第76話「王立魔法学院」
王立魔法学院の校舎は、外から見た時の印象よりもさらに広かった。
エルデ教官の案内で中を歩くと、大理石の廊下が迷路のように続き、天井は二階分の高さがある。壁面には歴代の卒業生の肖像画が掲げられ、窓から差し込む光が埃の中で筋になっている。反響定位を使えば全体の構造を把握できるが、使わなくても音だけで広さがわかる。足音の反響が遠い。天井が高い場所の音は、低い場所とは残響の伸び方が違うのだ。
「教室は学年ごとに棟が分かれている。君たちは特別編入組として、第三棟の二年に配属される。同学年にはCランク冒険者経験者が他に四名。うち一名は君たちも知っている」
「ヴァンか」
「そう。ヴァン=エルフィード君。火属性。先月入学している」
やはりいるのか。
第三棟に入ると、教室の扉の前に人だかりができていた。
「あれが冒険者上がりの編入組らしいぞ」
「四人パーティごと入学って聞いた。異例だよな」
「Cランクの実績は立派だけど、座学は大丈夫なのかな」
ざわめきの中に、聴き覚えのある周波数帯が混じった。
「——で、一人は”音属性”だって。聞いたことある?」
「音? なにそれ。ゴミ属性ってやつでしょ」
「Cランクでゴミ属性って、仲間が強いだけなんじゃ」
聞こえている。全部聞こえている。
反響定位を使わなくても、俺の耳は人の囁きを聴き取る。鑑定の儀の日と同じ構図。「ぽよん」の後に広がった嘲笑と、同じ種類の音。
だが——もう、あの日の俺ではない。
教室に入った。
三十人ほどの生徒が席についている。制服は白を基調に、属性ごとの色が襟元に入っている。火は赤、水は青、土は茶、風は緑、光は金、闇は紫。
俺の襟元には——何の色もない。
「音属性」は学院の分類に存在しないから、属性色が割り当てられていない。白い襟のまま。
四人で空いている席を探す。アルトが堂々と歩き、ノーラが顎を上げて前を向き、セラが静かに微笑んでいる。俺は——耳を澄ませている。
教室の音。三十人の心拍。呼吸。衣擦れ。ペンが机を叩く音。誰かが貧乏ゆすりをしている。窓際の席の子が小声で隣と話している。
この空間の「音の地図」が、数秒で頭の中に描かれた。
前方の窓際に、ヴァンがいた。赤い髪。退屈そうな目。俺と目が合うと、片手を上げた。
「遅かったな。入学試験に手間取ったか?」
「筆記が難しかった。お前は?」
「満点だった」
「……さすがだな」
隣の席に、見知らぬ少年が座っていた。銀髪を耳の下で切り揃えた中性的な顔立ち。教科書を開いているが、目は窓の外を見ている。
リオ=カルヴァス。
前もって聞いていた名前だ。カルヴァス侯爵家の次男。学年首席。水属性。
リオがゆっくりとこちらを向いた。大きな目に、何の感情も浮かんでいない。
「君が音属性の子?」
「ああ。セレン=アルディス」
「リオ=カルヴァス。——音属性って、何ができるの?」
純粋な質問だった。嘲笑ではない。馬鹿にしているのでもない。本当に知らないから聞いている。
「色々できる。説明すると長くなるけど」
「ふうん」
それだけ。興味があるのかないのかわからない反応で、リオは窓の外に視線を戻した。
後方の席から、大きな声が飛んできた。
「おい、そこの編入組!」
振り返ると、大柄な少年が腕を組んで立っていた。角張った顔に太い眉。制服のボタンが一番上まで閉まっている。襟元は茶色——土属性。
「ガルド=ベルヘン。風紀委員だ。一つ確認させてもらう」
ガルドがまっすぐ俺の前に来た。
「君は”音属性”だと聞いた。学院の正規の属性分類に”音”は存在しない。君の使う技は学院に登録されていない未認可技術だ。未認可技術の学院内使用は規則で禁じられている」
教室がしん、と静まった。
「つまり——許可が下りるまで、君の”音魔法”は学院内では使用禁止だ」
アルトが立ち上がりかけた。俺が手で制する。
「わかった。許可の申請はどこに出せばいい?」
「教務課だ。エルデ教官が推薦状を書けば通るかもしれない」
「じゃあ今日中に出す」
