106 黄昏の境界
清音side
私たちはいま、今までに見たことのない景色を眺めている。妃菜さんと飛鳥さんの強固な結界に守られた神楽殿の周辺では変わらず緑が生きているが、その外では炎の海が広がっていた。
直人さんには聞こえていないようだけど、私には聞こえる。人間たちは武器を使って危機を迎えたこの国を手に入れようとしているのだと。
火の海から大型の戦車や空を埋め尽くすほどの戦闘機、たくさんのドローンが集まって……この国を立て直そうとしている戦士に刃を向けていた。
――はずだったのに。
暗い空は黎明を宿し、茜色からやがて桃色、水色、黄色に白……まるで真幸さんの神力のように淡く優しい七色を見せる。
いつの間にか降りしきっていた雨が炎を鎮め、大地を濡らしていく。
暖かい風が吹きはじめたと思ったら雲が晴れ、日がさして空に大きな虹がかかった。
それは、今まで見たことがないほど大きく……離れたところから見ている私たちにも全容を把握できないほどの規模。そして、それが3本姿を表している。
日が登って空が天色に染まりはじめた頃、再び天気雨が降り出した。巫女舞の時に打ち鳴らされる鈴の清らかな響きが穢れを祓い、空から桜の花びらを降らせている。
七色の輝きを纏ったそれらは大地を薄紅色に染め、太陽の光に薄くなった星の瞬きが地上に落ちてくる。
あの日、あの時見送った神々が……次々と地上に顕現しはじめたのだ。
神々が大地に足を下ろすたび晴れ間に雷撃が走り、閃光が虹を撃つ。
虹の輝きはその度に薄くなり……一つ、一つと姿を薄くしていく。
「清音!」
「……え?あ、……」
鼻と口をつたう生温い液体に気づき、手のひらで拭った。ほたほたと滴り落ちたそれは赤黒い。――血だ……そう悟った瞬間膝が砕け、直人さんの腕に抱き留められた。
危機なのに、珍しく怖い顔をしてる。あなた……しかめ面でもかっこいいですね。
「バカ!何笑ってんだよ!?しっかりしろ……魚彦!!」
「応!集まった者たちよ、我が眷属に触れて力を集めよ。審神者に神力を与えてやらねば……まだ、たくさんの神が常世よりやってくる」
魚彦さんの名前が叫ばれて、私の視界は暗転した。気絶してないから身体中がひび割れていくのがわかる。
神聖な神楽殿を、汚してしまった。
「……清音、清音!気絶するなよ、意識を保て!ネックレスを握るんだ!!」
「は、い」
「動かねぇのか?あぁ、俺と同じアザがお前にまで……」
直人さんの呼吸も乱れている。私とあなたはすでに一蓮托生ですからね。あなたの受けた呪いはやがて私にも広がるとは思っていました。
生まれ持った清めの能力が弱っているのならば……このまま飲まれてしまうかもしれない。
ネックレスが握らされて、そこから伝わる波動がひび割れていく体の時を止めてくれた。
「――落ち着け、婿殿」
「遅くなりました。清音……我が家の家訓を覚えているわね」
「パパ……?ママも、そこにいるの?」
少し前、久しぶりに再会した両親の声が聞こえる。雷鳴が響き渡る間に、二人が私の頰に触れたのがわかった。
我が家の家訓は……そう、小さな頃から耳にタコができるほど聞かされてきたのだから忘れようもない。
喉を焼く痛みや全身の痛みを深呼吸で流し、意識して顔の筋肉を動かす。
「そうよ、危機が訪れた時こそ笑え。諦めるなど里見家の辞書にない。
千年を超えて紡がれた里見の血を持ったあなたは、自分に打ち勝たなければならない。
幸せになるために生まれたのだから、それを諦めてはいけないの」
「ママ、もうちょっと優しく言ってあげたらどう?」
「パパ……こう言う時は対女の子じゃないの!私たちは戦士なのよ。伏姫から始まった宿命は、代々女当主に受け継がれるんだから」
「……はい、すみません」
包まれた頰から暖かい霊力が注がれる。そんなに沢山分けたら、二人が死んじゃう。
私なんかにそんな事しないで……たった一人の娘はあなたたちを見捨てても直人さんだけを生かそうと決意してしまった、親不孝者なんだから。
私は両親を信用しきれなかった。今までの輪廻転生で繰り返しわかったのは……私を産んだ人たちはみな、ろくでなしだったという事だ。
優しい言葉をかけてもその裏に思惑がある。私を利用して自分が利を得ようとする人たちばかりだった。
