第46話: 最下段の依頼
朝。モルヴァの鐘が三つ、白い空気にほどける。
ギルドの扉を押すと、木と酒と革と鉄の匂い。昨日より人が多い。ざわめきの粒が細かい。
「さて、今日は何受けようか?」
セレンが掲示板を見上げる。目がきらきらしている。自分でもわかるくらい、胸が軽い。
「セレンさん。走らないでください。ぶつかりますよ」
セラは笑って肩をすくめる。柔らかな声なのに、視線は鋭い。掲示板の上段と下段、紙の色と質、端の欠け具合まで見ている。
「セレン、落ち着こ? 冒険は逃げないから。ね、まず呼吸しよ?」
ミロがからかうみたいに言いながら、セレンの袖を小さく引っ張る。「落ち着け」の合図。
掲示板は三段仕立て。
一番上は「討伐/護衛」。
厚手の羊皮紙、黒いインク、角は金の鋲で止められている。
真ん中は「採集/運搬」。
紙は薄いが書体は読みやすい。
いちばん下 「街務」。
紙はざらつき、墨も荒い。端が破れ、押された判の色が薄い。
上段の紙は陽を受け、まるで特別な資格の証のように艶めいていた。
「……あれ? “スライム討伐”がない。というか、今日“討伐”が一枚も出てないぞ」
セレンが上段を見たままつぶやくと、
「こればっかりはタイミングもあるから」
と、ミロが横で説明する。
「鼠も、狼も、草原魔獣も……全部空欄か」
そのとき、隣で静かに眺めていたセラが口を開いた。
「ですが……“討伐”がすべて無いのは、少し……不思議です」
ミロは小さく肩をすくめる。
「見えてないだけだよ。“いい依頼”は、顔なじみには掲示板に貼られる前に回ることもあるから。貼られた紙を見る新人より、貼られる前の人がいる……それがギルドなんだ」
セレンは苦笑しながら息を吐く。
「……つまり、ギルドって、思ったより“公平”じゃないんだな」
「公平よ」
不意に背後から声がした。振り向けば、リディアが木札の束を持って立っている。
「ただし順番は、“早い者勝ち”じゃなくて、“覚えられた者勝ち”」
セラはその言葉を否定も肯定もせず、瞳を伏せて受け止めた。
それがかえって、セレンの胸に小さなざらつきを残す。
「……下に行くほど、雑用ばかりだな」
セレンが屈み、いちばん下の紙を覗き込む。
「“街角の清掃”“魔導灯磨き”“飛んだ依頼書の回収”……」
ミロが指でなぞりながら読む。
「昨日とほとんど同じだね」
近くを通った冒険者が、鼻歌交じりに言い捨てた。
「新人はまず下からだ。安全だし、街を覚えるにはちょうどいい」
上段の紙の端が、陽を受けて艶やかに光る。
同じ「F」でも、上の段を手にしていく新人がいる。剣を提げ、肩で笑い、楽しそうに仲間と出ていく。
一方、下段の紙は、落としたことにすら気づかれないように床でめくれている。
三人組の同じ新人冒険者達。
彼らの手には、上段の討伐依頼が握られている。
Fランク討伐:北外れ草原 群れなし・少数魔獣
ロウガ(背に大剣の少年)が肩越しに言った。
「下から始めるのもいいが……上も、ちゃんと睨んでおけよ。置いてかれるぞ」
イーラ(青銀の髪の少女)は振り向かず、静かに続ける。
「焦らなければ、届きますよ。でも……“待っているだけの人”には、届かない場所もあります」
トーマ(小柄な盾持ち少年)は、セレン達にだけ振り返って笑う。
「僕らも同じFランクだよ! ……また外で会おうぜ!」
三人は止まらない。手には討伐依頼。
背中だけが、眩しかった。
セレンは、わずかに指を握る。
「セレンさん、どうしますか」
セラの声はやさしい。が、視線は上段と下段の“境界”から離れない。
「上段の依頼が気になるの?」
背後から、リディアの声。
手に木札の束、肩には事務用の皮紐。いつも通り、無駄がない。
セラが一歩、横に立った。白いヴェールの奥の目が、軽く曇る。
「……こうして並べると、何がギルドにとって価値ある依頼か、見てわかるようにされてますね」
「“わかるようにする”のが、私たちの仕事よ」
「見た目は、序列を教えるからね」
リディアはあっさりと言って、札束を受け取る列へ視線を返した。
「新人への依頼の標準は、一日三件までね。できれば、危険依頼は避けて」
