどが昏く染まった瞳はハッとして、私から目線を逸らした。口先が勝手に紡いだ思いつきが、真相を突き止めてしまったのだ。
彼の青白い顔を両手で包み、私に向き直させる。閉じられた瞼は震えて……ポロポロと涙をこぼし続けた。
「ねぇ……教えて。私が聞こえなくなった声達は?もしかして、あなたが全部引き受けてるの?」
「……」
「そうなの?わ、私……勝手に克服したのだと思ってた。全部、全部……今までの嫌な物を全部一人でどうにかしてたの?!」
「うん」
「……」
「だって、オレはアリスが苦しいのは嫌だ。悲しいのも嫌だ。お前は哀しくて、寂しくて、死んじゃいたいって思ってオレを降ろした。
オレは、お前の苦しんでいる全てを背負ってやるつもりで来たんだ。死んでほしくなかった、生きていて欲しかった」
「なんでそんな事したんですか……どうして、」
「オレはアリスの家族になりたかった。お前は汚れたものの中に立っていたのに、何もかもが綺麗なんだ。だから、それをずっと見ていたかった」
「私は、心がきっと……汚れてます」
「ううん、アリスはずっと綺麗だよ。汚い仕事をしていても、ずっとずっと……ずっと綺麗だった」
迷いのない瞳はどんどん昏く染まって行く。周囲にヒトガタの形代を立て、真幸さんと颯人様はそこに瘴気を集めて侵食を防いでくれている。
今……私がマガツヒノカミを目覚めさせればきっと、こんなものは全部綺麗にできる。セオリツヒメノカミは星野さんと同じ潔斎を得意とする祓いの神様だもの。
だから、きっと――。
マガツヒノカミの手を握って、真幸さんと同じように瞼を閉じて額を合わせる。彼の額にはじっとりと汗が浮かび、それが私にも染み込んでくる。
『私が綺麗だ』なんて、どうしてそんなふうに思えるの?嫌々やっていたとしても、罪もない人を殺したのは間違いなく私自身のなのに。
私の手は今もきっと血に塗れている。それを全部背負って、生きていかなきゃいけないのに……どうしてマガツヒノカミが苦しむことになってしまうんだろう。なんで全部背負おうとするんだろう。
どうしたらこの子を楽にしてあげられるの?
「アリス……信じて。オレは、お前の弟で相棒だろ?それならオレのこと信じてくれよ」
「でも、」
「でもじゃない。お前がしてきたことは全部が全部呪われた行いじゃなかった。もう二度と人に戻れなくなった作られた命達……悪霊に落ちた妖怪や神、怨霊だって沢山いたよ。誰かがとどめを刺さなければならない奴ばっかりだ」
「……」
「それを救ったのはアリスなんだ。真幸と同じで綺麗な仕事だってしたじゃないか」
「――蠱毒を、作りました」
「……」
「助けてと叫ぶ人の成れの果てを続け、まだ行きたいと願う人もいた。悪霊の中にも、どうにかしたら戻ってこられそうな者もいた」
「……」
「言い訳なんか、したくないんですよ。私がしたのは誰かが行きたいと思った未来を食べてしまうことでした」
「だからなんだって言うんだよ」
「…………だから、その人の分まで生きて、」
「生きて、どうする?苦しいままで生きなきゃいけないのか?いつまで?」
「それ、は」
「アリスが望むならオレは死んでもいい。全部終わらせたって構わない。
誰がなんと言ってもお前は綺麗だ。目の中に雨上がりの空を宿して、全てを育む大地色の髪で、素直に甘えられない子供のままのお前が……誰よりも好きだ」
「……っ、」
「やめてくれ、もう。お前が苦しむのは嫌なんだ。だからオレが全部背負ってやるって決めた。
もう一度、オレを真っ白にしてくれよ。それができるのは依代のアリスだけだ」
マガツヒノカミの言葉に私の眦から勝手に滴がこぼれてくる。
『好き』と言う言葉がこんなにも悲しいなんて思わなかった。
私を綺麗だと信じ、そう思ってくれるからこそ自分を痛めつけている彼の想いが苦しい。
瞼を瞑ると、浮かんでくる。颯人様と勾玉を交わした真幸さんの姿が。
黄金色の光に囲まれて……切ない微笑みを浮かべて勾玉を交わし、全部を颯人様に預けて眠りについた、あの時の幸せそうな笑顔。
あんな風になりたかった。でも、それはきっと私にはできないから。
マガツヒノカミの汗ばんだ額に口付けて、ちゅうっと吸い取る。さっきとは違ってずるりと炭の味がする何かが喉に流れ込み、ドロドロしたものが体の中に入って行く。
これが穢れだろう事はわかっている。瘴気は命が吐き出した呪い、叫び、恨み、狂気……真っ黒なその色は穢れそのものだ。
喉の奥に滑りこんだ黒い気配の後に、何かが額からぽこりと生まれた。それを歯に咥えると、カチリ、と固い音がする。
涙をいっぱいに溜めたマガツヒノカミは、この時初めて勾玉を私に見せたのだった。
「証明、する。アリスが綺麗だって。オレの勾玉、飲んで」
「…………」
