104 未完の標
白石side
月読の笛が、夜気を震わせて鋭い一音を放つ。銀の細管からこぼれた音は、静寂の湖面にひとしずくの波紋を落とすようにゆるりと広がっていく。
――ヒトガミ召喚の儀が始まった。
現時刻……8:00。東京大結界、鉄の結界、様々な凶路を塞いだ日本の首都の中心部……そこに、奈良の原始林であいつが作った『聖域』を展開している。
この星の意思であるアマツミカボシは時空をいとも簡単に歪め、投影ではなく東京に本当の原始林を持って来てしまっている。
さらには日本の地理的中心である北緯36度と東経138度が0分00秒で交差する通称『ゼロポイント』や素盞嗚神社にある国護結界の人柱が埋まった大地までここにずらされて、設定された。要するに、何もかもがここに集まっちまってる。
都会のはずがコンクリート群は綺麗さっぱり無くなり、風がそよがせる草原はさやかに揺れて、切り離された次元の輪郭がゆらめいていた。空は赤黒く、茜の鮮やかは消えてまるで……荒神に堕ちた超常が吐き出す『瘴気』の渦の中にいるような感覚だ。穢れはないものの、不穏な空気が漂っている。
審神者である俺と清音は目を閉じ、胸の奥に流れ込む笛の旋律に耳を澄ませた。
草原に並び立つ神々が祈り、神力を俺たちに注いでくる。額の奥に刻まれた、審神者の命を守る術の痕跡がじわじわと熱を帯びていく。
この国の最高神であるアマテラスオオミカミの天照、それに連なる八百万の神達も俺たちを護ってくれている。
目的は一つ。芦屋真幸を、ヒトガミを現世に喚び戻すためだ。
国語結界が張り巡らせた赤い糸……縁を繋ぐ赤はその運命を変えていく。少しずつ綻び、列島の殆どは加護を失った。沖縄を除き、各地で天災が起こり始めている……災害が人々の命へと侵食し、皆死んでいく。
攻め入ろうとしていた諸外国も、日本にいる人間も、俺たちですら忘れてたんだ。
この国は国護結界がなければ天災に見舞われるって事を。本来、国護結界は天災からこの地を護るために作られたものだって現実を。
結界を繋ぐ糸が切れていないのは、芦屋がシステムを構築して育てた神継や神社庁に連なる者達、それに属さずとも不文律に逆らい今もなおヒトガミの記憶を宿す人々が糸を繋げているから。
まるで綱引きのように糸が引かれ、それに負けじと踏ん張っている人達がいるんだ。額に汗を浮かべ、赤い糸を握った手には血を流して必死で手を離すまいとしているが、長くは持たないだろうな。
月読の複雑な音階の笛の音で空が息を吹き返すように、ゆっくりと色づいていく。
茜と黒とがにじみ合う黎明の空に月が光を放ち、星々がかすかに脈打ち始めた。月の光は天照が発した太陽から月読の月を介して、この星に光をもたらしている。
なぜ朝がやってこないのか。これには不文律修正力が適応されないのも不可思議だ。地球という星の外にある母なる海、宇宙の意思だとでも言うように頑なに朝日は登ってこなかった。
昏空に点在する星影が瞬きを紡ぎ出し、それが次第に結びついていくつもの星座が繋がれていく。
それはあたかも天空が祈りの導線を、召喚のための陣を創っているようだった。
空に呼応するように、聖域の中心で俺たちは謳い始める。
はじまりはひふみ祝詞から――だが、今まで使っていた祝詞ではあいつが来ないことを知っている。
歌声は、空に紡がれた星々と地上を繋ぐ細い糸となり、空気をふるわせていく。
大気が揺れ、草の葉が微かに応じ、音の波に沿って白い霧が立ち昇る。
星と歌のあいだに張られる細やかな共鳴は、まるで世界が「聴いている」と告げているかのようだった。
まだ兆しは薄い。だが確かに――響いている。
