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『音魔法はゴミ? いいえ、研究したら文明を揺るがす最強魔法でした』  作者: 白月 鎖
冒険者編

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第68話 渓谷の死闘


 竜牙渓谷は、名前の通りの場所だった。


 両側の岩壁が天を衝くように聳え、その表面に無数の鋭い突起が生えている。遠くから見ると巨大な獣の顎のようで、渓谷そのものが口を開けて待ち構えているような不気味さがあった。朝日が岩壁の頂きだけを照らし、渓谷の底には灰色の薄闇が漂っている。


 前日の偵察で、渓谷の地形は把握済みだ。グレンの助言に従い、音を出さず、受動的な聴取だけで情報を集めた。


 渓谷は全長約五百歩。入口から奥に向かって緩やかに下り、最深部に広い窪地がある。窪地の中央に岩の隆起があり、その裏側にヴァイパーロードが蟠っている。


 偵察中に聴こえたヴァイパーロードの音は、今でも耳の奥にこびりついている。


 心臓の鼓動。低く、重く、ゆっくりとした拍動。一分間に十二回。人間の四分の一の速度で、巨大な心臓が巨大な体に血を巡らせている。その拍動が地面を微かに揺らし、渓谷の岩壁に反響して、まるで大地そのものが呼吸しているかのように聞こえた。


 鱗が岩に擦れる音。ときおり体勢を変えるたびに、数百枚の鱗が同時に動いて砂利のような乾いた摩擦音を生む。その音の「面積」から推測される体表面積は、馬三頭分はあった。


 そして呼吸。深く、長い吸気と呼気。空気が体内を通過する時の、かすかな振動。吸気の時に渓谷の空気が微かに動く。あの巨体が呼吸するだけで、空気の流れが変わるのだ。


 全てが聴こえた。音を出さなくても、相手の音を聴くだけで、位置も体勢も大まかな状態も把握できる。


 グレンは正しかった。沈黙こそが、俺の最大の武器になる場面がある。



 決行日の朝。四人で渓谷の入口に立った。


 全員の装備を最終確認する。アルトは長剣と、俺から預かった隕鉄の短剣を腰に帯びている。ノーラは学院支給の魔力増幅リングを左手に嵌めている。セラは杖と、腰袋に解毒薬を三本。


 俺の手元には武器がない。隕鉄の短剣はアルトに託した。


 自分の最強の武器を他人に渡す。それは不安であると同時に、信頼の証でもあった。アルトの近接戦闘の腕は俺より遥かに上だ。最も確実に腹を裂ける人間に、最も切れる刃を持たせる。パーティの最適解だ。


 俺の武器は——素手と、音だ。


「作戦を最終確認する」


 声を潜めた。ここからは小声でも危険だ。ヴァイパーロードの聴覚は、渓谷の入口まで届いている可能性がある。


 だから最終確認は全て矢文で行った。


 ——フェーズ0。渓谷に入ったら全員無音行動。足音はノイズキャンセリングで消す。会話は矢文のみ。合図はハンドサイン。


 ——フェーズ1。渓谷の中間地点まで無音で前進。俺が受動探知でヴァイパーロードの位置と状態をリアルタイムで把握し、矢文で共有する。


 ——フェーズ2。中間地点で停止。俺が幻惑音響で、渓谷の入口方向から「人間の足音と声」の偽装音を発生させる。ヴァイパーロードは入口方向に注意を向ける。


 ——フェーズ3。ヴァイパーロードが入口方向を向いて攻撃態勢に入った隙に、ノーラが無音雷撃を口腔内に叩き込む。同時にアルトが側面から超音波斬で腹を裂く。俺は震孔掌で中枢魔孔を破壊する。


 ——フェーズ4。セラは全員の体力管理。毒液を浴びた場合は即座に浄化回復。


 三人が頷いた。アルトの目に、いつもの朗らかさはない。代わりにあるのは、研ぎ澄まされた集中。ノーラの金色の瞳は静かに燃えている。セラは杖を胸に抱き、唇が微かに動いた。祈りの言葉だろう。


