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第49話: “ちょうどいい”悪

廃教会を出ると、東の空が白み始めていた。

手に残る感触は、亡霊を「祓った」というよりも、長い苦しみから「介錯した」という重みに近かった。

「……帰りましょう、セレンさん」

セラの声には、疲労と、それ以上の徒労感が滲んでいた。

私たちは無言で丘を下り、モルヴァの街へと戻った。

早朝のギルド通り。

まだ店も開ききっていない時間だというのに、広場には妙な熱気が漂っていた。

私たちが姿を見せると、パン屋の親父が駆け寄ってきた。

「おお! 帰ってきたか! 本当だったんだな!」

「え……?」

「ギルドから通達があったぞ! 『新人をさらっていた廃教会の亡霊を、期待の若手冒険者が討伐した』ってな!」

親父さんは私の肩をバンバンと叩いた。

「これでやっと安心して眠れる! うちの娘も怖がってたんだよ。いやあ、さすがだなぁ!」

「ありがとよ、英雄!」

「よくやった!」

集まってきた市民たちが口々に称賛の言葉を投げる。

その笑顔は屈託がなく、心の底から安堵しているように見えた。

「悪」が消え、平和な日常が戻ってきたことを喜ぶ、善良な人々の顔。

私の喉の奥で、苦いものがせり上がってくる。

(……違う)

言いたかった。

あの亡霊は誰もさらっていない。

真犯人は別にいるかもしれない。

まだ何も解決していないんだ、と。

けれど、彼らの輝くような笑顔を前にして、その言葉は喉に張り付いて出てこない。

隣を見ると、セラも蒼白な顔で唇を噛み締めていた。

彼女も気づいているのだ。

この歓喜の輪の中で、真実を叫ぶことがいかに無力で、残酷なことかを。

「……行きましょう」

セラが私の袖を引いた。

私たちは逃げるように、歓声の渦を抜けてギルドへと向かった。

ギルドマスター室。

重厚な扉の向こうで、ディルク・ホロウは優雅に紅茶を飲んでいた。

窓からは、広場で喜ぶ人々の姿が見下ろせる。

「報告は聞いているよ。見事な仕事だった」

ディルクはカップを置くと、私たちに向かって拍手を送った。

その音は、部屋の空気を支配するように乾いて響いた。

「報酬だ。今回の働きには特別ボーナスを上乗せしておいた」

革袋がデスクの上に置かれる。

ジャラリ、と重い音がした。それは、私たちが普段受ける依頼の十倍はありそうな重さだった。

私は革袋に手を触れず、ディルクを睨みつけた。

「……嘘を広めましたか」

「嘘?」

ディルクは心外だと言わんばかりに眉を上げた。

「あの亡霊は、誰もさらっていません。あれはただ、自分の罪に囚われていただけの残留思念でした。……新人の失踪とは無関係です」

「それが、どうしたというんだい?」

ディルクの声は、あまりに平坦だった。

悪びれる様子も、動揺する素振りもない。ただ純粋に、私の指摘の意味がわからないという顔をしている。

「どうしたって……、街の人たちは誤解しています。真犯人はまだ――」

「セレン君」

ディルクが言葉を遮った。

彼は椅子から立ち上がり、窓辺へと歩み寄った。

「下を見てごらん。彼らの顔を」

窓の外では、まだ人々が笑い合っている。

「彼らは怯えていた。夜に出歩くのを控え、商売も滞り、街全体の活力が低下していた。……なぜだかわかるか? 『理由のわからない消失』が一番怖いからだ」

ディルクは振り返り、薄く笑った。

「人はね、耐えられないんだよ。『偶然の不幸』や『姿の見えない悪意』にはね。

だから、形を与えてやる必要がある」

「形……?」

「そうだ。『これが原因だ』というわかりやすい悪をね。

亡霊が犯人だった。それを君たちが倒した。……どうだい? 物語として完璧だろう?