「アリスにオレの全部をやるから。信じてくれ、お前は本当に……汚れてなんかいない」
歯に挟んだマガツヒノカミの勾玉からは瘴気の匂いと、何故か乾いた風の匂いがする。それはふわふわと風を巻き起こし、私を包み込んで体が一気に軽くなった。
「――飲め!」
「こくん……」
びっくりして飲み込んでしまった。かすかなミントの味がするそれは、喉を通って胃に到達し、そこからじわじわと清浄な風を生む。
私の鼻や口からすうっとする風が吹き出して、思わず笑ってしまった。
「オレが生む勾玉は浄化が強く起こる。お前の中に汚れたものなんかもう、一つも残っていやしないんだ。
わかってくれただろ?穢れがあれば、勾玉のせいで腹が燃えてもおかしくないんだぞ」
「……訳、わかんない……くふっ」
「キスしてもいいぞ?真幸達みたいに」
「しませんよ。私はまだまだ未熟者ですし、あなたは弟ですからね!そう言うのよくわかりませんし!!」
「……チッ」
「舌打ちやめてもらえますかー?まぁ、聞き慣れてますから私は構いませんけどー」
勾玉が身体中を清めて、お腹の中やら血管がくすぐったくて仕方ない。
……そう、勾玉は……神様の勾玉はとてもとても純粋なもので。
穢れた者が触れることはできない。
無理やりそれを証明されてしまった今、私は悲劇のヒロインから降りなければいけなくなった。
頭の上に乗せられた重くて冷たい冠が粉々に砕けたような気がする。道満と晴明の遺した飾り紐を解き……髪を風に遊ばせる。
身の回りをふわふわと漂う風は白銀に輝いて、私の髪を舞いあげた。
マガツヒノカミが『綺麗だ』と言うなら、今度はそれを信じてみよう。過去が変わる訳じゃないけど……そんな私でいられるように頑張ってみるのもいいかもしれない。
いつのまにか私の隣にいた真幸さんは同じように長い黒髪を遊ばせて、穏やかな微笑みをくれた。
『――まずは、柏手だ。自身の穢れを祓い、大地や空気に満たされた本来の生命力を、潔める力を目覚めさせる。大丈夫、必要なものは全部……最初からこの世に備わっているんだ』
背中に手を添えられて、颯人様が丸まった私の背筋を正してくれる。黒と紫の渦を見つめて柏手を打ち、マガツヒノカミと手を繋ぐ。
『鼻から息を吸って、口から吐いて』
「アリスは祝詞ではなく鳴けば良い。何もかもをそこに詰めて、狐の声で高らかに声を上げよ」
「…………クォーーーン!!!!!」
私は顎を上げて、思いっきり高い声で叫ぶ。
ばーかばーか!私だって好きであんな仕事してたんじゃないんですよ!!生きるためにやったんだ!!!
嫌なことばっかりやらせて、道満のバカ!何もかも失敗して恋人も追い詰めたご先祖様のバカ!!
真幸さんみたいに必死で踏ん張って生きていたら何か変わったかもしれないのに、人である事を忘れた子達も、怨念を抱えたまま悪霊になった超常も私に恨み言吐かないでもらえますか!!
私が食べなきゃあなた達は他の何かを壊したでしょ!!あなたたちが人外に堕ちたのは、悪霊になったのは私のせいじゃありませんからね!!
大切な相棒の、家族になりたいとまで言ってくれた彼の、たった一言が……「綺麗だ」って言ってくれた優しい言葉を信じられない、私の…………ばーーーか!!!!!
私の咆哮は山々に反射して、こだまとなって消えて行く。何度も何度も反射した声は瘴気を一つにまとめ上げ、それがまっすぐ私に向かって戻ってきた。
ムカムカした心持ちのままでそれを睨んで吠えると黒が霧散して……その中に含まれた刃が姿を現す。
お堂の入り口で、腰を抜かした狐がひっくり返っている。これはあの妖怪の仕業なの?
あ、ダメだ……間に合わない。
鋭い刃が私の鼻を目掛けてやってくる。
『――!!』
「応!!」
私が自分の鼻を諦めた瞬間、真幸さんと颯人様の刀が目の前でクロスして、同時に薙ぎを放つ。あっけなくギラリと光る凶器は弾かれた。
ガランガラン、と派手な音がして地面に転がったそれをマガツヒノカミが両足で踏みしめて砕き、パリパリと割れて消えて行く。
霧散した瘴気は光の輝きに変わり、空からキラキラの光となって降り注ぐ。
「……ええぇ……?」
「見事だ、アリス」
『ふふ、一網打尽だな?瘴気もきれいに消えたよ』
「い、いえ……お二人こそ。私、何もとられませんでした……?」
『そうだよ。アリスが盗られる予定だったものは、守れた』
「ようやく一矢報いることができたな」
真幸さんと颯人様が私の頭を撫でて、マガツヒノカミが私の顔を覗き込む。
鼻先に鼻先で触れて、彼は満面の笑みでつぶやいた。
「鼻が盗られなくて済んだぞ。アリスの綺麗な顔が傷つけられなくて、本当に良かった。オレ、お前の心も顔も好きだから」
「…………」
迷いのないその一言は、私の心の奥底に染み込んで……震えるくらいの切ない気持ちを身体中に広げていった。