願いの力が陣の下へと沁み入り、大地が応えてうっすらと光を持ち始めた。
召喚の方陣文様が浮かび上がり、祈りの声と呼応するように脈打つ。
大地も天空も反応している。だが――核心に〝あるべき存在〟は、まだ動かない。
一度始めてしまった奏上は区切りまで止められない。清音の額にも汗が滲み、俺の呪いは身体組織にじわじわと侵食を広げていく。痛みと共に臓腑が侵されていき、足が震え出した。
祝詞はやがてこの地と空だけでなく、さらに深い場所へと伸びてゆく。
まるで、神と人とを繋ぐ古の橋を呼び起こすかのように。
それでも儀は完成しない。何かがまだ遠く、重い。
(人柱用の呪術が変更できない……何か、キーワードが必要だ。某には解除できない)
(これを作った者が設定した言の葉でなければ応じぬのだろう……どうしたものか)
頭の中に響く念通話は、黄泉の国からやってきた安倍晴明と蘆屋道満が交わしているものだ。
そう、『ひとり』が人柱を背負うからずっと地中に埋められなきゃならん。これは国護結界の重大なシステム欠陥だ。俺たちは女神が作りたもうた規則をひっくり返さなければならない。
でなければヒトガミが戻ってすぐにまた人柱となってしまう。それは、アマツミカボシとの約束を違える事になる。
天災のことを一言も口にしなかったアマツミカボシは不敵な笑いを口端に乗せで俺たちの騒動を眺めている。
『人は、げに愚かしい』と繰り返し囁きながら。
「桜舞、はじめるで」
「「応!」」
真子は巫女服姿で神々の楽師を伴って壇上に上がる。俺たちは神楽殿に裸足で上がり、磨き上げられた木床の冷たさに身震いした。
これは、芦屋を一度高天原から喚び戻した時に颯人さんが使った出羽三山神社の建物だ。アマツミカボシを懐柔できたのは間違いなく清音の手柄だったな。こんなでかいものポンポン動かせねぇよ。
だが……様々な儀式で成功を記した物が集っているのに、確かに常世まで俺たちの言葉が届いているのに、アイツの気配がしない。
このまま儀式を続けて、一世一代の神降しが成るのか。こんなふうに迷いを抱えたままで、常世にまで足を伸ばしたヒトガミの依代足り得るのか。
疑問や不安が後から後から湧いてくる。
……芦屋は、こんな時どうしていたんだろう。偉業を成してきたアイツは、畏怖を抱えたまま前を向いて、立ち向かってきた意志の強さは揺らがなかったのだろうか。
――ふと、群衆の中から声が上がる。
「やはり、まだ降りぬか……」
「禊が足りぬのか、霊力の問題なのか」
「流石に浅ましい意図が伝わったのでは?」
あぁ、聞き覚えのあるセリフだな。その声は、幾度となく上げられてきたものだ。芦屋が関わった神降しでは毎回のようにこの問答が起きるのが常だった。
……そうだな、これが順序だ。このイベントが起きるってことは間違ってねぇはずなんだ。召喚の儀式とはいえこんな序盤で喚べるはずもない。力が大きく、強い何かを召喚する時は時間も労力もそれに必要なのが普通だ。
眉を顰めた清音の頬に触れて、下がった口端を摘み上げる。揺れる瞳の黒は、わずかに潤みを帯びていた。
「そんな顔するな」と言いかけて口を閉じる。お前も成長したよな……祝詞ののの字も知らなかったのに。こうしていくつもの宣りを終えてもピンピンしてる。
俺は芦屋の祝詞を聞いただけでひっくり返ってたんだぞ。霊力はすでにすっからかんだし、神力も咲陽と共に人柱をやっているから減少している。
このあと、桜舞をやって……そして、新しい祝詞の奏上が必要となるだろう。
俺はどこまで持ち堪えられる?できれば、こいつを一人にしたくはない。
この先もずっとずっと傍にいたい。
