第71話 旅立ちの朝
モルヴァを発つ前日の夜。
白い梟亭の食堂で四人が集まった時、セラが切り出した。
「セレンさん。一つ、相談があります」
いつもと少し違う声音だった。穏やかさの中に、覚悟のような硬さが混じっている。
「何だ?」
「私は——聖堂の預かりの身です。モルヴァのアルセリア聖堂に所属する聖女候補として、この街に留まるのが本来の務めです」
知っていた。セラは冒険者ギルドに登録してはいるが、正式な冒険者というよりは「聖堂からの派遣」に近い立場だった。回復術の実地修練という名目で、俺たちのパーティに同行していた。
「王都に行くことは、聖堂の管轄を離れることを意味します。モルヴァの聖堂長に許可を得なければなりません」
「それは——許可は出そうなのか?」
「今朝、聖堂長に話をしてきました」
セラが少しだけ目を伏せた。
「聖堂長は反対しました。聖女候補が冒険者と共に王都に行くなど前例がない、と。聖堂に留まり、祈祷と治癒の修行に専念すべきだと」
ノーラが眉をひそめた。
「じゃあ、無理ってこと?」
「最初はそうでした。でも、私はこう伝えました」
セラが顔を上げた。穏やかな瞳の中に、静かな炎が灯っている。
「『聖女の務めは人を癒すことです。ならば、私が最も多くの人を癒せる場所にいることが、神への最大の奉仕ではないでしょうか。祈祷室で祈るよりも、戦場で仲間の傷を癒す方が、神の御心に適うと私は信じます』と」
アルトが目を丸くした。
「セラ、お前……聖堂長に逆らったのか」
「逆らったのではありません。自分の信仰を述べただけです」
セラが微笑んだ。だがその微笑みの下には、相当な覚悟があったはずだ。聖堂の組織の中で、預かりの身である聖女候補が上長に異を唱えるのは、軽いことではない。
「結果、聖堂長は条件をつけて許可を出してくれました。『王立魔法学院に在籍し、正規の課程を修める限り、聖堂の推薦状を維持する。ただし、聖女候補としての品位を損なう行いがあった場合、推薦は取り消される』と」
「つまり、学院に入れば——」
「はい。王都の聖堂に籍を移す形で、皆さんと一緒に行けます」
セラがテーブルの上に、一通の封書を置いた。聖堂の封蝋が押された正式な許可状。
「行きたいんです。皆さんと」
声が僅かに震えていた。セラはいつも穏やかで、感情を大きく表に出す人ではない。だがこの瞬間、彼女の言葉には切実な祈りのような響きがあった。
「聖堂にいた頃の私は、神の声を聴いて、神の教えに従い、与えられた場所で与えられた役割を果たしていました。それで十分だと思っていました」
セラが俺たちを見回した。
「でも皆さんと一緒に戦って、走って、笑って、怪我をして、泣いて——わかったことがあります。神の声を待つだけでは足りない。自分の声で、自分の意思で、選ばなければならない時がある」
「セラ……」
「私はこのパーティを選びます。聖堂が駄目と言っても、たぶん私は行く方法を探したでしょう。許可が出たのは幸運ですが、許可がなくても——」
セラは言葉を切り、少しだけ恥ずかしそうに笑った。
「ごめんなさい。聖女候補らしくないことを言いました」
「いや」
俺は立ち上がった。
「セラ。ありがとう。お前がいないパーティは考えられない。お前の回復がなかったら、俺たちは何度も死んでた。——王都でも、学園でも、一緒だ」
アルトが拳をテーブルに置いた。
「当たり前だろ。五人パーティ——いや、ミロも入れて六人のチームだ。一人も欠けるなんて許さねぇよ」
ノーラは黙ってセラの手を握った。何も言わなかったが、指先に力がこもっていた。それだけで十分だった。
