第77話「音響魔法学」
エルデの論文を二日で読み終えた。
三日と言われたが、読み始めたら止まらなかった。朝まで読み、授業中にこっそり読み、夕食を片手に読んだ。アルトに「お前また飯食いながらノート開いてるぞ」と呆れられた。
論文の内容は——衝撃だった。
エルデの主張はこうだ。
女神がこの世界を創った時、女神の力の残滓が大地と空気と水に溶け込んだ。それが魔力だ。だが魔力は「静止した力」ではなく、「脈打つ力」である。心臓が血を巡らせるように、魔力は絶えず脈動している。
エルデはこの脈動を「魔脈」と呼んだ。
魔脈には三つの性質がある。「速さ」「深さ」「向き」。
速さとは、魔脈が一呼吸の間に何度脈打つかだ。速く脈打つ魔力は「熱」を帯び、火属性になる。ゆっくり脈打つ魔力は「冷」を帯び、水属性になる。極めてゆっくりと——ほとんど止まるように脈打つ魔力は大地のように動かず、土属性になる。絶え間なく向きを変えながら脈打つ魔力は捉えどころがなく、風属性になる。
つまり、属性の違いは「魔脈の速さ」の違いに過ぎない。火も水も土も風も、元は同じ女神の魔力。脈打ち方が違うだけだ。
——読み終えた時、俺は椅子の上で固まっていた。
これは——前世の記憶と重なる。
前世で「波」と呼ばれていたもの。「周波数」と「振幅」と「位相」。エルデは異世界の学者として、まったく別の言葉で同じ真理に到達していた。「速さ」は周波数だ。「深さ」は振幅だ。「向き」は位相だ。
だが俺はそのことを口にはしない。前世の概念をこの世界に持ち込めば、言葉が通じなくなる。エルデの言葉で考え、エルデの理論の上に積み重ねる方が正しい。
「読み終えたようだね」
エルデの研究室。三日目の朝。
「二日で読みました」
「感想は?」
「全部正しいと思います。——俺の経験と、一箇所も矛盾しない」
エルデが眼鏡の奥で目を細めた。
「二十年前、この論文を学院に提出した時、審査委員会は”根拠が弱い”と却下した。実証データがなかったからだ。理論はあるが、それを体現する魔法使いがいなかった。なにせ”魔脈を聴ける人間”がいなかったのだから」
「今はいます。俺が聴けます」
「ああ。君は魔脈を直接聴ける、おそらく世界で唯一の存在だ。——さあ、始めよう」
◇
エルデの特別講義は、週に三回。通常授業の放課後に、第三棟の空き教室で行われる。
参加者はセレンパーティの四人に加え、リオ、ヴァン、そして数名の興味を持った生徒。ガルドは「正規課程外の講義は推奨できない」と言いつつ、毎回後ろの席に座って腕を組んで聴いている。
初回の講義。
「魔力は脈打っています。これが本日の命題です」
エルデが黒板に脈動の図を描く。波打つ線。山と谷が繰り返す。
「火を出す時、皆さんの体内では何が起きていますか? 魔力が体の内側から外に向かって放出される。その時、魔力は”脈打ちながら”出ていきます。この脈の速さが——属性を決める」
チョークが走る。火の脈は山と谷が密に詰まった速い線。水の脈はゆったりと波打つ遅い線。土は限りなく平坦な線。風は不規則に跳ね回る線。
「火属性の魔力は、一呼吸の間に何百回も脈打つ。だから”熱”を帯びる。水属性は十数回。だから”冷たく、静かに流れる”。土属性はほぼ脈打たない。だから”動かず、支える”。風は一定のリズムを持たず、常に変わる。だから”捉えどころがない”」
リオが手を挙げた。
「エルデ教官。その理論が正しいなら、属性の違いは”魔脈の速さ”の違いに過ぎないということですか。火も水も、元は同じ魔力?」
「その通りです。女神が残した魔力に本来の区別はない。人間の体を通る時に、その人の体質によって脈の速さが決まる。火の素質を持つ者は魔力を速く脈打たせ、水の素質を持つ者はゆっくり脈打たせる。属性とは——体が魔力をどう脈打たせるかの違いです」
「では——それを実証できますか?」
「できます。——セレン君」
俺が立ち上がった。
「リオ、水を出してくれ。手のひらの上に小さな球でいい」
リオが右手を差し出す。掌の上に、直径三寸ほどの水球が浮かんだ。透明で、静かに揺れている。
共鳴探知を起動する。リオの水球に向かって、微弱な音を当てる。
反射パターンが返ってくる。水球の内部の魔力の脈動——ゆっくりと、深く、安定したリズム。俺の耳には「音」として聞こえる。低い弦楽器のような穏やかな響き。
「リオの水の魔脈は——脈が遅く、深い。一呼吸に十二拍。だから”静かに流れる水”が出る。ヴァンの火は一呼吸に三百拍以上だった。脈が速いほど熱を帯びるというエルデ教官の理論と完全に一致する」
教室がざわめいた。
「魔脈を聴ける? 音で?」
「属性ごとに脈の速さが違う……」
「つまり属性って、女神の魔力の脈打ち方の違いに過ぎないってこと?」
エルデが頷く。
「セレン君は音属性です。音とは——脈動そのもの。空気の脈動、物の脈動、魔力の脈動。彼はそれを”聴ける”。火属性は速い脈、水属性は遅い脈、土属性は止まった脈、風属性は揺れる脈。全てが同じ女神の魔力の、違う脈打ち方に過ぎない」
ヴァンが腕を組んだまま呟いた。
「面白い。俺の火の脈はどう聴こえた?」
