65 愛するが故に愛される
伏見side
「おはようございます」
「はいはい、私は完徹ですよ。おはようございます」
「徹夜って、夜釣りをされてたからでしょう。ボウズだったようですが……。
あれ?浄真殿はタバコを喫まれる方だったんですか」
「えぇ、匂い消しがうまいんです私は。裏公務員時代からそうでした」
「何百年経っても新鮮な驚きをありがとうございます」
「はいはい、どういたしまして?伏見はこんなことで驚くんですか。可愛らしいですねぇ?」
「くっ……」
現時刻5:30 僅かな仮眠から目覚め、眠い目をこすりながら中庭でタバコに火をつけた。しゃっきりした袈裟服姿の浄真殿がいつの間にか現れて、煙草を吸っている。
私は彼が喫煙しているところなど見たことがありませんし、神々は煙草を吸わないはずですが。
しかもイヤミまで言ってますからね。この人は含みを毎回持たせた会話をするから気が抜けません。単純に「知らなかったのか、観察力不足だな」と言えばいいのに。
その通りですからね!!
「俗っぽい事をすると、まだ人でいられるような気がするんですよねぇ」
「貴方はまだ、人でありたいのですか?」
「えぇ、芦屋さんと同じですよ。あの方は人の目線に立つことができるからこそたくさんの救いをもたらしたのです。
神としてあまりにも超越しているのに自覚がない……今回声が奪われたのはいい薬になるでしょう」
「そうだといいですけれど。反省や後悔はできても、ご自身の守りになると途端に鈍くなりますから」
「まさしく。困った方です」
二人してため息を吐き出すと、煙だけが漂う。もう、寒さで吐息が白くなることはない。
気温が上がってきて、もう直ぐ春。桜の舞う季節がやってくる。中庭の枝垂れ桜も蕾をつけていた。
芦屋さんの心の中は秋でしたが、僕自身は全ての四季をお持ちだと思う。春のように暖かく、夏のように激しい熱情を持ち、秋のように優しく……冬のようにご自身にだけ厳しい。
しかし、秋……といえば。
「日本は秋津島と言われていましたね」
「唐突にどうしました?あぁ、桜の蕾がついてますね。気温もだいぶ上がりましたし……季節の移ろいを思いますか」
「はい。もうすぐ春が来ますが、芦屋さんの心象風景は秋だったと思い出したんです。稲の垂れ穂が黄金色に輝き、爽やかな風が吹き渡り、優しい夕暮れの暖かさに満ちていました」
「それはさぞ美しかったでしょう。日本の象徴である秋津を背負っているのでしょうかねぇ、トンボはいましたか?」
「はて、どうでしょう。〝アキツ〟は日本書紀で蜻蛉のことでしたっけ」
「はいはい、そうですよ。弥生時代の銅鐸にも刻まれています。飄々とした風貌ながら虻を食してしまう獰猛さもあり、前に進むしかできない虫ですから勝ち虫とも言われます」
「芦屋さんにも似てますね」
「ふ……そうですね。彼の方は諦めるという事を知りながら、そうした事は一度もない。苦しい道を選んででも進み続けていらっしゃいます」
思えば、芦屋さんはいつからそうだったのだろう。小さな頃はそうするしかなかったのかもしれないが、大人になってからはご自身の殻に閉じこもって全てを諦めていたことがあったはずだ。
裏公務員になって、颯人様と出会ってからだろうか?
