第48話: 廃教会の亡霊
ギルドの扉が閉まる音が、やけに重く響いた。
いつもの喧騒がない。酒杯をぶつけ合う音も、自慢話に花を咲かせる声もない。
ただ、書類をめくる乾いた音と、低い囁き声だけが満ちている。
「……おかしいですね」
セラが不安げに眉を寄せる。
私も同感だった。十日前、私たちがここを発つ時は、新人たちの熱気で溢れていたはずだ。
私はカウンターに向かい、リディアさんに声をかけた。
「リディアさん、戻りました」
リディアさんは書き物を止めて顔を上げた。その表情には、いつもの皮肉めいた笑みはなく、どこか疲れが滲んでいる。
「……セレン、それにセラも。生きてたのね」
「まあ、なんとか。……それより、なんか静かじゃないですか? 他の新人たちは?」
私が視線でホールを巡らせると、リディアさんはふいと目を逸らした。
「辞めたわよ」
「え?」
「田舎に帰ったか、他の街へ流れたか。……冒険者なんてそんなものよ。キツい依頼に心が折れて、荷物をまとめて消える。よくある話」
リディアさんの声は平坦で、まるで台本を読んでいるようだった。
だが、私の耳は聞き逃さなかった。
彼女のペン先が、わずかに紙を引っ掻く音。
心拍が、一瞬だけ速くなった音。
(……嘘だ)
「全員ですか? あの、俺たちと話した茶髪の二人組も?」
「……ええ。昨日の夜、いなくなったわ」
いなくなった。
“帰った”ではなく、“いなくなった”。
その言葉の選び方に、背筋が寒くなる。
その時、階段の上から穏やかなバリトンボイスが降ってきた。
「彼らのことは残念だったね」
見上げると、ギルド長ディルク・ホロウが立っていた。
仕立てのいい服、整えられた銀髪。彼は階段をゆっくりと降りてくると、私たちの前で足を止めた。
そして、値踏みするように目を細める。
「……ほう」
ディルクの瞳が、私とセラを射抜く。
「魔力の質が変わったね。森で何か掴んだかな?」
「ええ、少しだけ」
私が答えると、ディルクは満足げに頷いた。
「素晴らしい。努力は嘘をつかない。君たちのように順応し、成長する者こそが、この街の秩序には必要だ」
彼は「秩序」という言葉を、まるで宝石のように大切に口にする。
「逃げ出した彼らには、この街の空気は少し重すぎたのかもしれません。……ですが、残った君たちには、相応の仕事を頼みたい」
ディルクは懐から一枚の依頼書を取り出し、カウンターに置いた。
羊皮紙には、黒いインクでこう書かれている。
【廃教会の調査および浄化】
「廃教会……?」
「街外れの古い聖堂だ。最近、そこから不気味な光が見えるという報告があってね。……市民が怯えている。新人が消えたのも、その亡霊の仕業だという噂まで立つ始末だ」
ディルクは困ったように肩をすくめた。
「もちろん、ただの噂だ。だが、不安は秩序を乱す。誰かがその“不安の種”を取り除かねばならない」
「それが、亡霊……」
「そうだ。君たちならやれるだろう? これは昇格試験への推薦を兼ねた、特別依頼だ」
昇格試験。
冒険者としてのランクを上げるチャンス。
だが、なぜだろう。私の直感――音魔法で鍛えた“聴覚”が、警鐘を鳴らしている。
ディルクの声はあまりに滑らかで、淀みがない。
まるで、最初からそこに置くべき駒が決まっていたかのように。
「……引き受けます」
先に答えたのは、セラだった。
彼女は依頼書をじっと見つめ、静かな怒りを秘めた声で言った。
「もし本当に亡霊がいるなら、鎮めなければなりません。……それに、新人の失踪を怪異のせいにして怯える街を、放っておけませんから」
「賢明な判断だ、聖女殿。神も喜ぶだろう」
ディルクは完璧な笑みを浮かべ、踵を返した。
◇
街外れの丘に建つ廃教会は、夕暮れの中に黒いシルエットを浮かび上がらせていた。
かつては立派な聖堂だったのだろう。だが今は屋根が半分崩れ、ステンドグラスは砕け散り、壁には蔦が絡みついている。
風が吹くと、壊れた窓枠がヒュウ、と寂しい音を立てた。
「……悲しい音がします」
セラが杖を握りしめて呟く。
「悲しい?」
「はい。ここには“悪意”がありません。あるのは、深い悲しみと……諦めのような気配だけ」
私たちは崩れかけた扉を押し開け、中へと入った。
堂内はひんやりとしていて、埃とカビの匂いがする。
祭壇の奥、砕けたマリア像の前。
そこに、影が立っていた。
ボロボロの修道服を纏い、半透明の体を持つ人影。
顔は見えないが、その手には錆びついた大剣が握られている。
『……去れ』
声ではない。空気が直接振動するような、重い響き。
『ここは……眠る場所だ……誰も、通しはしない……』
亡霊――グレイヴガード。
「出たな」
私は短剣を抜き、重心を落とす。
だが、亡霊は襲いかかってこない。ただ、祭壇を守るように立ち尽くしているだけだ。
「……待ってください」
セラが私の前に出た。
「彼は、魔物ではありません。……これは、残留思念。死してなお、何かを守ろうとしている魂です」
『……守る……そうだ、守らねば……罪を……』
亡霊がうめく。
その時、私の耳が奇妙な音を捉えた。
亡霊の胸のあたりから聞こえる、微かなノイズ。
それは心音ではない。もっと無機質で、歪な……。
(……なんだ? この音……?)
