第49話: “ちょうどいい”悪
廃教会を出ると、東の空が白み始めていた。
手に残る感触は、亡霊を「祓った」というよりも、長い苦しみから「介錯した」という重みに近かった。
「……帰りましょう、セレンさん」
セラの声には、疲労と、それ以上の徒労感が滲んでいた。
私たちは無言で丘を下り、モルヴァの街へと戻った。
◇
早朝のギルド通り。
まだ店も開ききっていない時間だというのに、広場には妙な熱気が漂っていた。
私たちが姿を見せると、パン屋の親父が駆け寄ってきた。
「おお! 帰ってきたか! 本当だったんだな!」
「え……?」
「ギルドから通達があったぞ! 『新人をさらっていた廃教会の亡霊を、期待の若手冒険者が討伐した』ってな!」
親父さんは私の肩をバンバンと叩いた。
「これでやっと安心して眠れる! うちの娘も怖がってたんだよ。いやあ、さすがだなぁ!」
「ありがとよ、英雄!」
「よくやった!」
集まってきた市民たちが口々に称賛の言葉を投げる。
その笑顔は屈託がなく、心の底から安堵しているように見えた。
「悪」が消え、平和な日常が戻ってきたことを喜ぶ、善良な人々の顔。
私の喉の奥で、苦いものがせり上がってくる。
(……違う)
言いたかった。
あの亡霊は誰もさらっていない。
真犯人は別にいるかもしれない。
まだ何も解決していないんだ、と。
けれど、彼らの輝くような笑顔を前にして、その言葉は喉に張り付いて出てこない。
隣を見ると、セラも蒼白な顔で唇を噛み締めていた。
彼女も気づいているのだ。
この歓喜の輪の中で、真実を叫ぶことがいかに無力で、残酷なことかを。
「……行きましょう」
セラが私の袖を引いた。
私たちは逃げるように、歓声の渦を抜けてギルドへと向かった。
◇
ギルドマスター室。
重厚な扉の向こうで、ディルク・ホロウは優雅に紅茶を飲んでいた。
窓からは、広場で喜ぶ人々の姿が見下ろせる。
「報告は聞いているよ。見事な仕事だった」
ディルクはカップを置くと、私たちに向かって拍手を送った。
その音は、部屋の空気を支配するように乾いて響いた。
「報酬だ。今回の働きには特別ボーナスを上乗せしておいた」
革袋がデスクの上に置かれる。
ジャラリ、と重い音がした。それは、私たちが普段受ける依頼の十倍はありそうな重さだった。
私は革袋に手を触れず、ディルクを睨みつけた。
「……嘘を広めましたか」
「嘘?」
ディルクは心外だと言わんばかりに眉を上げた。
「あの亡霊は、誰もさらっていません。あれはただ、自分の罪に囚われていただけの残留思念でした。……新人の失踪とは無関係です」
「それが、どうしたというんだい?」
ディルクの声は、あまりに平坦だった。
悪びれる様子も、動揺する素振りもない。ただ純粋に、私の指摘の意味がわからないという顔をしている。
「どうしたって……、街の人たちは誤解しています。真犯人はまだ――」
「セレン君」
ディルクが言葉を遮った。
彼は椅子から立ち上がり、窓辺へと歩み寄った。
「下を見てごらん。彼らの顔を」
窓の外では、まだ人々が笑い合っている。
「彼らは怯えていた。夜に出歩くのを控え、商売も滞り、街全体の活力が低下していた。……なぜだかわかるか? 『理由のわからない消失』が一番怖いからだ」
ディルクは振り返り、薄く笑った。
「人はね、耐えられないんだよ。『偶然の不幸』や『姿の見えない悪意』にはね。
だから、形を与えてやる必要がある」
「形……?」
「そうだ。『これが原因だ』というわかりやすい悪をね。
亡霊が犯人だった。それを君たちが倒した。……どうだい? 物語として完璧だろう?