「危険って?」
「“人を斬るか、斬られるか”に近い依頼全般。死ぬから」
さらりと置かれた一言に、セレンはまばたきを忘れた。
セラが静かに息を呑む。
「……忠告、ありがとうございます」
セレンが小さく笑って、掲示板の一番下、ほこりを被った“雑務”の帯を指でたどる。
“街角清掃(南区)”“畜舎清掃(東環)”“下水路点検(旧渠)”“魔導灯ガラス磨き(広場)”。
「小さなことからでいい。俺、誰かの役に立てたら嬉しいから」
ぽつりと落とすと、セラが横目でこちらを見る。
その目には、ためらいと、祈りに似た慎重さ。
「“役に立つ”って言葉、怖くないですか?」
「怖い?」
「“役に立つ=価値がある人間”。それは、そう決めた人にとっての役に立つということ。その思いが含まれてます」
セレンは指を止めた。
「でも、今はまだ、俺ができることが小さいのも事実だ。下からいこう。階段は一段ずつ、だろ?」
セレンは、
“街角清掃(南区)”“畜舎清掃(東環)”“魔導灯ガラス磨き(広場)”。
三枚まとめて剥がして、カウンターへ持っていく。
「……本当に、それでよろしいですか」
セラが言葉を選ぶように間を置く。
「あなたの“前へ進みたい気持ち”は尊いです。でも、“役に立つためだけに選ぶ”のは違う日が来ます」
「今は、単純に役に立ちたいんだ。」
(前世で、誰の役にも立てず終わった。この世界なら、最初の一歩から役に立てる)
「それに、俺、街が好きになりそうだし」
ミロが嬉しそうに跳ねた。
「じゃあ僕、ほうき取ってくる! 清掃は角からやるとゴミが集めやすいんだよ」
セレンは笑って小さく頷いた。
◇
午前。
ガラ、ガラ、と鉄の車輪が石畳を削る。
セレンは膝をつき、目地の泥を木ベラでこそぐ。陽が当たると埃が金に見え、影に入ると墨に変わる。単調な動作なのに、指先から小さな満足がじわじわと上がってくる。
「セレンさん、もう少し左です。そこ、排水の流れが詰まっています」
セラは袖をまくり、膝を濡らしながら一緒に泥を掻き出した。
「こういう場所は、誰も見てくれません。だからこそ、整える価値があります」
「聖女さまが泥だらけって、絵になるな。いや、違うか。罰当たりか」
セレンが照れてふざけると、セラは小さく笑った。
「私はただの人です。神託を受けただけ。神さまは、泥の匂いもご存じだと思いますよ」
セレンはほうきを抱え、角から角へと走る。
「見て! ここ、鳥の羽が詰まってる! 風で吹きだまるんだ」
「よく見つけましたね」
セレンは誇らしげに胸を張った。
◇
昼。
魔導灯磨き。ガラスの覆いを外し、布で円を描く。セラがふっと息を吹きかけ、曇りを消す。
「きれい……」
セレンが目を細める。
「光が丸くなった」
「光は丸いと優しい」
セレンが反射した輪を指で追い、
「人の顔も、丸いほうが―」
「セレンさん」
セラの指先がぴしりと眉間を弾いた。
「そういう比喩は、人を選んでからにしてくださいね」
「……はい。気をつけます」
◇
午後の畜舎。
息づく獣の体温と、乾いた藁の匂いが満ちていた。
セレンは水桶を置き、息をひとつ整える。
「……俺さ。たまに考えるんだ。間違えたら、捨てられるんじゃないかって」
セラは振り返らない。
仔牛の包帯を押さえたまま、静かに問いだけを返す。
「捨てられたことが、あるんですか」
「……だから余計に、怖いのかもな。いつか、その番が来る気がして」
包帯の上に添えたセラの指が、わずかに沈む。
それでも声は変わらない。
「失う前から恐れるなら……あなたは、一度も信じていないのでは」
セレンは目を伏せ、苦笑にもならない息をこぼした。
「かもな。信じるのは、下手になったんだと思う」
「信じなければ、痛みません」
「でも、それじゃ……誰にも触れないままだ」
一瞬だけ、セラの動きが止まる。
沈黙。その奥に、何かを押し殺す気配。
「……あなたは、触れたいんですか」
セレンはすぐには答えず、藁を寄せながら言う。
「……分からない。でも、触れなかったことで後悔するのは、もう嫌なんだ」
セラは顔を上げない。
