第55話: 静寂の檻
「無駄な足掻きを。祈りでも捧げるつもりですか?」
ディルクが右手を掲げる。
極大の雷撃魔法が形成される。
あの一撃が放たれれば、セラの盾ごと俺たちは消し炭だ。
「消えなさい。……『轟雷』――」
ディルクが口を開き、発動のキーワードを唱えようとした――その瞬間。
俺は神経を研ぎ澄ませた。
聞こえる。
燃え盛る炎の音。風の音。ディルクの衣擦れの音。そして、彼が発しようとしている声帯の震え。
それら全ての「波形」を、俺の聴覚が捉える。
(すべての音には波がある。なら、その波と真逆の波(逆位相)をぶつければ、プラスマイナスはゼロになる)
言うのは簡単だ。
だが、それをやるには、周囲の環境音すべてをリアルタイムで解析し、完璧な反対音を生成し続けなければならない。
膨大な情報量が脳を焼く。鼻血が滴る。
それでも、俺は指先を震わせ、空間を調律した。
「音魔法・新魔法『静寂結界』」
フッ……。
世界から、音が消えた。
セラが目を見開く。
(……え?)
彼女の目の前で、信じられない現象が起きていた。
燃え盛る瓦礫の炎が、音もなく揺らめいている。
崩れ落ちる天井の石が、無音で床に砕ける。
自分の心臓の鼓動だけが、耳の奥で痛いほど大きく響く。
(嘘……空間の音を、消した?
遮断結界じゃない……これは『相殺』!?
この空間に存在する数億の周波数すべてに合わせて、瞬時に逆位相の音をぶつけ続けているの!?)
セラは戦慄した。
それは魔法というより、神の御業に近い「物理干渉」だ。
戦闘中に、これほどの演算と魔力制御を同時にこなすなんて。
(セレンさん……あなたは、どれほどの天才なのですか……!)
そして、その影響は敵にこそ劇的だった。
「……!? ……!?」
ディルクの口が動く。だが、言葉が出ない。
喉は震えているはずなのに、空気が振動しない。
詠唱魔法の基本原理――「言霊による世界への定義」が、音の消滅とともに不成立となる。
手の中に生まれかけていた雷撃が、行き場を失って霧散した。
(成功だ……! 声がなければ、魔法は撃てない!)
それだけじゃない。
ディルクがよろめき、膝をついた。
平衡感覚の喪失。
人間は、耳からの聴覚情報で無意識にバランスを取っている。
完全な無音空間は、三半規管を狂わせ、立っていることさえ困難にさせる。
さらに、「自分の声さえ聞こえない」という異常事態が、ディルクの精神に強烈な圧迫感を与えていた。
「…………ッ!!」
ディルクの顔が恐怖に歪む。
俺はその隙を見逃さなかった。
無音の世界を疾走する。
音がないから、足音も気配も消える。
今の俺は、完全なステルス状態だ。
ディルクが慌てて防御壁を展開しようとするが、反応が遅い。
聴覚情報がない恐怖が、彼の「完璧な計算」を狂わせている。
ザシュッ!
俺の短剣が、ディルクの脇腹を音もなく切り裂いた。
青い血が舞う。
「……!」
ディルクが無言の悲鳴を上げる。
俺は結界の維持に限界を感じ、一度解除して距離を取った。
スゥッ……と、世界に音が戻ってくる。
炎の爆ぜる音、風の音。
「はぁ……はぁ……」
俺は膝をついた。脳が焼き切れそうだ。
「な、何を……何をしたのです!
私の声が……魔法が……空間識が……!」
ディルクが狼狽して叫ぶ。
「ただの『無音』ですよ」
俺は冷ややかに告げた。
「あなたは情報を集めすぎた。
すべての音を聞き、すべてを計算しようとするから、情報の遮断に弱い。
……静寂の中じゃ、あなたの自慢の計算機もガラクタだ」
「おのれ……バグ風情がァァッ!」
ディルクが激昂する。
彼の背中の結晶翼が赤く変色し、周囲の空間から無理やり魔力を吸い上げ始めた。
「声が届かぬなら……質量で押し潰すのみ!」
詠唱はいらない。
純粋な魔力の濁流を、広範囲に放出するつもりだ。
これには『静寂結界』は通じない。あまりに巨大なエネルギーの奔流は、繊細な音の相殺を突き破ってしまう。
「暴走……!? セレンさん、まずいです!」
セラが警告する。
「あの方、体内の魔力回路を全開放しました!
効率を度外視して、周囲のマナを喰らい尽くす気です!
このままじゃ、静寂結界ごと吹き飛ばされます!」
空間が歪むほどの魔力奔流。
力比べじゃ勝てない。
「……いいや。
その『喰らい尽くす』動き、待っていた」
俺は短剣を収め、両手を前に突き出した。
静寂で焦らせ、大技を誘発させる。
そこまでが計算だ。