ガルドが少し意外そうな顔をした。抵抗すると思っていたのだろう。
「……素直だな」
「規則に逆らっても意味がない。正面から通す方が速い」
ガルドが一瞬黙り、それから小さく頷いた。
「よかろう。——だが許可が下りるまでは、使うなよ」
ガルドが席に戻っていく。アルトが俺の耳元で囁いた。
「あいつ面倒くせぇな」
「でも悪い奴じゃない。規則に忠実なだけだ」
「規則に忠実な奴が一番面倒なんだよ」
そこへ、栗色のくせ毛をツインテールにした小柄な少女が駆け寄ってきた。そばかすの浮いた顔に、満面の笑み。
「ねえねえ、冒険者なんでしょ? すごいね! Cランクってほんとに? ヴァイパーロード倒したんでしょ? どうやったの? ねえ教えて!」
息継ぎなしの質問の嵐。
「えっと——」
「あ、自己紹介まだだった! ミーシャ=トルネ。風属性。奨学生枠。よろしくね!」
明るい。太陽のように明るい。だが俺の耳は——ミーシャの心拍が、この明るさにしては妙に速いことに気づいていた。緊張している。笑顔の裏で。
「よろしく、ミーシャ」
「セレンって呼んでいい? 私のことはミーシャって呼んで!」
ノーラがじとっとした目でミーシャを見ている。
「……馴れ馴れしい子ね」
「ノーラちゃんもよろしく! 雷属性でしょ? ライヒヴァルト家の! すごいよね!」
「ちゃん付けするな」
「ノーラさん?」
「……まあ、それでいいわ」
教室の最後列。窓から離れた最も暗い席に、もう一人——気になる人物がいた。
漆黒の髪と蒼い瞳。病的に白い肌。線が細く、風が吹いたら倒れそうな儚さ。襟元は紫——闇属性。
フィン=ロスヴァイン。
ロスヴァイン伯爵家の嫡男。闇属性。極めて珍しい属性だ。
フィンと目が合った。穏やかな微笑みを浮かべていたが——目が笑っていない。
そして俺の耳は、フィンの心臓の鼓動を聴いた。
静かだ。異様に静か。普通の人間の安静時心拍は六十から八十回。フィンの心拍は——四十五回。常人の半分に近い。体質なのか、それとも訓練で心拍を制御しているのか。
暗殺者の訓練を受けた人間は、心拍と呼吸を意図的に低下させる技術を持つことがある。ジーダが話してくれたことがある。「本当に強い暗殺者は、死体と区別がつかないくらい静かだ」と。
考えすぎか。初対面の相手を疑うのはよくない。
だが——耳は覚えている。フィンの心拍の異常な静けさを。
◇
初日の授業が終わり、夕方。
エルデ教官の研究室を訪ねた。
研究室は——ひどかった。
本が積み上がり、羊皮紙が散乱し、床に魔法陣の試し書きがあり、机の上に食べかけの干し肉が放置されている。窓は半分が本で塞がれ、残り半分から西日が差し込んで、埃が金色に光っている。
「すまない、少し散らかっていて」
「少しじゃないです」
「まあ座ってくれ。——あ、その椅子の上の本を退けて。下の方に座布団があるはずだ」
座布団は本の下から発掘された。
「さて、セレン君。まずは音魔法の使用許可申請だが、私が推薦状を書く。明日には通るだろう。ガルド君は規則に厳格だが、正規の手続きを踏めば文句は言わない」
「ありがとうございます」
「それより本題だ」
エルデが眼鏡を押し上げ、目を輝かせた。研究者の目。
「君の研究ノートを見せてくれないか。報告書に書かれていたデータを、原典で確認したい」
研究ノートを渡した。エルデが頁をめくるたびに、小さな感嘆の声を漏らす。
「反響定位……共鳴探知……固有振動数の実測値……これは……」
十分ほど黙読した後、エルデが顔を上げた。
「セレン君。これは宝だ。——だが体系が欠けている。発見は素晴らしいが、“なぜそうなるのか”の理論的な説明が不十分だ。経験則で全てを作っているから、再現性が保証されていない」
「わかっています。だからここに来た。理論を学びたい」
「よろしい。私の二十年の研究と、君の半年の実践を組み合わせれば——音響魔法学という新しい学問分野が作れる。いや、作らなければならない」
エルデが立ち上がり、本の山の中から一冊を引き抜いた。崩れかけた山が奇跡的に崩れなかった。