 俺はノイズキャンセリングを展開した。


 四人の足音を同時に消す。それぞれの靴底が砂利を踏む音、体が空気を切る音、鎧の革が擦れる音、衣服が風を受ける音——全てを聴き取り、瞬時に逆位相を生成して打ち消す。四系統の並列処理。脳がじわりと熱くなる。だがまだ許容範囲だ。


 四人が渓谷に足を踏み入れた。


 無音。


 自分たちの足音がない世界は、異様に静かだった。風が岩壁の突起を撫でてヒュウと鳴る音。遠くで水滴が岩に落ちる音。それだけが、渓谷の中を漂っている。


 足元は砂利と岩の破片。普通なら一歩ごとにジャリジャリと音が鳴るはずだが、ノイズキャンセリングがその全てを呑み込んでいる。俺たちは、音の世界から切り離された幽霊のように渓谷を進んでいく。


 五十歩。岩壁が迫り、通路が狭まる。アルトが壁に肩を擦りそうになり、俺が矢文で警告する。壁に触れれば岩が擦れる音が出る。


 百歩。空気が冷たくなる。渓谷が深くなるほど日差しが届かず、気温が下がる。吐く息が白くなりかける。


 百五十歩。


 ——聴こえ始めた。


 ドクン。


 低く、重い拍動。大地の底から湧き上がるような振動。ヴァイパーロードの心臓の音だ。


 矢文で全員に送る。


 ——心拍を感知。距離推定三百五十歩。安定した低速拍動。休息状態。今のところ、こちらに気づいた様子はない。


 アルトが小さく拳を握って応えた。大丈夫だ。


 二百歩。心拍が少しずつ大きくなる。近づいている。


 ——距離三百歩。心拍変化なし。呼吸安定。鱗の摩擦音なし。動いていない。


 二百五十歩。渓谷が広がり始める。岩壁の間隔が開き、頭上の空が見え始めた。最深部の窪地が近い。


 ここで俺は、受動探知に全神経を注ぎ込んだ。


 ノイズキャンセリングの並列処理を一時的に弱め——四人の足音が微かに漏れ始めるが、最深部の環境騒音(水滴、風、岩の軋み)が遮蔽してくれる——その分の脳のリソースを受動探知に回す。


 ヴァイパーロードの体内情報が、急速に解像度を増して流れ込んでくる。


 心臓の位置。胴体のほぼ中央、地面から四尺の高さ。


 鱗の固有振動数。極めて低い周波数帯。想定通り、通常の打撃や魔法は弾かれる。


 口腔内の粘膜。鱗とは全く異なる、柔らかい固有振動数。ノーラの雷が通る。間違いない。


 腹の付け根。鱗の繋ぎ目が薄い部分。二箇所。左右対称。超音波斬が入る。


 そして——中枢魔孔。首の根元の内側。心臓と脳を繋ぐ魔力の大動脈が交差する地点。ここに震孔掌を入れれば、魔力循環が止まる。


 全ての弱点を音で読み取った。


 三百歩。ここが中間地点だ。


 ハンドサインで停止を指示。四人が岩の影に身を潜める。


 ここからヴァイパーロードまで、約二百歩。


 窪地の向こうの岩の隆起。その裏に、巨大な気配が蟠っている。受動探知では輪郭しか見えないが、心拍と呼吸のデータから推測される体の大きさは——報告書通り、全長二十歩以上。


 化け物だ。


 そして——怖い。ロックリザードや岩蜥蜴王で感じた恐怖の比ではない。


 ヴァイパーロードの体内から漏れ出す振動を受動探知で聴いた瞬間、全身の毛が逆立った。あの振動の中には、魔力とは異質な「何か」が脈打っている。暗く、重く、澱んだもの。人間の本能が「触れてはならない」と絶叫する種類の力。


 呪詛だ。


 ロックリザードにも微かに感じた、あの禍々しい振動。だがヴァイパーロードのそれは桁が違う。百年分の呪詛が凝縮されて、一つの生命体を形作っている。魔物の中でも特に古く、特に濃い呪詛の結晶。


 共鳴探知を向けるだけで吐き気がする。内臓が共振しそうになる。低周波威圧と同じ原理——だが今回は俺が「受ける側」だ。ヴァイパーロードの存在そのものが、超低周波の恐怖を放射している。