まるで、誰かに“そうあれ”と強制されているような、不協和音。
「罪?」
セラが一歩近づく。
『我らは……見捨てた……疫病の夜……扉を閉ざし……救いを求める手を……拒絶した……』
亡霊の声が震える。
『だから……ここは開けてはならぬ……罪の証……忘れ去られるべき場所……』
「……そんな」
セラが息を呑む。
この亡霊は、過去にこの教会で起きた悲劇――疫病患者を見捨てた後悔に縛られているのだ。
自らを“悪”と断じ、人が近づかないように威嚇し続けている。
「……ディルクは言ったよな。『新人が消えたのも亡霊の仕業だという噂がある』って」
私はギリ、と奥歯を噛んだ。
「違う。こいつは誰も襲ってない。ただ、誰も入らせないようにしてるだけだ。……新人をさらうような奴じゃない」
『……去れ!!』
亡霊が咆哮し、大剣を振り上げた。
拒絶の衝撃波が堂内を駆け抜ける。
「来ます! セレンさん!」
「わかってる! でも、こいつは――!」
私は地を蹴った。
亡霊の大剣が床を叩き割り、瓦礫が舞う。
速い。だが、フォレストドックほどではない。今の私なら見える。
(倒すのは簡単だ。今の俺たちなら、この亡霊を消滅させられる)
だが、それでいいのか?
ディルクは言った。「不安の種を取り除け」と。
この亡霊を倒せば、街は「犯人が消えた」と安心するだろう。
消えた新人たちのことも、「亡霊にやられた不幸な事故」として処理される。
(……ふざけるな)
都合のいい悪役。
真実を隠すための蓋。
それがこの亡霊の役割だというのか。
「……セラ! 合わせられるか!」
「はい!」
私は亡霊の懐に飛び込んだ。
大剣が横薙ぎに振るわれる。それを紙一重でかわし、私は亡霊の胸――あの奇妙なノイズがする場所へ手を伸ばした。
「あんたは悪くない。……ただ、利用されてるだけだ!」
指先に魔力を集中させる。
倒すためじゃない。
この魂を縛り付けている“鎖”を断ち切るために。
「震破!!」
私の掌から放たれた波動が、亡霊の胸を貫いた。
同時に、セラが祈りの言葉を紡ぐ。
「主よ、彷徨える魂に安息を。――ターンアンデッド(浄化)!」
光と振動が交差する。
亡霊の体が白く輝き、その輪郭が崩れ始めた。
『……ああ……光が……』
錆びついた大剣が、カラン、と乾いた音を立てて床に落ちた。
亡霊の姿が薄れていく。
その顔が、最後に穏やかに笑ったように見えた。
『……許されるのか……我らも……』
光の粒子となって、亡霊は消えた。
あとに残ったのは、静寂と、床に落ちた古い鍵だけ。
「……終わりました」
セラが静かに告げる。
だが、私の胸のざわつきは収まらない。
「ああ。……でも、何も解決してない」
私は床の鍵を拾い上げた。
亡霊は消えた。だが、消えた新人たちは帰ってこない。
リディアさんの震える指先。ディルクの完璧すぎる笑顔。
そして、亡霊が口にした「罪の証」。
「セラ。……俺たちは、何かとんでもないものの“入口”に立ってるのかもしれない」
崩れた天井から、月明かりが差し込んでいた。
その光は冷たく、街の闇を照らすにはあまりに頼りなかった。