「これが私の論文だ。二十年前に発表して、学院の主流派に異端扱いされたものだ。『属性は振動の表現形に過ぎない——魔力波動論序説』」
受け取る。表紙は黄ばみ、角が擦り切れている。二十年の歳月が染み込んでいる。
「これを読め。三日で。そこから共同研究を始める」
「三日? この厚さを?」
「君ならできる。——だって君は、この論文の中身を”経験”で既に知っているのだから。理論を読めば、自分の経験と繋がるはずだ」
研究室を出る。西日が廊下を染めている。
手の中にエルデの論文。二十年前に正しかったが、誰にも信じてもらえなかった理論。それを証明できるのは——俺の音魔法だけだ。
◇
夜。男子学生棟の自室。
学院の寮は男子棟と女子棟が中庭を挟んで完全に分かれている。アルトと二人部屋。ノーラとセラは女子棟の二人部屋。棟の間は百歩以上離れていて、夜間の行き来は禁止されている。
だが——音の矢文なら届く。
窓を開け、女子棟の方角に向かって指向性音波を飛ばした。百歩。精度は落ちるが、ギリギリ実用範囲だ。
——ノーラ、セラ、聞こえるか。おやすみの挨拶。
数秒後、女子棟の窓が微かに開く音が聴こえた。ノーラの声——ではなく、ノーラが窓枠を叩く音。二回。「聞こえた」の合図だ。声を出すと同室のセラが起きるから。
こうして毎晩、棟を越えて連絡を取る習慣ができた。矢文で情報を共有し、翌日の予定を確認し、緊急時には即座に連絡が取れる態勢を整える。モルヴァ以来の戦術リンクの延長だ。
……ミロに「追跡魔か」と言われそうだが、パーティの連絡手段として必要なのだ。
アルトは既に寝息を立てている。傭兵団仕込みの「すぐ寝てすぐ起きる」習性。
俺は窓を開けて、夜の学院に耳を澄ませた。
学院は静かだ。だが「静か」の中に、無数の音がある。
風が尖塔を撫でる音。夜警の足音。図書館の時計が時を刻む音。どこかの寮室で誰かが寝返りを打つ音。厨房のかまどがゆっくり冷えていく音。
反響定位を展開する——許可はまだだが、寮の自室の中なら問題ないだろう。
学院全体の「音の地図」を描く。
建物の配置。廊下の幅。天井の高さ。壁の材質。窓の数。全てが音で「見える」。
そして——
一つ、気になる音があった。
学院の東棟、地下。微かな振動。人の足音——だが、妙に規則的だ。普通の人間の歩行は不規則なリズムを持つ。だがこの足音は、完璧に等間隔。訓練された歩行。
そして数分後、その足音が止まり——別の振動が始まった。石の壁を何かで叩いている。規則正しく、だが不自然なリズムで。コツ、コツコツ、コツ、コツコツコツ——。暗号だ。
壁を叩く振動は石造りの建物をよく伝わる。地下から壁を叩けば、振動は構造体を伝って建物全体に微かに響く。普通の人間には聞こえない。だが俺の耳には——聞こえる。
そして驚くべきことに、数秒後、別の場所から「返答」の振動が来た。本棟の上階。壁か床を同じように叩いている。別のリズム。別の暗号。
誰かが、学院の地下と上階で、壁を叩く暗号で連絡を取り合っている。
深夜に。隠れて。訓練された足取りで。
気のせいかもしれない。教官の夜間研究かもしれない。
だが俺の耳は——「違う」と告げている。
この暗号打鍵のリズムは、軍や間諜が使う類のものだ。グレンが村にいた時、ごく稀に壁を指で叩いているのを見たことがある。あの時は癖だと思ったが——あれも暗号だったのかもしれない。
研究ノートを開いた。二十三頁目。
《学院初日・メモ》
音魔法の使用許可:明日申請。エルデ教官が推薦。
共同研究開始。エルデの論文を三日で読む。
《気になること》
・フィン=ロスヴァインの心拍が異常に低い(安静時45回/分)。体質か訓練か。
・ミーシャ=トルネの心拍が笑顔に対して速すぎる。緊張している。理由不明。
・東棟地下で深夜の不審な振動。訓練された足音+壁を叩く暗号打鍵。本棟上階から返答あり。要追跡。
ペンを置いて、窓の外を見た。
月が学院の尖塔を照らしている。
新しい場所。新しい音。新しい謎。
——面白くなってきた。