セラの目に涙が滲んだ。だがすぐに拭い、いつもの穏やかな笑みに戻った。
「ありがとうございます。——では、荷造りをしなければ」
「荷造りも何も、お前の荷物は杖と薬草袋と祈祷書しかないだろ」
「それと、皆さんの包帯と軟膏です。一番多い荷物は医療品ですよ」
四人で笑った。明日への不安は、笑い声のかたちをした勇気に変わった。
◇
翌朝。晴れ。
白い梟亭の主人が、朝粥を特別に大盛りにしてくれた。普段はぶっきらぼうな中年の男が、今日は鍋の前で何度も味見をしていた。
「お代わりもあるから。何杯でも食え」
「ありがとう、主人。ここの朝粥が一番好きだった」
「泣いてねぇぞ。湯気が目に沁みただけだ。——いい旅をな、坊主たち」
荷物は少ない。着替え、研究ノート、隕鉄の短剣、グレンにもらった研ぎ油、母の手紙。旅費は金貨八枚の半分を使い、残り半分はミロに預けた。何かあった時のための保険だ。
宿を出ると、朝日がモルヴァの石畳を白く染めていた。
ギルドの前に、見送りの人が集まっていた。
思ったより多い。
ゴルドが腕を組んで柱に寄りかかっている。前掛けの煤が朝日で光っている。
「坊主。刃を折るんじゃねぇぞ。隕鉄は頑丈だが、使い手が馬鹿なら何でも壊れる」
「気をつけます」
「研ぎ油は二ヶ月に一回。振動を使った後は必ず拭け。忘れるなよ」
「忘れません。……ゴルドさん、世話になりました」
「世話なんぞしてねぇ。面白い技術を見せてもらっただけだ」
ゴルドはそれだけ言って背を向けた。だが去り際に、低い声でぼそりと付け加えた。
「また来い。次は何を見せてくれるか、楽しみにしてる」
Eランク試験で戦ったカーラが手を振った。赤い髪が朝風に揺れている。
「学園でも頑張れよ、音の子!」
「そのあだ名、いい加減やめてくれ」
「無理。定着した」
フェリクスが眼鏡を押し上げながら、控えめに手を挙げた。
「音石通信の続報、楽しみにしてるよ。あれが完成したら僕にも一つくれ」
「覚えておく」
ドルクが無言で近づいてきた。巨体の割に足音が静かだ。言葉は一つもなく、ただ拳を突き出してきた。
合わせる。ゴツン、と岩同士がぶつかるような硬い音がした。ドルクの拳は本当に岩のようだ。
それだけで十分だった。ドルクは頷いて、人混みの中に戻っていった。
そして——ルーイ。
フードの少年は人だかりの端に立って、壁に背を預けていた。他の冒険者たちとは距離を取り、一人で佇んでいる。目が合うと、フードの影からかすかに口角が上がった。
「また会うかもしれない」
「ああ。その時は味方でいてくれよ」
「保証はしない」
同じやり取り。三度目だ。だがルーイの声に、最初の時にはなかった温度がわずかに混じっていた。俺の反響定位でなくても聴き取れるくらいの、確かな変化。
ルーイは何も付け加えず、壁から背を離して歩き去った。足音がほとんど聞こえない。あいつの隠形術は相変わらず俺の理解の外にある。いつか、その秘密を聞ける日が来るだろうか。
最後にミロが来た。
荷車はなかった。今日は配達の日ではないのだ。両手がぶらぶらしていて、何だか落ち着かない様子で俺たちの前に立った。
「あの、えっと」
「どうした」
「これ」
ミロが胸元の紐を引き抜いて、四つの布飾りを差し出した。
藍色、赤、金色、白。四人のイメージカラーに合わせて染められた小さな守り飾り。結び目がいくつも縫い込まれ、乾いた香草の葉が繊維の間に挟まれている。初めてモルヴァに来た日にもらったあのお守りと同じ作り——だが、今回は四人分だ。
「いつ作ったんだ」
「昨日の夜。夜なべして。……父ちゃんがやってたんだ。旅に出る冒険者に、お守りを作って渡すの。父ちゃんの真似なんだけど」