ただその問いは、静かなまま空に浮いた。
「後悔は、痛みより怖いんですか」
セレンは、即答しなかった。
その沈黙こそが、答えになっていた。
◇
夕刻。ギルド。
受付の前。人の列が短くなり、酒場から歌が零れる時間。
リディアが手元の砂時計をひっくり返し、セレンたちの紙束を受け取る。
「街角清掃、魔導灯磨き、畜舎清掃……ふむ。全部、“地味だけど消えない仕事”ね」
リディアは一枚ずつ角を揃え、確認印を押す。動きに淀みがない。
「お疲れさま。初日より手が早くなったわね、セレン」
「ありがとうございます」
「はい、これ―」
木皿に、銅貨が五枚、転がる。からん、と乾いた音。
「えっと……五枚?」
セラが小声で確認する。目が少し泳ぐ。
「相場よ。清掃が二、魔導灯が二、回収が一。合計、銅貨五枚。パンなら一枚半。……“初日の気分”には薄いかもしれないけど、仕事は嘘をつかない」
リディアが目だけで微笑む。
セレンは頷いて、銅貨を一枚ずつ木皿から拾い上げた。冷たい。
前世の時給と換算しようとして、やめる。
(ここは前の世界じゃない。貨幣の重さより、役に立った実感で決めよう)
「……ねえ」
セレンは少し息を吸って、口を開いた。
「質問しても、いい?」
「どうぞ」
リディアの声は変わらない。けれど、瞳の奥がすっと静まる。人が“本題”に入る気配を扱い慣れている目。
「同じFランクでも、討伐の紙を持っていく新人がいる。俺たちには、下段の紙しか残ってない。これは、“普通”? それとも、“選んでる”?」
空気がほんの少しだけ張る。
セラが横で、視線を掲示板に向けた。ミロは口を結び、わずかに背を伸ばす。
リディアはペン先で机を軽く叩き、言葉を選ぶみたいに間を置く。
「“普通”と言えば普通だし、“選んでる”と言えば選んでる。……新人の初動は、事故が少ないほうがいい。でもね、ここは冒険者の街。早く上がりたい人は、無理にでも上段を取りに行く。私は、“安全・確実・早めの報告”を勧める。生き残るから。それからもう一回忠告。危険依頼は“選ばないほうがいい”。……昇格できても、死ぬから」
言い切ると、リディアはさらりと視線を落とした。
「じゃあ……リディアさんは、俺たちが“選ばれてない”って感じてることについては、どう思う?」
セレンは、思わず問いを重ねていた。
胸の奥で、納得を求める声が止まらなかった。
「感じるのは自由よ。疑うのも、怒るのも、全部。でもね、死んじゃったら、もう何も感じられないの」
その言葉で、会話は終わったように見えた。
リディアが去ろうとした、その時
横から伸びた指が、セレンの肩を二度、こん、と叩いた。
「よう。がんばり屋さんたち」
振り向くと、栗色の髪を無造作に束ねた長身の男。
陽に焼けた頬、笑い慣れた口元。肩にかけた剣はよく手入れされ、鞘口が鈍く光っている。
「ジャレッド・クロウ。Dランク。ギルドじゃ、ちょっとした先輩だな」
彼は気負いなく手を差し出す。
「新人には冷たい奴もいるからね。困ったら、声かけな」
「セレンです。Fランク。」
握手は、思ったよりも軽かった。握りつぶすでもなく、逃げるでもない。
「セラと申します。……聖堂からの巡礼者です」
セラは丁寧に礼をする。言葉は柔らかいが、礼の角度は鋭い。
「へえ、今日は護衛はいないのか?あの修道服のおっかなそうな姉ちゃん」
セラは少し驚いたように瞬きをして、静かに微笑む。
「……お気づきでしたか。今日は、お休みを差し上げています。街を歩かせてあげたくて」
ジャレッドは肩を竦めて笑う。
「どこ歩いてるんだかねぇ……」
ジャレッドは、二人を眺める。視線が一瞬、セラの喉元の小さな聖印で止まって、またすぐ戻った。
(見逃さなかった。けど、食いつきもしない。上手い)
「で、今日は“街務”か。いい選択だ」
ジャレッドが掲示板を見やり、
「……ただし、覚えとけ。『雑用を丁寧にやる奴』は、上でも信用される。“命を預けるのは仲間だけじゃない。秩序だ”これは、覚えといて損がない」
「秩序……?」
セレンの口から、自然にこぼれる。