たとえ肉体が朽ち果てても、魂となって一緒にいられる。アマツミカボシへの愛の証明は、死んでしまっても成就は可能だ。
この気持ちは、八房が伏姫を娶ってからずっと願ってきた物だろう。……こんな気持ちでいたんだな、アイツは。
自分の全てを投げ打ってでも幸せにしたい人。愛という名のもとに俺は清音に縛られ、括り付けられている。それが幸せで、嬉しくて、どうしようもないんだ。
「ひゃっ!?………………な、直人さん?」
「ごめん、少しだけこのままでいてくれ」
小さな体躯を腕の中に収めて、大きく息を吐く。呼吸器はやられていない。……まだ、やれる。
「はいはい、ほなお着替え勝手にさしてもらいますー」
「真子さん、ちょっと花飾りたりひんのやない?花つんでこか?」
「あかんよ、ここは聖域の真ん中やで。捧げ物に手出しせんほうがええ」
「あぁ、確かにそやね」
「…………ッ?!す、鈴村!?」
真子と……しばらく聞いていなかった人の声が聞こえて驚きのまま顔を上げる。
勝気な笑顔を浮かべた鈴村がそこにいた。飛鳥は月読と腕を組んで何かを話している……。お前達、どこに行ってたんだよ。
わずかな期間しか離れていなかったのに、妙な安心感を覚えて思わず鈴村の顔をまじまじと眺めてしまった。
片眉を跳ね上げた鈴村は、別れた時と変わらぬままの姿だ。全身を木綿の白い着物で統一して髪を一つに結いあげ、胸元には芦屋の神器が銀色に光っていた。
「遅うなってごめんなぁ。ちぃと大陸に渡ってきてん。あと、海外の主要なとこを巡ってきた。
大丈夫やで、海外からの侵略は起こらん。女神の同盟は未だ圧力を発揮できとる」
「海外の鎮圧に回ってたのか?国内の鎮圧もしてたのに……どうやって」
「妃菜ちゃんが白石よりもだいぶ先輩なコト忘れてはる?それに、真幸と同じ鬼才なんや。舐めんといてくださーい。
役小角に再会して飛鳥がやたらはりきってもうてな、えらい強うなってしもたんよ。私、分身せんと姿を保てへんの」
「……マジか。複数に分霊して攻略してきたってか?」
「そう、マジやよ。海外への繋ぎとして私の分霊を置いてきたんや。今後もこの国を護る為に働かさしてもらいます。
白石と、清音ちゃんみたいに依代にはなれへんから」
「いや、お前の方が適任じゃないのか?勾玉の問題なら……」
「ううん、ちゃうよ。真幸は白石が現世に残した最後の頼みの綱や。あんたかて勾玉は咲陽ちゃんに持たせてるやろ。
……わからへんの?あんたは間違いなくヒトガミの左腕なんよ、私では神降しできひん」
「俺だって無謀すぎるだろ。熟してないんだ、何もかもが。
第一、常世に行けるほど綺麗な魂じゃねぇし」
「うーん?綺麗ってなにを以てそう言わはるのん?今更やけど……真幸自身も深い闇を心の中に抱えてる。
あんたは知らんやろけどな、伏見や白石がやっていたことを彼の方が知らんと思うの?全部知っていて任せていたに決まってるやろ」
迷いなく答える鈴村は苦笑いを浮かべてため息を落とす。……そりゃ、そうだろうけど。
累のやってきたことも、俺や伏見がやっていた黒い仕事も、知らないはずはなかったのだろう。
腹黒いのはたしかにそうだったが、アイツはそれでも綺麗なままだった。俺が中途半端に持つ同情心や、清音が持てない『赦し』を持ち続けていた。
名にしおう神々を従えたのはその意志と心だ。清く儚く、凛としたその気概がその存在を殊更美しく浮かび上がらせる。
いくつもの伝説を作り上げた稀有な女神は――
「真幸は人や。神の名前に人なんて普通つけんやで?あの子はずっと人のままでいたいし、人でいるつもりなんよ。