「速くて鋭い。金属を叩いた時の音に近い。お前の火が青白いのは、脈の速さが通常の火属性より桁違いに速いからだと思う」
「ほう。“聴かれる”のは妙な感覚だが——悪くない」
ガルドが後ろの席で腕を組んだまま、何かを考え込んでいた。
◇
講義の後。リオが俺のところに来た。
「セレン。私の水の魔脈、もう少し詳しく聴けるか」
「聴けるけど——何に使うんだ?」
「わからない。ただ……自分の魔力の脈を”聴いてもらえる”のが、妙に面白かった」
リオの表情が、ほんの少しだけ変わっていた。「面白い」。この少年がそう言うのを、初めて聞いた。
「いいよ。今度じっくり聴かせてくれ。——実は、全属性の魔脈をできるだけ多く聴きたいんだ。転相の研究に必要で」
「転相?」
「——長い話になる。今度ゆっくり」
◇
新技の開発を二つ進めた。
一つ目。音紋標識。
モルヴァで開発した音石通信の応用で、味方や場所に「音の標識」を刻む技術。理論はモルヴァで完成していたが、学院の研究設備を使って精度を上げた。
アルトの肩に音紋を刻み、テスト。
「よし、刻めた。今からお前が学院の中を歩き回ってくれ」
「追跡魔か」
「実験だ」
アルトが学院の中を歩く。俺は寮の部屋で音紋の脈動を追跡する。
——食堂に入った。何か食べてる。鉄の食器が鳴る音。……三階に移動した。訓練場。剣を振ってる。素振りの脈動がマーカー経由で伝わってくる。……図書館に入った。静かだ。ページをめくる音。
「すげえ精度だな……」
音紋標識は完成。持続時間は約二十四時間。一日に最大六箇所まで設置可能。
そして俺は——この音紋標識を、初日の夜に感知した「不審な暗号打鍵」の発生源近くに仕掛けた。東棟の地下入口の壁に、気づかれないよう微弱な音紋を一つ。
二つ目の新技。戦術リンクの基礎実験。
これはもっと高度だ。味方の体に「共鳴マーカー」を設置し、心拍・呼吸・筋肉の動きをリアルタイムで受信する双方向の繋がり。
アルトで実験。マーカーを設置するために手を握る。
「……手を握るのか」
「魔脈を刻むには接触が必要だ。我慢しろ」
「いや、別に嫌じゃねぇけど。男同士で手を握るのはちょっと——」
「三秒で済む」
設置完了。アルトの体内の脈動がリアルタイムで流れてくる。
心拍。呼吸。胃の動き——あ。
「アルト、昼に何食った?」
「え? 香辛煮込みだけど。なんでわかるんだ」
「お前の胃が消化してる脈動が伝わってくる。香辛料の刺激で胃壁が普段より活発に動いてる」
「…………私事を覗くんじゃねぇよ」
「すまん。精度が想定以上だった」
戦術リンクは原理的に成功。だが精度が高すぎて情報量が多い。必要な脈動だけを選り分ける技術を、今後開発する。
◇
夜。音紋標識の追跡結果を確認する。
東棟地下に仕掛けた音紋マーカーが、その日の夜にも反応を返してきた。
午前二時。誰かがマーカーの近くを通過した。足音の脈動パターン——初日に聴いた「訓練された等間隔の足音」と同一。
そしてその足音が地下の奥に入り——壁を叩く暗号打鍵が始まった。初日と同じパターン。コツ、コツコツ、コツ——石造りの壁を伝わる振動。
数秒後、本棟の上階から返答の打鍵。二箇所が交互にリズムを刻んでいる。壁を介した暗号のやり取りだ。
この世界に遠距離の通信手段はない。魔法でも声を飛ばすことはできない——俺の音の矢文を除けば。だからこそ、近距離では「壁を叩く暗号」を、遠距離では伝書鳥や暗号文の受け渡しを使うのだろう。
打鍵が終わった後、男は地下の隅で何かを「置いた」音がした。小さなものが石の上に触れる音。紙か、革袋か。——もしかすると、外部の協力者が回収する伝言物かもしれない。
もう一つ。
打鍵の応答パターンを解析すると、二つの「発信源」が交互に応答している。一つは東棟地下のこの人物。もう一つは——
学院の本棟。三階。
フィンの部屋がある方向だ。
断定はできない。三階にはフィンの部屋だけではなく、他の寮室もある。だが——
研究ノートに記録する。
《不審な暗号打鍵・二日目》
東棟地下の人物:訓練された足音。壁を叩く暗号で本棟三階と連絡。地下に何かを置いて去る(外部への伝言物?)。
本棟三階の人物:東棟地下の人物と壁越しに交互に応答。フィンの部屋の方向。
断定不可。だが二箇所から連携した暗号連絡が行われている。
→ 音紋標識を本棟三階にも追加設置する。
→ 打鍵パターンを記録し、暗号の法則性を解読する。
《エルデ教官の魔脈理論メモ》
魔力は脈打つ。脈の「速さ」「深さ」「向き」が属性を決める。
火=速い脈。水=遅い脈。土=止まった脈。風=揺れる脈。
→ 俺の前世の知識と完全に対応する。「速さ」は周波数、「深さ」は振幅、「向き」は位相だ。
→ だがこの世界ではエルデの言葉で考える方が自然で、正確で、伝わる。
→ 「魔脈」という概念で全てを統一する。
ペンを置く。
学院は楽しい。講義は面白い。新しい技が生まれている。仲間がいる。
だが同時に——影がある。
この影を放置しておくわけにはいかない。まだ仲間には言わない。確証がないから。だが俺の耳は聴き続ける。
沈黙の中で、聴く。グレンが教えてくれたように。