 手が震える。脚が竦む。逃げたい。ここにいてはいけない。体の全てが「逃げろ」と叫んでいる。


 だが——隣のアルトを見た。彼も青い顔をしていたが、剣の柄だけは離していなかった。ノーラの唇は白かったが、指先の火花は消えていなかった。セラは目を閉じて祈りの言葉を唱えていた。


 四人とも、怖い。四人とも、ここにいる。


 深呼吸する。音を立てないように、ゆっくりと。


 矢文を三人に送る。最終指示。


 ——ノーラ。距離百五十歩先、岩の隆起の裏。口腔内を狙え。合図を待て。俺が幻惑音響で口を開けさせる。


 ——アルト。左側面から回り込め。腹の付け根。隕鉄を使え。俺が遠隔で超音波を送る。刃が唸ったら、三秒以内に斬れ。


 ——セラ。後方三十歩で待機。毒液が飛んだら浄化。アルトが被弾したら即回復。俺のことは後回しでいい。


 セラが俺を睨んだ。「後回しにしません」と口の形だけで言った。


 全員の配置が整った。


 ここからは——俺の脳が全てを決める。


 ノイズキャンセリング。幻惑音響。矢文。受動探知。四つの処理を同時に走らせる。


 脳への負荷が、一気に跳ね上がった。


 こめかみの奥がズキリと脈打つ。視界の端が微かに滲む。


 ——持て。あと三分。三分だけ持てばいい。



 幻惑音響を起動した。


 渓谷の入口方向——俺たちが来た方角から、「人間の足音と話し声」を生成する。


 複数人が歩いてくる音。鎧が擦れる音。砂利を踏む足音。そして——人間の声。男の低い声。女の高い声。会話の断片。


 グレンが言っていた。人間の声帯の周波数を嫌うと。


 ならば——その周波数を、全力で叩きつける。


 俺は幻惑音響の中に、人間の声帯が生成する基本周波数帯——85ヘルツから255ヘルツの範囲を強調して織り込んだ。さらに、その倍音成分も加える。人間の声の「不快さ」を凝縮した、純粋な刺激音。


 偽の音は渓谷の壁に反射しながら奥へ奥へと浸透していく。


 効果は——即座に出た。


 ドクン。ドクンドクンドクン。


 ヴァイパーロードの心拍が跳ね上がった。十二回/分だった拍動が、二十回、三十回、四十回と急上昇する。


 ゴゴゴゴゴ。


 岩の隆起の裏で、巨大な何かが動き始めた。鱗が岩に擦れる激しい音。数百枚の鱗が同時に擦れ、渓谷全体に低い轟音が響き渡る。地面が震える。足元の砂利がカタカタと跳ねる。


 ——起きた。


 岩の隆起の上に、まず頭が見えた。


 夕闇の中に浮かび上がる、楔形の巨大な頭部。横幅だけで俺の背丈ほどある。鱗は灰緑色で、一枚一枚が掌よりも大きい。目は縦に裂けた金色の瞳で、冷たい知性が宿っている。


 頭が持ち上がり、首がうねり、胴体が岩の上に乗り上げる。全長二十歩。いや、二十五歩はある。報告書の推定を超えている。太さは荷馬車と同じくらいだ。


 ヴァイパーロードは渓谷の入口方向——幻惑音響が生成している偽の音源に向かって首を伸ばした。


 口が開いた。


 暗い口腔の奥に、四本の毒牙が見えた。牙の根元から、黄緑色の液体が糸を引いて滴っている。酸の匂いが渓谷に充満する。鼻の奥が焼けるような刺激。


 シュウウウウ——


 毒液を吐く準備だ。喉の筋肉が収縮し、毒腺が圧縮される音が聴こえる。


 ——今だ。口が開いている。


 矢文。全力の指向性。ノーラの右耳に、針のように鋭い声を撃ち込む。


 ——ノーラ、撃て! 口が開いてる! 方角正面、距離百五十歩!