おそらくそうだろう。人としての何もかもを知らずに生きてきた芦屋さんに、全てを教えたのは颯人様だった。いつか言っていた『颯人は俺の全部をくれた』という話を思い出す。
ようやく恋を自覚したのはいいことですが、そうだとすれば最初からお二人は相思相愛だったのだろうか……随分遠回りをしてしまったものだ。
まだ正式には結ばれていませんが。
「ちょうどいいから聞きますか。伏見、貴方も常世の国に行こうとしているでしょう」
「……いきなり突っ込んできますね?」
「はいはい、ずっと聞こうとしてましたから。チャンスを逃すわけには行きません。
怪しげな法術の本を集めていると聞きました。目を失った分を補うつもりかと思いましたが、先ほどの修練でそれはないと確信しました」
「すいませんね、未熟者で」
ため息を落として、視線を上げた浄真殿は僕を見つめて寂しそうな顔になった。
「未熟者でいてくれるならば良かったのですが。芦屋さんの周りは鬼才ばかりだ。私では到底辿り着かなかった場所にいる。稀有な女神が心の内側に入れた人は皆……恐ろしいほどの成長を遂げました」
「そうですね。みそっかすだったはずの鬼一も、芦屋さん以外ではただ一人二柱の神の依代ですし。霊力が血に溶けているなど恐ろしい逸材です。
鈴村は新しいアイディアを無尽蔵に生み出して、怨霊を何名も神にのし上げ、星野は国護結界の修復を担っていますし……アリスは……大妖怪です」
「アリスだけ雑ですよ」
「僕にもまだよくわからないんですよ。ただ、あの子のメンタルを握っているのは芦屋さんです。僕は凡庸ですから、あまり目立った事は出来ていません」
「凡庸なものか。とっくに私よりも先を歩いているでしょう。方々に手を伸ばして、師匠である私まで使っている」
「仕方ありませんよ、北関東は知り合いが少ないんですから。赤城山の神と手を組んでいただけて助かってます」
「影のフィクサーは怖いですねぇ……彼の方をお守りするために手を尽くす伏見を見ていると、どこまで考えているのか怖くなりますよ。
白石達を放っているのも計画のうちですか」
痛いところをつかれた。そうですね、浄真殿の言う通りだ。僕自身は累さんのかけた術を早々に破っている。
最初から無効化出来たのは清音さんだけで、彼女はきっと白石にそれを話すだろう。アリスが気づくのは時間の問題でした。あれは大妖怪で人智の及ばないステージに最初から立っていますし、累さんとも縁が深い。
件の預言の声が手に入れば、おそらくこの世からの修正力が生まれ、芦屋さんは常世の国に召される。僕自身はそれを悪いとは思わない。累さんと同意見なんですよ。
彼女だけが消費され続ける、現世から去れるなら願ってもないことだ。……僕は、ずうっと彼の方が安らぐ場所を探していた。
それが見つかっただけのこと。ならばどうにかして、ついて行かねばならない。
白石達は芦屋さんが仰る通りニューエイジだろう。この浅はかな考えを覆してくれる術を見出すかもしれないが、他人をアテにしっぱなしとは行きませんから。
僕は、正直に言うと少し疲れている。芦屋さんの悲しいお顔を見るたびに心が疼き、安穏はこの世にはないのかと失望する。どんなに手を尽くしても『悪』とは縁が切れないのがこの世の決まりなんですから。
うんざりしているんですよ。いつまでも僕の女神を傷つけようとする、この世界に。
早く颯人様と結ばれてほしい……子供はきっと常世の国でもお生みになれる。幸せだけの国があるならば、早々にお連れしたい。
もう、十分苦しんだでしょう。儚い笑顔を浮かべて『自分のせいだ』と言われると苦しくて仕方ない。
だから……僕は、目の前にぶら下げられた『常世の国への切符』を手に入れるために必死なんですよ。僕は芦屋さんが幸せになる姿を見たいんです。
一番そばで、傍に控えるのは自分以外にあり得ない。
「気持ちはわかりますよ、この世は嫌なことばかりだ。芦屋さんは長く生きてきて心を蝕まれた。それは、現世のせいです」
「…………はい」
「それでも必死で生きて、善をなそうとしている。どうしてでしょうね?博愛の精神なのか、それとも」
「愛ゆえですよ。あの人の他をたらし込む特性は、結局のところ『誰も彼もを愛してしまう』というものが付属してます。
だから身をすり減らしてしまう。消費されてしまう。そんなのはもう、懲り懲りです」
「伏見……この世から、芦屋さんがいなくなったらどうなると思いますか」
「案外どうもならないかもしれませんよ。ただ、苦しむ人は増えるかもしれません。神々には大打撃ですし、常世の国に行きたいと願う者が殺到する……かも……」
そうでしょうね、とつぶやく浄真殿は遠い目をして明けていく空を眺めた。
僕は、途端に不安な気持ちが頭をもたげる。彼がこうしてわざわざ問答をするときは、人を諭す時なのだ。
芦屋さんと颯人様だけが常世の国に召され、僕がお供できるなら一番いいと考えていた。
……これは『仲間内で済む話ではない』と浄真殿は言おうとしているのではないか。
「私は少し、怖いです。現世に関わる神々は今明確に姿を顕している。裏公務員ができるまでこんな事はありませんでした。
神がいるから具体的にどう、と言う利点を知らなかった人間は今や常識として認知している」
「…………」
「ねぇ、伏見。日本だからこんな平穏で居られるんですよ。日本人は優しく、健気で、一生懸命な人種です。国は戦もなく平和ですしね?
経済的不安定や戦争を常に抱える国が利用しようと考えたら?芦屋さんを捉えて使ってやろうと考えたら?