だから、底なしに優しくて無償の愛をくれるあなたたちを……信じることができなかった。
好きになってしまったから、裏切られるのが怖かったの。信じていないくせに与えられる愛に縋ってしまっていた、愚かな私を認めたくなかった。
言葉にならぬ声を吐き、必死で『やめて』と伝えても二人が送る霊力の量は変わらない。必死で顔の表情を作って伝えようとしても、二人は微動だにしない。
「そんな顔して……今更どうしたの?貴方の事は全部わかってるわよ。私たちだって伊達にヒトガミ様の血を継いでいないわ」
「そうだとも。お前の魂が抱えた業は今世で全て消える。命を賭けて現世の秩序を取り戻さんとするならば、清音の大きな徳になるからね」
そんなの、結果としてはそうかもしれないけど。わたしは、私は……直人さんのことしか考えてない。
毎日、毎日……辛い仕事を笑顔でこなして。朝早くに疲れて重たい腕をシャキシャキ動かして、お弁当を作ってくれたのに……。
私が同級生とうまく行かずに帰らなかった時も必ず見つけてくれたし、怪我をすれば本人よりも慌てていた。
何かの賞をもらったり、他愛もない成功で涙を流して喜んでくれた。
何度となく優しいその手を伸ばして、誰にも受け入れられない孤独な私を抱きしめてくれた。
私に触れる二つの手が優しくて、頭を撫でられると嬉しくて、そうしてくれるたびに泣いた。こんなに綺麗な気持ちをくれるのに私は二人を信じられない、愛せない自分に絶望した。
私は何も何も返してあげられないのに……あなたたちに想いですら報いることはできないのに。
「親はね、自分の子を愛するのは当然なのよ。そして、その心に見返りなんかいらないんだ」
「大切な清音が、健やかに笑って生きていけるなら……それだけで、私たちは十分なの。
あなたが何かの宿命で私たちを愛せなくても、信じられなくても構わないわ。だって、清音は私達の子なんだから」
「あぁ、ママの言う通りだ。親が子を愛するのに理由などないんだよ、清音。〝愛されなければ愛せない〟と誰が決めたんだい?」
優しい音が体の全てを揺らがせて、熱が眦に集まり次々と溢れていく。私という存在が出来上がってからこんなことを言われたのははじめてだった。
手のひらの上に私と同じ温度の雫が落ちる。……直人さんも、泣いてるの?
波立っていた心の水面が凪ぎ、二人から注がれる霊力に、パパとママの言葉に「そうだとも」と小さく呟いた神々の神力に魂の奥が震えた。
『愛される』って、こう言う事なんだ。なんて綺麗であたたかいんだろう。切なくて、苦しくて、嬉しいんだろう。
私も……直人さんにこんな気持ちをあげたい。
この先もずっと、ずっと、直人さんと一緒にいたい。この人にパパやママがくれたような……綺麗な愛をあげたい。
「白石、あなたは清音さんの中に潜って器を広げてください」
「うぉっ!?急に姿現してんじゃねぇよ!びびった……。どういう意味だ?」
「ヒトガミ様が成した、最高神の降臨を再現せよと言っています」
「伏見の言うとおりじゃな。天照と月読の降臨の際、我らも真幸の器を広げた。依代は今其方一人じゃ、他にはできぬ」
「な、魚彦?器ってのは何のことだ?目に見えるのか?俺はまだ依代を持ったばかりでなんもわからねぇんだが」
「バカモノ。お前さんは真幸から一体何を学んだのじゃ。
全ての力の源をすでに手にしておろう、いまじねーしょんでどうにかせい」
「魚彦は意地悪だな。暉人様が教えてやる……あのな、依代とお前は同じ血肉だろ?」
「あ、あぁ」
「オレ的には別に中に入らなくてもできると思うんだよな。お前たち睦……」
「暉人」
「ごほん。魚彦がおっかねぇな……、えーと……身も心も一つになったろ?それなら外でもできると思うぜ」
「全く、お前さんは少しは慎みを知っておくれ。
おほん、はなしがそれたがまずは白石の心根を正そう。清音の回復を待つうちに復習と参ろうか、ちょうど少昊と饕餮も来たようじゃ」
「あ、親御さんはもう休んでくれ。清音は大丈夫だ」
両親の足音が遠ざかり、複数の足音が近づく。そして、私たちを取り囲んで座る気配がする。……こんな悠長にしてていいんですか?戦争はどうなりましたか?