 ノーラの左手が天を衝いた。


 指先に青白い光が凝縮する。魔力増幅リングが鳴動し、ノーラの体から放出される魔力が渦を巻く。共鳴制御の訓練で磨かれた精密な出力調整。暴走の気配は微塵もない。彼女は自分の雷の「音」を聴いている。


 ——消音。


 俺は脳の処理能力の全てを絞り出して、ノーラの放電の前兆音に逆位相をぶつけた。


 バチッ——という空気が裂ける音が、消えた。


 無音の雷。


 青白い光の柱が、渓谷の闇を一直線に貫いた。音もなく、前兆もなく、ただ光だけが空気を焦がして——ヴァイパーロードの開いた口に吸い込まれた。


 着弾。


 口腔内の粘膜に、数千度の電流が叩きつけられた。


 ヴァイパーロードの口から火花が散り、毒液が蒸発して白い煙が噴き出す。牙の一本が砕け、顎の関節が痙攣する。


 ——絶叫。


 渓谷全体を震わせるような、凄まじい叫び声が爆発した。


 岩壁が共振して小石が降り注ぐ。空気が衝撃波で歪む。俺の反響定位が一瞬、叫びのノイズに飲まれてホワイトアウトする。


 聴覚的な「閃光弾」だ。この叫びだけで、並の冒険者なら鼓膜が破れて行動不能になる。


 俺は咄嗟に逆位相をぶつけて叫びの衝撃を減衰させた。自分の鼓膜を守りながら、仲間にも矢文で警告を送る。


 ——全員、耳を塞ぐな! 俺が音を弱めてる! 動け!


 だが致命傷ではない。口腔内を焼かれても、ヴァイパーロードはまだ動いている。そして怒りで——偽の音源ではなく、本物の攻撃元を探し始めた。


 頭が旋回する。金色の瞳が渓谷の闇を舐めるように動く。蛇は目が悪い。だが振動で全方向を監視している。ノーラの雷の前兆音は消したが、雷そのものの電磁振動——空気が電離した際の微細な揺れ——は完全には消せなかった。


 ヴァイパーロードはノーラの位置を絞り込みつつある。


 ——ノーラ、移動しろ! 右に二十歩!


 ノーラが駆け出した瞬間、ヴァイパーロードの口から毒液が射出された。


 黄緑色の液体が放物線を描いてノーラのいた場所に着弾する。岩が溶ける。ジュウウウ、と酸が岩を侵食する不気味な音。一秒前までノーラが立っていた地面に、拳大の穴が空いた。


「ッ——間一髪……!」


 ノーラの声が震えている。だが足は止まっていない。


 ここからは隠密が崩れた。全面戦闘だ。


 ——アルト! 左側面から行け! 腹の付け根が見える!


 矢文。


 アルトが左の岩壁の影から飛び出した。低い姿勢で砂利を蹴り、ヴァイパーロードの巨体の左側面に向かって一直線に駆ける。


 ヴァイパーロードが反応した。頭がアルトの方に向く。毒液を吐こうとする——


 俺は即座に幻惑音響を切り替えた。アルトの右後方——全く別の方向から「大きな足音」を生成する。


 ヴァイパーロードの頭が一瞬だけ揺れた。二つの音源——本物のアルトの足音と、偽の足音。どちらが本物か、蛇の振動感知が判断に迷う。


 その一瞬が、アルトには十分だった。


 彼はヴァイパーロードの胴体の下に滑り込んだ。


 巨体の腹。灰緑色の鱗が規則正しく並ぶ中に、繋ぎ目が薄い部分がある。鱗と鱗の隙間が広く、その下の皮膚が微かに見えている。


 アルトが腰の隕鉄の短剣を抜いた。


「セレン!」


 一言。それだけで意味が通じる。


 俺は残り少ない脳のリソースを絞り出して、アルトの手の中の隕鉄に向かって超高周波の振動を飛ばした。


 距離五十歩。自分の手に持っているわけではない。空気を介した遠隔振動伝達。精度は落ちる。だが隕鉄は魔力の伝達効率が桁違いに高い。俺の振動を「受け取る」能力に長けた金属だ。