(前の世界で散々聞いた。ルール、システム、ガバナンス。だけど、ここで言われると響きが違う)
「初めからソロは難しい、街の外の冒険は基本的に団体戦だ」
ジャレッドは椅子の背に肘を乗せ、声を落とす。
「森の一本道で、後衛が転んだ時、気付くのも、立ち上がらせるのも全て“秩序”。依頼の報告、装備点検、挨拶、順番待ち、全部が“秩序”の部品。それが壊れたパーティは、強くても死ぬ。優しくても死ぬ。運がよくても、たぶん死ぬ」
ぐうの音も出ない正論。
「ありがとうございます」
セラが静かに頷く。
「その“秩序”を、私たちは“導き”と呼びます。見えない規則を、見えないまま守れる人は、見えない神さまにも、きっと手を合わせられる」
ジャレッドは一瞬だけ目を細め、すぐに笑った。
「いいね。いい言葉だ」
(この人、どちらにも合わせられる。正しく相槌を打てる)
セレンの背中に、薄い寒気が走る。
「よし。腹減ったろ。食堂いこう。ギルドには新人に冷たい奴も多いが、ここの食堂の煮込みは誰の腹にも温かいからな」
ジャレッドが軽く顎で合図する。
「こういうのはな、仕事したやつ全員で食ったほうが、飯もうまいんだ」
ミロの肩をポン、と叩く。
「ミロ、お前も来い。皿は多いほうがいい」
「う、うん! いいの!?」
ミロは一瞬驚き、それから笑顔でついていく。
セレンは少しだけ眉を上げる。
(見かけより、ずっと“場”を読む人だ)
ジャレッドがひょいと顎で示す。ミロが「やった!」と跳ねる。
◇
ギルド食堂。
香草の煮込み、黒パン、薄いビール。木の卓は古く、皿の縁が欠け、誰かの笑いが染み込んでいる。
「で、セレン。お前、何でそんなに“役に立ちたい”って顔してんのよ」
ジャレッドはパンを割りながら、軽く。冗談のように、核心を刺す。
「顔に出てますか?」
セレンは笑ってごまかす。
「出てる。悪いことじゃない。ただ、“役に立つ=ここにいていい”って思い込みむのには注意しな」
ジャレッドは肩をすくめる。
「疲れてるときに、簡単に自分を捨て札にするからよ」
図星。胸の裏に、薄い紙が貼られたみたいにざわつく。
(そうだ。俺はたぶん、前の人生で、最後にそれをやってしまった)
「……気をつけます」
セレンは視線を落とし、匙の先でスープを揺らす。
「ミロは?」
ジャレッドが笑って、ミロの皿に肉をひと切れ足す。
「なんでそんなに冒険者を手伝ってるんだよ」
「僕ね、ギルドの人が好き。みんな忙しいけど、それは誰かのために忙しいことだから」
ミロはぱっと笑う。
「それに、父ちゃんが、ここにいたから」
一瞬、卓の空気が沈む。セレンが反射的に口を開く前に、ミロが先に笑って続けた。
「大丈夫。父ちゃん、冒険者だし。帰ってくる。僕、待ってるだけじゃいやだから、“街をきれいにしておく係”をやってるんだ。帰ってきたとき、父ちゃんが嬉しいようにさ」
ジャレッドの笑顔が、ほんの少しだけ固くなった。すぐに戻る。
「えらいな。……おかわり、持ってきてやる」
と、立ち上がる。背で何かを飲み込み、肩の力を抜く音がした。
◇
その頃、ギルドの二階。ガラスの柵の影で。
ディルクは下層を見下ろし、無表情のまま小さく指を鳴らした。
音は鳴らない。なのに、部屋の空気が一段ひやりと沈む。
「……削らせ方の上手い奴だ」
ディルクの声は、どこにも届かない温度で滑る。
「新人君。今日は“最底辺”だったな」
「努力は順位だ。上に行く者が価値を証明する」
一音ずつ、確かめるような言い切り。
ディルクは肩を竦め、柔らかな笑みを装い直す。
「ここはギルドだ。秩序の上に報酬が載る。報酬があるから秩序が持つ。君が今日拾ったゴミも、秩序の一部。価値はある。だが順位は低い」
傍らに控える書記が、小さく頷く。
「彼の依頼配分、下段を継続で?」
「ああ、上段は“答えを急ぐ子”に渡しておけ。
……彼と聖女は、まだ“底”でよい。」
ディルクは視線を動かす。広場の端、灯りの輪。
そこに佇む白いフードの少女、セラ。
「聖女は、素材としても、旗としても使える。礼儀正しく迎えるとしよう。内側は、別の手で剥いでみるがね」
口角が、笑っているのかどうか見えない角度で止まった。