「清音さん、問題ありませんよ。武器を持つ人たちは皆、降り頻る桜の雨と雷鳴、消えては再び現れる虹に夢中になってますから」
吐息の起こすわずかな揺らぎ、涼やかな香り。これは伏見さんだ……間違いなく彼がそこにいる。
お線香の匂いは浄真さんですよね?……それから、真幸さんの眷属の皆さんに、常世に行ってしまった神々がどんどん集まってくるのがわかる。
言葉にならないです、こんな気持ち。絶えず湧き上がってくる暖かいものに指の先まで浸り切って、胸がドキドキする。
「さて、白石。神降しの役割は何じゃ」
「なっ……マジで問答を始めるのか」
「お前たちは未熟じゃからのう!こぉんな召喚儀式は初めてじゃが……これも真幸が仕組んだものじゃろうて。
成長とともに二柱を迎えねばならんのじゃ、のう伏見」
「僕からは何も伝えられませんよ。あちらに行った者としては、何を言っても禁忌に触れますからね」
「はいはい、私もですね。本当に大変だったんですよ?彼の方は彼方についてからすぐに行動を始めてしまって。宴の席でメンチ切って、常世の一番偉い奴に合わせろと……」
「浄真殿、そのあたりで。でも、本当にそうですね……現世から隠遁したはずが、こっちにいるよりも大変でした。
芦屋さんは最初から全てをその手にするつもりでいらしたんです。そして、それを成し遂げた。……何のために常世に行ったのか理解した僕たちは、ゲンナリしたものです」
「伏見も言っちまってるじゃねぇか。その話は後で聞かせろ。
話を戻すぞ。ええと、神降しの役割だったな……」
――神降ろし、とは。世の不文律をひっくり返して未知の理に干渉し、超常を我が身に宿すこと。
依代から作られる物質が、実態を持たない神を現世に受肉させ、肉体を同一化することでお互いを唯一無二とする。
依代に所以のある神が選ばれるのは、永遠をともにすると言う誓いを成すため。
神降ろしはプロポーズみたいなものなんですよね。
澱みない直人さんの答えに魚彦さんは「うむ」と満足げな声をあげる。
「九歌が詠うのも、そこに生まれる愛が存在するからだ。神降ろし自体が神と人との魂の結び合いなんだと思う」
「そうじゃな。じゃが、人には寿命がある。神の神力を分けたとて、こうして死に瀕する。そしていつしか寿命を迎える」
「その哀しみを抱え、幾星霜にわたって思い続けることこそが力の源である『愛』なのです。我々の国はすでに根源の真理を……九歌で説いています!人がですよ!?ふふん!!」
「少昊、その得意げな顔をやめて空気を読め。お前の解説は必要とされていない。『愛が全ての根源だ』と応えさせねばならんかったのだぞ。横槍を入れるな」
「二人はもうきちんと真理に辿り着いてますよ!……饕餮に説教れるなんて……くすん」
穏やかな笑いがあちこちで起こり、和やかな空気が満ちていく。こんな神降ろし、本当に見たことがありませんね。
「さて、その神降しに際して審神者は何かを捧げて誓わねばならん。お前たちは……あー、あれじゃな」
「ハッピーリーエバーアフターマヂ卍っしょ??」
「イナンナ……」
「魚彦お久!やーやー、清音っち生きてる?大丈夫そ?」
軽快な足音ともにやってきたイナンナさん……?は私の額に手をかざす。火傷しそうな熱がそこに生まれて、身体の末端に至るまで血管が開かれ、鼓動が早くなる。同時に血の巡りが霊力を復活させていく。
「清音っち、もう大丈夫だよ。あんたは赦しを持てなくても愛を持っている。
何だろー、アレだよね!日本の神は赦しが美徳だけどさ、アタシ達はそんなの持ってないんだよ⭐️ぶち殺す方が早いモン」
「……は、あはは」
「ん、後少し補充しよか。もうちっとだけ踏ん張ろ。
腹の中に溜まった力を意識して吸収するんだよ。霊力の流れを操作する方法は、真幸に教わったっしょ?」
「はい……」
体の感覚が戻ってきて、あちこちで血を拭っている触感が伝わってくる。
死にかけた体が息を吹き返し、私は自分の中の八房に触れた。
お腹の中で溶けてしまった私の守護神は温かい舌で私の指先を舐めて、上目遣いで見つめてくる。
そう、私の中に彼は確かに存在するのだ。触れようと思えば、きっとこうしていつでも応えてくれる。でも、それでも……直人さんと二人で暮らす家には、あなたの場所を用意していたのに。
ふわふわの毛並みを抱きしめて、私はただ泣いた。