 振動が空気を伝わり、隕鉄に到達した。


 黒い刃が——唸った。


 可聴域を超えた高周波振動が隕鉄の結晶構造を走り、刃先に集中する。空気中の水分が蒸発し、刃の周囲に陽炎が立つ。


 アルトの手にも振動が伝わっているはずだ。腕が痺れる。指が震える。だが彼は歯を食いしばって握りしめた。


「おおおおおお——!」


 裂帛の気合と共に、隕鉄の短剣がヴァイパーロードの腹の付け根に突き刺さった。


 超音波を纏った刃が、鱗の隙間を紙のように裂き、筋肉を分子レベルで断ち切り、腹壁を切り開いた。


 切断面から体液が噴出する。熱い。ヴァイパーロードの体液は高温で、アルトの腕に降りかかった液が蒸気を上げる。


「がっ——!」


 アルトが腕を庇いながら後退する。


「アルト!」


 ——セラ、アルトに回復! 腕に火傷!


 セラが走り出す。杖から白い光が放たれ、アルトの腕に癒しの魔力が注がれる。


 ヴァイパーロードの絶叫が再び渓谷を震わせた。今度は先ほどより一段高い、断末魔に近い叫び。口からは毒液ではなく、焼けただれた粘膜の破片が飛び散る。


 巨体がのたうつ。尾が岩壁を叩き、岩盤が割れて崩落する。頭が地面に叩きつけられ、砂埃が柱のように舞い上がる。


 だが——死なない。


 口を焼かれ、腹を裂かれても、ヴァイパーロードは暴れ続けている。生命力が尋常ではない。百年を生きた魔獣の生存本能が、肉体の損傷を超えて体を動かし続けている。


 そして暴走の中でも、本能的に「敵」を探している。のたうつ頭が旋回し、金色の瞳が——俺を捉えた。


 振動で見つけたのだ。幻惑音響は切れている。俺の位置を隠すものは何もない。


 ヴァイパーロードが俺に向かって突進してきた。


 全長二十五歩の巨体が、渓谷の通路をいっぱいに使ってうねりながら迫る。壁にぶつかり、岩を砕きながら、血と毒液を撒き散らして。


 逃げ場がない。渓谷の通路は狭い。横に避けるスペースがない。


 ——逃げない。


 俺は前に出た。


 ヴァイパーロードの突進に向かって、一歩、踏み出した。


「セレン、何してる! 逃げろ!」


 アルトの叫び。


「セレンさん!」


 セラの悲鳴。


「馬鹿! 死ぬわよ!」


 ノーラの怒号。


 三人の声が聞こえる。全部聞こえる。


 でも俺の耳は、もう一つの音を聴いている。


 ヴァイパーロードの心臓の音。


 ドクンドクンドクンドクン——


 速い。乱れている。腹を裂かれ、口を焼かれ、大量に出血している。心臓が限界に近い拍動を刻んでいる。ポンプの回転が上がりすぎて、もう制御が効いていない。


 あと一撃——正確に中枢魔孔に届けば——止まる。


 ヴァイパーロードの頭が迫る。口が開く。砕けた牙の隙間から酸の飛沫が散る。


 俺は共鳴探知を全開にした。


 突進してくるヴァイパーロードの体内を、音で「透視」する。心臓の位置。魔力の流れ。中枢魔孔の正確な座標。首の根元から体内に四寸入った地点。それが「音」として、鮮明に、くっきりと聴こえる。