◇
宿へ向かう帰り道。
広場はゆっくりと光に置き換わり、塔の縁に灯りが連なって星の見本のよう。
仕事の疲れは、悪くない重さで体に残っている。
「今日もよく働きましたね、セレンさん」
セラが横に並ぶ。昼とは少し違う匂い、香の煙、雨の予感、遠い歌。
「うん。……楽しかった」
セレンは空を仰いで笑う。
ミロが、眠気と戦いながらセレンの手を握る。
「本当に、僕も楽しかったな」
「明日も、楽しくしよう」
セレンが言うと、ミロは安心したようにうなずいた。
(“楽しい”を言語化して確かめる。この世界の俺は、こうして生きるんだ)
「小さくても、今日の俺は“ここにいた”って言える」
「ええ。あなたは、ここにいた」
セラは頷き、それから言葉を探しているようにわずかに視線を落とす。
「セレンさん」
セラが並び、少しだけ真顔になる。
「ジャレッドさんの“秩序”の話、どう思いましたか」
「ん、必要だと思う。好きではないけど、必要なことだ。ただ、その秩序が人をふるいにかけ始めたら、俺は、多分、完全に嫌いなほうに回る」
セラは目を細め、小さく息を吐く。
「……そのときは、私も言葉を選ばずに言います。神さまの名前を出してでも、止めます。」
「うん。約束」
二人の足音が、石畳に同じテンポで落ちる。
遠く、魔導灯が一つ、また一つ、丸く灯る。磨いたばかりのガラスが、子どもの瞳みたいに澄んでいる。
並んで歩くセラが、ふいに足を止めた。
迷いも逡巡も、もうそこにはなかった。
「……セレンさん。ひとつ、言わせてください」
セレンが振り向くより少し早く、セラは続けた。
「あなたは Cランクを目指していますね。ギルドの評価は、大切でしょう。ですが、私は、あの評価に、……いえあの秩序に“作為”を感じます」
夜風が、灯を揺らす。
「人の役に立つこと。それは、尊いです。
でも……あなた自身の価値は、自分で高めなければ、ずっと“誰かにとって都合のいい人”のままです。“役に立つためなら何でもする”という思いは、とても危ういです。あなたが自分を捨てようとしたら、私は止めます。強く!……優しくではなく」
セレンの視線が動く。だが、言葉は出ない。
セラははじめて、その瞳を真正面から見つめて言った。
「明日、私はギルドには行きません。
魔物を討ちに行きます。記録も、報酬も、要りません。
あなたが行くなら、一緒に“震破”の練習にも協力します」
「……ギルドを離れて?」
「はい。価値を、誰かに決めさせないために」
セレンは、すぐには頷かなかった。
けれどその沈黙は、“拒絶”ではなかった。
セラは視線を戻し、わずかに息を吐く。
「返事は、今いりません。ただ、あなたの時間が、あなたのものであるうちに」
二人の足音だけが、夜の石畳へ戻っていった。
セレンは息をのむ。
「……ありがとう。」
素直に言葉が出た。
「約束です」
セラは微笑み、それからそっと付け足す。
声は静かなのに、確かな重さを帯びていた。
「代わりに、私が倒れそうなときは、あなたが止めてください」
風が、唐突に吹いた。
藁が舞い、古い魔導灯の影が揺れ、
二人の影だけが、地面でぴたりと重なる。
セレンは一瞬、息を忘れた。
それでも、口の方が先に動く。
「ああ、任せて」
セレンは思った。
セラからの言葉は、前世で誰にも届かなかった自分に、
ずっと必要だったものなのではないのかと。
周りの価値観の正しさに合わせようと迷い、
評価という無風の檻のなかで、
声もなく沈んでいったあの意識に。
頼られる約束ではない。
救われたという記憶でもない。
ただ、“生き直してもいい”と、
静かに告げられたのだ。胸の奥で。
最底辺の依頼は、夜のはじまりに溶けてゆく。
誰も称えない。誰も覚えていない。
けれど、明日の朝、街は少しだけきれいになっている。
それで、いい。
今日と明日を生きるには、それで、よかったはず、だった。
そして、冒険者達の見上げる高い塔の黒に、セレンはまだ知らない影が、薄く張り付いている。
“選別”。“観察”。“素材”。
言葉にならない気配だけが、ゆっくりと形を持ち始めていた。