ミロの声が少し震えた。だがすぐに持ち直して、いつもの笑顔を浮かべた。
「一人一個ね。藍色がセレン、赤がアルト、金色がノーラ、白がセラ」
四つの飾りを受け取り、仲間に渡した。
アルトが赤い飾りを首にかけた。
「かっけぇな。ありがとう、ミロ」
ノーラが金色の飾りを握りしめた。
「ふん。まあ、もらっといてあげる。……ありがとう」
セラが白い飾りを胸に当てて、目を閉じた。
「大切にします。ミロくん」
俺は藍色の飾りを、初日にもらったお守りの隣にかけた。二つの守りが胸元で並ぶ。一つ目はモルヴァに来た日の記憶。二つ目はモルヴァを発つ日の記憶。
「ミロ。俺が最初にこの街に来た時、お前が言っただろう。『冒険から帰ってきたら、その時笑ってくれたら、それでいいや』って」
「覚えてるよ。初日に言った」
「帰ってきたら笑って報告するよ。約束だ」
「うん。約束」
ミロの目が潤んだが、彼は泣かなかった。笑った。あの時と同じ笑顔で。
「いってらっしゃい、セレン」
最後にリディアが、カウンターの向こうから声をかけた。
彼女はいつもの場所にいた。帳簿とペンと、受付の木札に囲まれた、いつもの席。彼女の日常は明日も続く。俺たちがいなくなっても、この街は回り続ける。
「三度までは私が出る。その次は、あなたが出る番」
初日に言われた言葉。あの時は何を意味しているのかよくわからなかった。
「——あなたはもう、出る番よ」
今はわかる。
三度。俺がギルドで困った時、リディアは三度、手を差し伸べてくれた。初日の登録。Eランク試験の推薦。ヴァイパーロードの依頼書。三度、俺を導いた。
四度目はない。四度目からは、俺が自分で道を切り開く番だ。
「行ってきます。リディア」
「行ってらっしゃい。——あんまり鼻血出さないようにね」
最後まで辛口だった。でも、その声が少しだけ掠れていたのを、俺の耳は聴き逃さなかった。
◇
四人で城門を出る。
門を抜けた瞬間、風が変わった。街の中の風と、街の外の風は全く違う。建物に遮られず、石畳に跳ね返らず、ただまっすぐに吹く風。旅の風だ。
振り返ると、モルヴァの街が朝日に染まっていた。
城壁の白。塔の影。浮遊橋の光。魔導灯の残り火が、朝日の中で静かに消えていく。
俺は耳を澄ませた。
ゴルドの金槌が鍛冶場で鳴り始める音。市場の果物売りが声を張り上げる音。子供たちが噴水のそばで走り回る足音。荷馬車が城門に列を作る車輪の音。風鈴が朝風に揺れて鳴る、透き通った高い音。
この街の音を、全部、耳に刻む。
最初に来た日、この音の洪水に圧倒されて立ち尽くしたことを覚えている。あの日はまだ「聴く」ことしかできなかった。
今は「届ける」ことができる。
この街で学んだ全てが——反響定位も、共鳴探知も、固有振動数の理論も、低周波も超音波も矢文も幻惑音響も震孔掌も——全て、この街の音の中から生まれた。
さよならは言わない。音は消えない。一度響いた音は、空気の中にいつまでも残っている。人間の耳には聞こえなくなっても、振動は続いている。永遠に。
前を向いた。
街道が真っ直ぐに伸びている。その先に、王都がある。学園がある。まだ見ぬ敵と、まだ見ぬ仲間と、まだ知らない音がある。
「さ、行くか」
「ああ」
「行くわよ」
「参りましょう」
四人で歩き出した。
足音が街道に響く。四人分の足音。それぞれ違うリズム、違う重さ、違うテンポ。でも同じ方向に向かっている。
その足音を、俺は消さなかった。
ノイズキャンセリングは使わない。今日は、自分たちの足音を聴いていたかった。
生きている音。前に進んでいる音。
それが、今の俺たちの音だ。