 距離十歩。


 八歩。


 五歩。


 ヴァイパーロードの口が俺の頭上に迫る。酸の匂いが鼻を焼く。牙の影が覆いかぶさる。


 俺は沈んだ。


 膝を折り、地面すれすれまで体を落とし、ヴァイパーロードの顎の下を潜り抜ける。頭上を巨大な顎が通過する。風圧で髪が逆立つ。毒液の飛沫が背中に散る。焼ける痛み。


「セレンさん、浄化します!」


 セラの浄化魔法が遠距離から飛んでくる。白い光が背中の痛みを和らげる。


 俺は潜り抜けた勢いのまま、ヴァイパーロードの首の横に回り込んだ。


 ここだ。首の根元。鱗の隙間。


 巨体が通過していく。鱗が擦れて肌を切る。血の匂い。自分の血だ。


 右手を伸ばした。


 素手で、ヴァイパーロードの首に触れる。鱗は冷たく、硬く、その下に脈打つ巨大な生命がある。心臓の振動が掌を通じて腕全体に伝わってくる。


 共鳴探知。中枢魔孔への最終照準。


 掌の直下、鱗の隙間から体内に四寸。心臓と脳を繋ぐ魔力の大動脈の交差点。


 ——ここだ。


 聴こえる。中枢魔孔の固有振動数が聴こえる。


 全ての研究が、この一瞬のためにあった。


 反響定位で世界を「見る」方法を学んだ。共鳴探知で物の「性質」を読む方法を学んだ。固有振動数の理論で、全ての物に「揺れやすい点」があることを知った。


 そして震孔掌——対象の魔孔に、その固有振動数に合わせた振動を送り込み、内側から崩壊させる技。


 赤子の頃から魔孔を研究してきた俺にしか使えない、俺だけの奥義。


 右掌に魔力を集中する。喉の魔孔から生成された振動が、胸を通り、肩を通り、腕を走り、指先に到達する。


 中枢魔孔の固有振動数に、精密にチューニングする。


 周波数を合わせる。波形を整える。振幅を上げる。


 ——今。


「震孔掌——!」


 集束した振動が、掌から鱗の隙間を通り、皮膚を貫き、筋肉を抜け、魔力の大動脈に到達した。


 共振が始まった。


 中枢魔孔が——内側から揺さぶられる。魔力の流れが乱れ、逆流し、交差点が膨張する。


 ヴァイパーロードの体が痙攣した。


 全身の鱗が一斉に逆立ち、尾が天を衝くように跳ね上がり、四肢——いや、蛇には四肢はない——体全体が弓なりに反り返った。


 口から、最後の咆哮。


 だがその咆哮は、もう破壊的な衝撃波を伴っていなかった。力を失い、細く、長く、渓谷に吸い込まれるように消えていく。


 心臓の音が——ゆっくりと、遠ざかっていく。


 ドクン。


 ドクン。


 ド……クン。


 止まった。


 ヴァイパーロードの巨体が、ゆっくりと、山が崩れるように倒れた。


 地鳴りのような衝撃。砂埃が柱のように舞い上がり、渓谷全体が揺れた。小石が降り注ぎ、壁面の突起がいくつか折れて落ちた。


 俺はヴァイパーロードの首に手を当てたまま、膝から崩れ落ちた。


 右腕が完全に感覚を失っている。超音波の遠隔伝達と震孔掌の連続使用で、腕の筋繊維が限界を超えた。脳は焼けるように熱い。こめかみから何かが垂れている。鼻血だ。


 視界がぼやける。


 だが——聴こえる。


 風の音。岩が軋む音。遠くで水滴が落ちる音。


 そして——仲間の足音。


 三人が駆けてくる足音。


 アルトの重い、力強い一歩。ノーラの軽い、不規則な駆け足。セラの穏やかな、でも必死な足取り。


 三つの足音が近づいてくる。


「倒した……のか」


 アルトの声。すぐそばで。


「倒した、わよ」


 ノーラの声が震えている。泣いているのかもしれない。


「セレンさん、動かないでください。回復します。右腕と——鼻血。脳への負荷が——」


 セラの手が額に触れた。温かい。回復魔力が頭の奥の熱を冷まし、腕の痺れを緩やかに溶かしていく。


「……すまん。ちょっと無茶した」


「ちょっとじゃないわよ! 素手で蛇に突っ込むなんて! 鼻血出して! 腕動かなくなって! 馬鹿じゃないの!」


 ノーラが怒っている。でも声が裏返っている。怒りと安堵が混ざって、感情の制御が追いついていない。


「でも倒せた」


「倒せたからって——」


「四人で倒せた」


 ノーラが言葉を飲み込んだ。


 アルトが隕鉄の短剣を返してくれた。