汚いものも、綺麗なものも、何もかもを持ち合わせた上で颯人様と共に戦ってきた。容赦なく屠ったこともあるし、自分の考えでたくさんの人を悲しませたりしてきたやん。
……完成して仕舞えばその先はない。〝未完のもの〟こそその先を切り開く鍵なんよ。せやからあんた達が審神者に相応しい」
俺の着物を裾の長い舞用の黒浄衣に変えて、清音も桜舞の時の白無垢姿に変えられる。……まるで結婚式じゃねぇか。
俺の思考を読んだかのように鈴村も真子もニヤけている。
「真幸はあの時、颯人様と共に生涯を誓って星に繋がった。ヒトガミの依代になるんなら同じ道を踏まなならん。
舞はビシバシ指導しながらになるやで?覚悟しぃ」
「え、ぶっつけ本番じゃないのか」
「アホなこと言わんといて。練習も含めて儀式やろ?未完の審神者が仕上がっていく様を見てもらうんや。
舞を楽しんでもらうんちゃう。その苦難を見せつけて、せいぜい真幸の同情を引いてください」
キッパリと言い切る鈴村に、真子が頷く。口寄せで安倍晴明と蘆屋道満を顕現して姿表しさせているにも関わらず、汗一つかいていない。……どうなってんだ?
「なんやな、芦屋さんを喚ぶなら普通なんて考えんほうがええて言われて納得してるんよ。私もそう思う」
「真子……まさか今までの憂さ晴らしをする気じゃねぇよな?」
「しないわけないやろ?清元にも散々イヤミ言うてもらうわ。こき使われて疲れました」
「はっは……すまん。そうか、伏見も来るよな」
「当たり前です。ウチの弟はヒトガミ様の右腕や。
多分、ついてった神さん達もぜーんぶセットやで」
「「…………」」
清音と二人で目を合わせ、ようやく思い至る。そうだよ、アイツについてった神々も戻るのか???待て、その勢いで行くと……。
「イザナミ、イザナギもセットやで。いやぁ、ようしませんわこんな大変な神降し!怖や怖や!!」
「国中の神さんを喚んで、最上神にようやく収まった真幸も、なんて恐れ入りますわぁ」
「……………………」
「私達四散しませんか?」
「したくはねぇが、しそうだ」
「龍神さん達にはあらかじめ外に出ておいてもらいましょう」
「あと、アイツの眷属達も叩き起こさなきゃならんな」
「累さんも、アリスさんもですね」
思わず奥歯を噛み締め、もう一度清音を抱きしめる。ふわりと香る梔子と月下美人の香りに頭の中が痺れるようだ。
恐ろしい事をしようとしている自覚はあったが、どうしてこうなった??マジでわからねぇ。
頭の上に乗せられた榊の冠に清音が触れて、まろい頬にエクボが浮かぶ。
俺たちは神楽殿の真ん中で二人きりになり、お互いの瞳に映る自分を見つめていた。
「やりましょう、直人さん。私たちは必ず神降ろしを成し得なければなりません。
私たちがずっと一緒にいる為にです。その副産物として国護結界を繋ぎ直して天災を抑え、結界の人柱システムを変えて、誰も犠牲にならない未来をアマツミカボシに見せてあげなきゃなりません」
「…………今更だが、だいぶヤベェ内容だな?」
「本当に今更ですよ。でも、大丈夫です。私は人のままで彼の方の依代となります。あなたと離れないように私たちを結びつける神様になっていただきましょ!」
「おま……マジか?」
「えぇ、マジですけど?私はあなたのことしか考えていませんから」
「…………わかった、俺もそう思うことにしよう。邪念とはいえ一貫した意志が必要だからな」
きょとんとした表情を浮かべた顎を摘み、そっと唇に唇で触れる。
神楽殿の下から黄色い声をあげているのはウズメか……。鬼教官が三人もいて、俺たちは恐ろしい難易度の舞を舞うのか。
…………考えたくねぇな。
俺は唇の重なりを深くして、清音に胸を叩かれるまでそのふれあいを繰り返した。