おかげで彼らは安心を取り戻し、今日からまた勤労に励むことができる。経済が回り、秩序が保たれる」

ディルクは両手を広げた。

「真実など、運用ひとつで毒にも薬にもなる。

君たちが『亡霊は無実でした』と叫んでごらん? 市民は混乱し、再び恐怖し、ギルドへの不信感を募らせるだけだ。

……誰が幸せになるんだい?」

彼の言葉は、あまりに論理的で、そしてあまりに冷徹だった。

私の耳――聴覚が捉える彼の声には、一片の揺らぎもない。

心拍も、呼吸も、一定のリズムを刻んでいる。

彼は本気で信じているのだ。

嘘をついて騙しているのではなく、「これが正義だ」と心の底から確信している。

(……こいつは、化け物だ)

魔物よりも恐ろしい。

理路整然とした狂気が、人の形をしてそこに立っている。

「……じゃあ、消えた新人たちは?」

私が絞り出すように問うと、ディルクはふっと目を伏せた。

「不幸な事故だ。……あるいは、自身の未熟さが招いた結果かな。

だが心配はいらない。この街のシステムは、そういったロスも計算に入れて設計されている」

ロス。

人の命を、彼はそう呼んだ。

隣で、セラが一歩前に出た。

彼女の握る杖が、カタカタと震えている。

「……神は、見ておられます」

「だろうね。神がいるなら、この美しい秩序を称賛するはずだ」

ディルクはデスクの上の革袋を、私の胸に押し付けた。

「受け取りたまえ。これは口止め料ではない。君たちが街に平穏をもたらした、正当な対価だ」

ずしり、と重い革袋。

その中に入っているのは金貨ではない。

この街の「沈黙」と「共犯」の重さだ。

私はディルクの目を見据えたまま、その袋を受け取った。

ここで突き返すのは簡単だ。

だが、それでは彼の「秩序」の外側に弾き出されるだけだ。

戦うなら、このシステムの内側にいなければならない。

「……いただきます。仕事の報酬ですから」

「賢いね。君なら理解してくれると思っていたよ」

ディルクは満足げに微笑んだ。

部屋を出ると、廊下の陰にリディアさんが立っていた。

彼女は私たちの顔を見ると、ほっとしたように息を吐き、それからすぐに沈痛な面持ちで俯いた。

「……ごめんなさい」

消え入るような声だった。

彼女も知っていたのだ。このシナリオを。

そして、それに加担させられている自分を恥じている。

「リディアさんが謝ることじゃないですよ」

私は努めて明るく言ったつもりだったが、声は低く濁った。

ギルドを出ると、鐘楼の鐘が鳴り響いた。

ゴーン、ゴーン、ゴーン。

朝を告げるその音は、規則正しく、美しく、そしてどこまでも無機質だった。

「……セレンさん」

セラが空を見上げながら呟く。

「私……わかりません。神様が望む正しさと、あの人が言う正しさ。……どちらが、人を幸せにするのか」

「あいつの正しさは、誰も幸せにしてないよ」

私は革袋を握りしめた。

「ただ、誰も『不幸だと気づかせない』ようにしてるだけだ。……麻酔みたいなもんだよ」

あの亡霊の最期の顔が浮かぶ。

彼は罪の意識に縛られ、利用され、それでも最後は笑って消えた。

あの救済すら、ディルクの手のひらの上だったとしたら?

(許さない)

胸の奥で、魔力が熱く脈打った。

フォレストドックを倒した時とは違う、もっと暗く、鋭い震え。

「調べよう、セラ。

消えた新人たちが本当に『ロス』で済まされたのか。

この街の裏側で、何が起きているのか」

セラは私を見て、一度だけ強く頷いた。

「はい。……もう、沈黙しているわけにはいきません」

光あふれるモルヴァの街。

その足元に広がる巨大な影へ、私たちは足を踏み入れた。

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