おかげで彼らは安心を取り戻し、今日からまた勤労に励むことができる。経済が回り、秩序が保たれる」
ディルクは両手を広げた。
「真実など、運用ひとつで毒にも薬にもなる。
君たちが『亡霊は無実でした』と叫んでごらん? 市民は混乱し、再び恐怖し、ギルドへの不信感を募らせるだけだ。
……誰が幸せになるんだい?」
彼の言葉は、あまりに論理的で、そしてあまりに冷徹だった。
私の耳――聴覚が捉える彼の声には、一片の揺らぎもない。
心拍も、呼吸も、一定のリズムを刻んでいる。
彼は本気で信じているのだ。
嘘をついて騙しているのではなく、「これが正義だ」と心の底から確信している。
(……こいつは、化け物だ)
魔物よりも恐ろしい。
理路整然とした狂気が、人の形をしてそこに立っている。
「……じゃあ、消えた新人たちは?」
私が絞り出すように問うと、ディルクはふっと目を伏せた。
「不幸な事故だ。……あるいは、自身の未熟さが招いた結果かな。
だが心配はいらない。この街のシステムは、そういったロスも計算に入れて設計されている」
ロス。
人の命を、彼はそう呼んだ。
隣で、セラが一歩前に出た。
彼女の握る杖が、カタカタと震えている。
「……神は、見ておられます」
「だろうね。神がいるなら、この美しい秩序を称賛するはずだ」
ディルクはデスクの上の革袋を、私の胸に押し付けた。
「受け取りたまえ。これは口止め料ではない。君たちが街に平穏をもたらした、正当な対価だ」
ずしり、と重い革袋。
その中に入っているのは金貨ではない。
この街の「沈黙」と「共犯」の重さだ。
私はディルクの目を見据えたまま、その袋を受け取った。
ここで突き返すのは簡単だ。
だが、それでは彼の「秩序」の外側に弾き出されるだけだ。
戦うなら、このシステムの内側にいなければならない。
「……いただきます。仕事の報酬ですから」
「賢いね。君なら理解してくれると思っていたよ」
ディルクは満足げに微笑んだ。
◇
部屋を出ると、廊下の陰にリディアさんが立っていた。
彼女は私たちの顔を見ると、ほっとしたように息を吐き、それからすぐに沈痛な面持ちで俯いた。
「……ごめんなさい」
消え入るような声だった。
彼女も知っていたのだ。このシナリオを。
そして、それに加担させられている自分を恥じている。
「リディアさんが謝ることじゃないですよ」
私は努めて明るく言ったつもりだったが、声は低く濁った。
ギルドを出ると、鐘楼の鐘が鳴り響いた。
ゴーン、ゴーン、ゴーン。
朝を告げるその音は、規則正しく、美しく、そしてどこまでも無機質だった。
「……セレンさん」
セラが空を見上げながら呟く。
「私……わかりません。神様が望む正しさと、あの人が言う正しさ。……どちらが、人を幸せにするのか」
「あいつの正しさは、誰も幸せにしてないよ」
私は革袋を握りしめた。
「ただ、誰も『不幸だと気づかせない』ようにしてるだけだ。……麻酔みたいなもんだよ」
あの亡霊の最期の顔が浮かぶ。
彼は罪の意識に縛られ、利用され、それでも最後は笑って消えた。
あの救済すら、ディルクの手のひらの上だったとしたら?
(許さない)
胸の奥で、魔力が熱く脈打った。
フォレストドックを倒した時とは違う、もっと暗く、鋭い震え。
「調べよう、セラ。
消えた新人たちが本当に『ロス』で済まされたのか。
この街の裏側で、何が起きているのか」
セラは私を見て、一度だけ強く頷いた。
「はい。……もう、沈黙しているわけにはいきません」
光あふれるモルヴァの街。
その足元に広がる巨大な影へ、私たちは足を踏み入れた。