彼女が力を秘めてしまった今……大変危険な状態ですよ」
「――他国の情勢は常に監視しています。国護結界は問題なく保たれている。もし、芦屋さんがゆかれるとしても木偶が作られれば」
「木偶が作られたとして、国護結界を保てるのでしょうか?世界のパワーバランスは完全にこの国に傾いている。
早く常世の国に行った方がいい気がします。私自身は芦屋さんさえお幸せであればいい、あなたと同意見です」
「…………」
「現世に座す神たちは一緒に行けなかったとしても、常世へと歩を進めるべく研鑽するでしょうね。貴方のように……私もそうしています。
芦屋さんを失うなど、考えられない。神々も同じ考えだとして、この世はどのくらい超常を失うのでしょうか」
「何が、言いたいんですか」
「いえね、道満を打ち倒した後の芦屋さんの判断は間違っていなかったのではないかと思いまして」
「…………」
あのまま超常を隠すべきだった、と言いたいのだろうか。……どうして、今それを言うのか。
振り向いた浄真殿は歪な笑いを浮かべ、煙草を灰皿に押し付ける。そのままぽつり、と囁いた。
「この世を滅ぼす手段としては、大変有効だなと思います。芦屋さんのお力にここまで寄り添ってしまった世の中では効果抜群でしょう。彼女は正しくこの世界の命運を握っている」
「それは……そうですが」
「超常がいなくなったところでどうなるとも言えませんがね。
ですが、常世の国には世界をお創りになった方がいます。その方が芦屋さんを好いているとしたら。
傷つけられた彼女を常世に召し上げ、守りたいと願うのならばこの世を憎んでいても不思議はない」
「……浄、真殿」
「貴方達を責めるつもりはありませんよ。ただ、世を作り変えると言うのは容易くはありません。
その責務を負っていらっしゃるのはどなたか。芦屋さんならば、そこに気付かぬはずはありません。もう少し深慮すべきだと思うが、如何か」
足音もなく去っていく彼の背中を見送り、僕は呆然としたまま微動だにできなかった。
件の預言が耳に響く。
――私の後、件は豊葦原には生まれません。それはこの国の最期を示しています――
━━━━━━
「お帰りなさいアリス、どこに行っていたんですか?」
「アー伏見さん。ただいま戻りましたー」
中庭でぼうっとしていたら八咫烏姿のアリスが朝焼けの中を飛んできて、中庭に降り立つ。なんだか木の枝やら葉っぱやらがたくさんついてますが。
「女の子の事情ですのでー。聞かないでほしいなー、なんて」
「そう言えば僕が追求しないとでも思ってるんでしょう」
「アハハ、はい」
怪しいですね……これは追求すべきでしょうか。アリスをひと睨みしていると、窓が開く音と共甘い香りが伝わってくる。
あぁ……もう、朝練の時間ですか。
『あれ、二人ともおはよう。ずっと起きてたのか?ちょっとでも寝ないとダメだろ』
「アリスはどうしたのだ……烏の巣でも突いてきたのか」
「おはようございます、芦屋さん。颯人様」
「おはようございますー!烏の縄張り争いに参加せざるを得なくてですねー」
『縄張り争いか……アリスは怪我してないの?』
「してませんとも。烏如きにやられませんよ」
「八咫烏なんですからそうでしょうね。調停の役割を果たしてきたんですか?」
「ま、まぁそんなところですねー!」
アリスは髪についた木々や木の葉を振り落とし、斜め右上に視線を上げる。
嘘ですね、わかりやすい。
僕は心情が荒れてますからツッコミはやめておきましょう。
癒しを求めて芦屋さんを見つめると、彼女はキョロキョロ辺りを見渡して首を傾げた。
『気配があったからここに来たのにな……朝練行こうと思ったんだが、真さんが見当たらなくてさ』
「おや?先ほどまでここに居ましたが。あ、また釣りに行きましたかね。さっきもボウズでしたし」
「アー……真幸さんの釣りを教えたんですね」
「そのようです。あの方も負けず嫌いですからね」
『え、まさか徹夜で釣りしてたの?』
「そう仰ってましたよ。鬼一が犠牲になりました」
「アー、道連れですかァー。と言う事はまた朝は魚かな?」
「まだ干物が残ってるんですから勘弁してほしいですが、刺身ならいくらでも食べたいです」