「これ。……すげぇ刃だった。鱗がバターみたいだった」


「お前の腕があったからだ。俺一人じゃ振れない」


「嘘つけ」


「嘘じゃない。あの体捌きで腹の付け根に正確に入れるのは、俺には無理だ。剣はお前の方が上だよ、アルト」


 アルトが鼻の頭を掻いた。照れている。


「……まあ、得意分野が違うってことだろ。お前は音で、俺は剣で。それでいい」


「ああ。それでいい」


 セラの回復で少しずつ体が動くようになる。右腕はまだ痺れているが、指は動く。脳の熱も引いた。鼻血は止まった。


 立ち上がって、ヴァイパーロードの亡骸を見上げた。


 巨大だった。こんなものと戦ったのかと、改めて実感する。鱗の一枚一枚が掌よりも大きく、口の中は人が立って入れるほどの空間がある。


 砕けた牙の根元に、緑色の光が見えた。魔石だ。


 アルトが口腔内に剣を入れて、魔石を切り出した。俺の頭ほどの大きさの、深い緑色の石。中に蛇のような紋様が浮かんでいる。


「でかい魔石だな……」


「金貨何枚分だろう」


「考えるのはギルドに帰ってからにしましょう。今は早く渓谷を出ないと」


 セラが正しい。渓谷にはヴァイパーロードの血と毒液が撒き散らされている。他の魔物を引き寄せるかもしれない。


 四人で渓谷を引き返す。


 行きは無音で緊張に包まれた道だったが、帰りはノイズキャンセリングも解除して、足音を隠す必要もなく、ただ歩いた。


 砂利を踏む音が、心地いい。自分の足音が聞こえるということは、生きているということだ。


 渓谷の出口が見えた。朝日が差し込み、出口の向こうに青い空が広がっている。


 四人で光の中に出た。


 風が吹いた。渓谷の陰気な空気を吹き飛ばすような、透明な春の風。


 ノーラが空を見上げて、深く息を吸った。


「生きてるって感じする」


「ああ」


「あんたのおかげよ。作戦を立てて、声を届けて、弱点を見つけて。——あんたがいなかったら、私たちはあの渓谷で死んでた」


「お前らがいなかったら、俺一人じゃ傷一つつけられなかった」


「……知ってるわよ、そんなこと」


 ノーラが顔を背けた。耳が赤い。


 アルトが二人を見て、にやにやしている。


「何笑ってるのよ」


「いや、何も」


 セラが四人の会話を聞きながら、ぽつりと言った。


「四人でなければ、倒せなかった。でも四人だから、倒せた。——これが、パーティの意味ですね」


 その通りだ。


 一人では届かない場所に、四人なら届く。


 音は——一人では鳴らない。何かに当たって、何かに響いて、初めて「音」になる。


 俺の音魔法は、仲間がいて初めて完成する。


 それは弱さではない。それこそが、音の本質だ。



 渓谷を出て、街道を歩いている時だった。


 光が降りてきた。


 今までで最も強く、最も温かい祝福の光。体の芯が震え、骨が軋み、魔力の器が大きく広がっていく。百年を生きた魔物を倒した報酬。女神が与える最高級の恩寵。


 全身が光に包まれた。四人全員に。だが——光の「強さ」が、人によって違った。


 アルトとノーラを包む光は、俺やセラよりも明らかに濃い。輪郭が白金色に輝き、まるで二人の内側から太陽が昇るように全身が発光していた。


「す、すげぇ……何だこれ、いつもと全然違う——」


 アルトが自分の手を見つめて息を呑んだ。光が掌から溢れ、指先まで走っている。


 ノーラも目を見開いていた。全身を包む光の中に、青白い雷紋が浮かんでは消えている。


 セラが声を上げた。


「アルトさん、ノーラさん——Lv20です! 第三の祝福の門に達しています!」


 第三の祝福。Lv20で開く門。属性の応用技が解放される、冒険者にとっての大きな節目。ここに到達できるのは冒険者全体の一割にも満たない。


 ヴァイパーロード——百年の魔獣を討伐した経験値が、アルトとノーラを一気にLv20まで押し上げたのだ。前線で直接戦った二人には、俺やセラより多くの経験が注がれた。


 アルトの体が光に包まれたまま、硬直した。目が虚ろになる。何かを「受け取っている」表情だ。


「……来た。来たぞ」


 声が震えていた。


「頭の中に、“形”が浮かんでくる。剣を……こう構えて……闘気を溜めて……一気に——」