誰も信じられなくて、孤独だと思っていたけど……こんな風にしてあなたはずっと私を守っていた。そばにいてくれた。
もう現実では触れることができないけれど、今までと同じように八房はここに居てくれる。
兄妹と言ってもいいその関係を……私は身のうちに宿したのだ。これで、私達は二度と離れる事はない。
「清音は落ち着いたな……。んで、魚彦の問答は何の意味があるんだ?」
「お主の問題を解決せねば祈りは届かない。清音は霊力が復活すれば自分で浄化できる。が、白石……お前さんまだ悩んどるな?迷いがダダ漏れじゃぞ」
「うっ……」
「生ぬるいのう、清音の性根の方が潔よいわ。白石がずっと迷っておるのは……『この世を滅ぼしてしまうのが吉か、真幸を呼び戻して秩序を取り戻すのが吉か』じゃ。
人の命が目の前で失われるのを見て、手助けしそうになりまでして……お前さんのそれは『傲慢』とも言える」
「…………」
「だが、その未熟さが全てじゃ。伏見ではなく白石が選ばれたのはそのためよ。
全てが未完のままで無限の可能性を秘め、輪廻を回りながら何度もやり直す。
諦めてはまた思い直し……地に足をついても立ち上がる。それがヒトガミが愛した人間というものじゃ」
「俺は、もう神だろ?」
「どうかのう?神としての責務は果たしておっても達観できないじゃろ?清音のように振り切りもせず、出会った悲しみに哀れをかける。
感じたままに動き、手を差し伸べてしまう。『誰も愛していない』と言いながら西東の娘にしてやったように『誰かを救おうとして』〝愛〟を施してしまう。
…………まるで真幸のようじゃ」
魚彦さんの声は優しく、じんわりと言霊になって私たちの中に沁みてくる。胸元に触れたままのネックレスの鉱石が、少しずつ振動して私たちの魂が揺さぶられる。
「そのままで良い。求められるがままに愛を施し、与え、全てを失っても清音と白石は互いに補完できよう。
そなた達がともにある限り……現世はなくならない」
「……あぁ」
ゴツゴツした指先がネックレスの石をゆっくりと持ち上げた。そして唇が触れた優しいリップ音がする。
私は瞼を開き、彼の姿を瞳に灯す。
困ったように微笑むその姿が一層愛おしく、私は手を差し伸べた。
彼もまた、両親と同じように迷わず手を握り返してくれる。確かなものを私達は持っているのだ。
「もう一度、祝詞を謳おう。今度はきっと、迷いはない……と思う」
「直人さん?」
「アー、すまんな。俺的にはまだ納得できてねぇんだよ。あいつに話を聞いて、どうするか決める。今考えられるのはそれだけだ」
「はぁ……仕方ありませんね」
彼の力強い腕に支えられて立ち上がり、黒く皮膚を染め上げた呪いの形を指先でなぞる。やはり、私では彼の呪いを解けないみたいだ。
これを解呪できるのはきっと、真幸さんなのだろう。呪いを解くには……その理由をきちんと理解できなければならない。
可哀想な『お嬢』の気持ちなど、私には到底理解できないから。
立ち上がって背筋を伸ばし、真幸さんと颯人様のように私たちは柏手をお互いの手で叩く。
音の余韻が結界を震わせて壊してしまった。驚いた表情を浮かべた妃菜さんと、飛鳥さんが目に入る。
「参ったな、短期間レベルアップを目の当たりにしちまった」
「そういう星のめぐりなもので」
「……そうだな、お前達はいつもそうだった」
「はい」
現時刻 17:00 太陽は中空から傾き、黄昏が静かに世界を染めはじめる。
丸一日に及んだ神降しの儀は、境界の刻に至ろうとしていた。
日が沈み始めた今は、昼と夜の境目がなくなる刻だ。現世と隠り世を繋げて見えないものが見えるようになり。見えていたものが見えなくなる。
終わりのようでいて、始まりのようなその刻は真幸さんが持つもの全てのように思えた。
あぁ、あの人の匂いがする……甘い梔子と、白檀の涼やかさが交わったような香りが。もう、きっとすぐそばにいるのだろう。そう思えた。
夕映えが大地を輝かせ、緩やかな風が吹く。
いつのまにか……大地には黄金色の垂穂が揺らぎ、トンボが無数に飛んでいる。
寂しくて美しい、儚くも力強い。全てが交わり曖昧になる世界を包括して優しく腕に抱いているような黄昏。
薄汚れた戦闘機も、くたびれた人間達も皆美しいその情景に魅入っていた。
「彼の方の心の中の風景そのままですね」と呟く伏見さんの声が静かに風に溶けた。