「同感ですね!締めたての魚は飽きません!」
皆が一様に笑顔になって、胸の中が暖かくなる。芦屋さんの今日の笑顔は、僕の好きな方ですね。
『じゃあ海岸に行こうかな。今日の朝ごはん当番妃菜とアリスだろ?魚が捌けないなら俺が手伝うって言っといて』
「かーしこまりましたー!」
「私もお供いたします、鬼一は寝かしてやりましょう」
「それがよい。最近よく眠れていないようだからな」
玄関を開けて海岸に向かい、岸壁の突端に二つの影が見える。
「あぁ、釣り上げたか」
「…………」
颯人様が微笑み、目を細めて見る先では浄真殿が大きな魚を釣り上げている。げっそりした鬼一と共にはしゃぐ様子が見えた。
━━━━━━
「はいはい!では朝練を見せていただきましょう!ワクワクしますね!伏見!!」
「浄真殿、テンションがおかしいですよ。落ち着いてください」
「朝っぱらからウルセェ……」
「むにゃ……ぐぅ……」
現時刻6:30、水平線の向こうには太陽が頭を出して海原を赤く染め始めている。もうすぐ苛烈な光を解き放ち、この世の全てを照らし出すだろう太陽は……徹夜明けの自分には眩しすぎる。
自宅からすぐ近くの沖ノ島に造られた神社は、僕たちが祀られている。不思議なものですね、自分の社があると言うのは。
生木が雨水を吸い、まだ生きているかのように木の香りを漂わせた本殿。それを拝した芦屋さんは巫女服姿だ。
あれはおそらく、奥多摩で出会った咲陽さんの遺品だったはず。真神陰陽寮と神継の事務所の間にある人神様の社に保管していたはずだが……。
「清音、寝るな。朝の修練見せてもらうんだぞ」
「はっ!すみません。よろしくお願い申し上げます!」
笑顔で頷いた芦屋さんはかんざしを解いて豊かな黒髪を風に遊ばせ……瞳を閉じる。
海に向かった彼女の背中を大きな手で支え、颯人様が微笑む。……僕はお顔が見たいので、真横に移動してその時を待った。
「――――」
祝詞が始まり、かすかな吐息が波の音に溶けていく。辺り一面にほの暖かい空気が広がり、海上を残さず清め、陽が昇る。
朝日に輝く波間から様々な妖怪たちが顔を覗かせて、雲の上からは神々がこちらを覗いていた。
音にならない祝詞を続ける芦屋さんは、ほんのりと金色の光を纏っている。颯人様をもその光に染めて、僕の心の一番奥深くまで言霊が届いた。
(精霊が居ますね)
(あぁ、芦屋さんの祝詞で寄ってくるんです)
(これは……すごい。こんなにたくさんの精霊を集めるなんて、見たことがありません)
浄真殿の念通話は音が震えている。そう、神々や妖怪だけではなく最近になって精霊が姿を現すようになった。
それは蛍のように柔らかい光を放ち、女神の体に吸い寄せられて、祝福を残して去っていく。
………………まさか、あれ勾玉の代わりじゃありませんよね?いや、考えるのはやめましょう。面倒です。
(どうして芦屋さんの祝詞はこんなに綺麗で優しいんでしょうか。私、いつも涙が出ちゃいます)
(芦屋の心がそのまま反映されるからだろ。俺は幸せな気持ちになる)
清音さんの言葉にも、白石の言葉にも僕はただ頷きを返す。音などなくとも心に響く言霊が何もかもを綺麗にしてくださるんだと思います。
ふわふわ漂う精霊たちの光に囲まれて祝福をもらい、海から引き寄せられた妖怪たちは足元に魚や貝、どこで見つけたのか金貨を置いていく。神々は我慢しきれず雲を動かして近寄り、じいっと彼女を見つめていた。
誰も彼もが芦屋さんを愛している。世の中の全てに愛された女神は神々しく微笑み、凄烈な光を放つ陽光に頭を下げた。
『……伏見さん、俺は何も手放さないよ。俺は愚かで浅ましく、悲しく美しい命を持って一生懸命に生きる人たちが好きだから。
常世の国に行くことになっても、みんなを守りたい……それを諦める事はもう出来ないんだ』
芦屋さんが僕を見つめ、颯人様が音をなす。全てお見通しの女神は苦笑いして、僕の頭を撫でる。
『愛しているからこそ、愛されるのだ』と自分で言った言葉に殴られたような気分だ。
芦屋さんは、きっとこの世界を守り続けてしまう。ずっと、ずっと……。
僕は絶望の中に揺蕩いながら、暖かい手のひらを愛おしく思い……震える唇を噛み締め、瞼を閉じた。