 アルトが無意識に剣を抜き、構えた。


 刃が光った。


 通常の剣にはあり得ない、金色の光。闘気が刃に浸透し、鋼そのものが震えている。アルトが剣を一閃すると、光の斬撃が空気を裂いて五歩先の地面に着弾し、土が抉れた。


 離れた場所に斬撃が届いた。刃が触れていない場所に。


「闘気斬……! 剣圧を飛ばす、戦士の第三の祝福!」


 セラが目を丸くしている。


 アルトが剣を下ろし、自分の手を見つめた。震えている。興奮で。


「すげぇ……すげぇよ。剣を振ったら、力が”飛ぶ”。今まで届かなかった距離に——届く」


 そしてノーラ。


 彼女の体を包む光が収まった瞬間、両手の間に——青白い鎖が浮かんだ。


 雷の鎖。


 電流が鎖状に編まれ、空中に静止している。ノーラが指を動かすと、鎖がするすると伸び、宙を這い、地面に触れて火花を散らした。


「これは……雷鎖。対象を雷で拘束する技」


 ノーラの声が静かだった。だが目の奥に炎が灯っている。


「学院で、教官が言ってた。Lv20の雷属性には”雷鎖”が降りると。でも私は暴走のリスクがあるから、到達しても使用禁止にすると。……でも今は」


 雷鎖がノーラの意思に従い、空中で弧を描いた。暴走の気配は微塵もない。共鳴制御で磨いた自律制御が、祝福技を安全に受け止めている。


「使える。ちゃんと、制御できる」


 ノーラが笑った。嬉し泣きではない。晴れやかな、誇らしい笑み。


「ありがとう、女神様」


 ノーラがそう呟くのを聞いたのは、初めてだった。


 セラも光に包まれていた。彼女はLv19。祝福技の節目ではないが、ステータスは上がっている。


「回復魔力の巡りが良くなりました。器が広がった感触があります」


 穏やかに微笑むセラ。


 そして——俺。


 光は来た。体は強くなった。魔力の器も広がった。反響定位の到達距離が伸びた気がする。共鳴探知の解像度も上がっただろう。


 Lv19。アルトとノーラより一つ下。あと少しでLv20に届くが——届いていない。


 だが、たとえ届いていたとしても。


 技は——降りてこなかっただろう。


 今までと同じだ。Lv5の時も。Lv10の時も。Lv15の時も。岩蜥蜴王の時も。何も降りてこなかった。Lv20に届いたところで、結果は変わらない。


 テーブルにないのだ。女神のリストに「音属性」の祝福技は存在しない。


 目の前で、アルトが闘気斬に興奮し、ノーラが雷鎖を嬉しそうに操っている。二人がLv20の門を開いた。冒険者の上位一割に入った。女神に祝福され、新たな力を授かった。


 俺だけが、何も持っていない。


 ——いや。


 俺が持っているのは、女神からもらったものではなく、自分で作ったものだ。


 反響定位。共鳴探知。低周波威圧。超音波斬。音の矢文。ノイズキャンセリング。幻惑音響。震孔掌。共鳴制御。音石通信。


 十の技。全部、俺が研究して見つけた。テーブルにない、世界で俺しか使えない技だ。


 それでいい。


 それがいい。


 ——でも。


「セレン? どうした、顔色悪いぞ」


 アルトが気づいた。闘気斬の興奮が少し収まり、俺の方を見ている。


「……なんでもない。ちょっと疲れが出ただけだ」


「嘘つき。鼻血の時と同じ顔してる」


「本当に大丈夫。それより——お前ら、Lv20おめでとう。闘気斬と雷鎖、すげえな。帰ったら試そうぜ」


 話を逸らした。アルトは何か言いたそうだったが、俺の目を見て、それ以上は聞かなかった。


 代わりに、背中をバンと叩いた。


「おう。帰ったら一番にやろう。——お前も、すぐ追いつくだろ。つーかお前は祝福とか関係なく、自分で技作っちまうからな。いつもそうだ」


「ああ。……いつもそうだ」


 いつも、自分で見つけてきた。


 女神が与えてくれないなら、自分で作る。


 それが、音魔法使いセレン=アルディスの戦い方だ。


 ——でも。


 今日だけは。少しだけ。


 ノーラが「ありがとう、女神様」と呟いた時の、あの晴れやかな顔が——眩しくて、直視できなかった。

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