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第44話: 聖女セラとの邂逅

王都モルヴァの朝は、きらきらしている。

露で濡れた石畳が光を返し、パン屋の窯から甘い匂いが漂い、露店の掛け声が弾む。鍛冶場の槌音でさえ、今日は祝祭の太鼓に聞こえた。

俺は肩紐を締め直し、胸の内ポケットの「響きの石」を指でそっと確かめてから、冒険者ギルドの扉を押した。


扉の向こうは、朝の光に満ちていた。

広間の梁に吊られたランプはすでに消え、人と人の笑い声が代わりに天井を照らす。掲示板には新しい依頼札が貼られ、酒場のカウンターではスープの湯気が踊る。——ここが、俺の新しい“朝の場所”だ。


「今日もちゃんと来たわね、セレン」


受付カウンターの向こうで、リディアが片目をつむってウィンク。赤い髪をひとつに結んだ、気の強そうな笑顔。


「ええっと……寝坊しなかったので」


「偉い偉い。あんた、昨日の街頭掃除の件もちゃんと報告入ってるからね。今日は無理しない依頼から。……ほら、ミロ、連れてって」


「おはよう、セレン!」


背後から元気な声。振り返ると、同い年くらいの少年ミロが手を振っていた。栗色の短髪、快活な目。ギルドの雑用をやっている。


「おはよう、ミロ。今日は何の依頼がいいと思う?」


「まず掲示板! 競争率高いから、もたもたしてると全部“掃除”になる」


「掃除でもいいけど……」


「冒険者ならそろそろ“狩り”の気分でしょ?」


ミロに引っ張られ、俺たちは掲示板へ。

木札がびっしり並ぶ板の前は、朝から小さな戦場みたいだ。背の高い冒険者が腕を伸ばし、素早い受付少年が新しい札を打ちつける。俺とミロは隙間を縫って前へ。


「川沿いの薬草採取、時間かかる」「荷運びは午後の便」

「ええと……湿地帯のスライム」「お、村外れの狼……は二人以上推奨か」


「狼はまだ早い」


「だよなぁ。じゃ、スライムとか?」


「良さげ。セレンは魔法も使えるんでしょ」


ミロがスライム札をはがし、俺に渡す。

俺もうなずき、二人で受付へ向かう。


「スライム討伐ね、魔法がつかえるのなら、まあ大丈夫かしら。でもね、危なくなったらすぐ逃げなさい。冒険者ってのは命あってこそ成り立つ生業なんだから。」


リディアの声を背に、俺はギルドの扉へ。


その時だった——


音が、一瞬だけ薄くなった。

鍛冶の槌が二回止まり、酒場の笑いがひと呼吸遅れて戻る。広間全体の空気が、ほんの刹那、どこかへ引き寄せられた気がした。


扉が、静かに開く。


白い衣が朝の光を受けとめる。豪奢ではない。少し旅の埃を含んだ白。胸元と袖口に、胸元と袖口に、簡素な刺繍で刻まれたアルセリア聖堂の紋。円環の中に、四つの光がきらめく印。

少女が一人、入ってきた。年は俺たちより少し上に見える。漆黒の髪は陽の光を受けてかすかに栗色を帯び、肩先で静かに揺れた。瞳は澄んだ湖みたいに静かだ。手に持つ杖は、装飾がほとんどない。握りの部分だけ、何度も祈りで磨かれたみたいに柔らかく光っている。


広間の空気が、わずかに距離を取った。

“アルセリア”の紋章が、ここでは敬意と同時に“面倒ごと”の印でもある。噂話が、ほんの一拍で消えた。誰もが視線を送るが、踏み込まない。


少女の少し後ろ、二歩ほど離れた位置に、もう一人の女性が立つ。髪をきっちりとまとめ、無駄のない所作。護衛。そう見えた。彼女の視線は広間全体をやわらかく撫でるが、鋭さを隠さない。


白の少女は、まっすぐ掲示板の前まで歩いてきた。

俺とミロの、ほんの一歩手前で止まる。杖の先が床をコン、と一度だけ軽く叩いた。


そして、俺を見た。


見られている、とわかった。

名乗るより早く、心臓の側で、内ポケットの石が、ぽん、と小さく応えた。


「見つけました」


少女は、まっすぐに言った。

高くも低くもない、よく通る声。広間のざわめきが、ほんの少しだけ遅れて耳に戻る。


「あなたです」


「……え?」


俺の声は、想像よりだいぶ間抜けだった。ミロが「友達?」と肘で小突いてくる。


「すみません、人違いだったらどうしようってソワソワしてたんですけど」


少女は、そこでやっと、少しだけ口元を和らげた。


「大丈夫でした」


「だ、大丈夫って何が?」


「あなたを探していました。私、セラと申します」


「俺は、セレン。セレン=アルディス」


口が勝手に名乗った。

ミロが間に入る。


「僕はミロ。えっと、セラさん? 何か用?」


「神託を追ってきました」


白い少女、セラは、当たり前のことのように言う。

俺とミロは同時に目を瞬く。周囲の冒険者たちは、そこで初めて“なるほどアルセリア聖堂絡みか”と悟ったように、さらに一歩だけ距離をとった。


「神託って、なんの話だ?」


ミロが小声で耳打ちする。


「わからない」


俺は喉の奥を湿らせる。末端魔孔が、ざわり、と小さく開く。セラは、セレンの持つ木札に一度だけ目をやってから、すぐに俺の目に戻した。


「私はアルテリア聖堂から来た、えっと……“聖女候補”なのです。なので、まだ誰にも認められていません。だから誰も私を知りません」


広間のどこかで、椅子がきしむ音がした。

リディアの視線がこちらへ来る。受付台の下で、彼女はさりげなく合図鐘に指を触れ、すぐに離した。警戒と、配慮。そのバランスの良さが、なんだかこの街らしかった。


「でも、私に神託がおりました」


セラは続ける。


「“この街に、まだ名を知られぬ者がいる”」


胸の石が、微かに鳴る。

喉の奥がじんわり温かくなる。俺は思わず、喉仏のあたりを指で押さえた。


「それ、俺のこと?」


「はい」


「……俺、依頼の張り紙より地味だぞ」


ミロが吹きだし、セラは一拍の間を置いて、小さく首を横に振った。


「地味ではありません。静かに、鳴っているだけです。」

「神の声は、いつだって“まだ何者でもない者”を選びます」


静かに、鳴っている。

知らないのに、懐かしい言い回しだった。俺は思わず、笑ってしまう。照れ隠しの、いつもの笑い。


「……変な人だな」


「……!?よ、よく言われます」


セラは言い切って、少しだけ肩の力を抜いた。

護衛の女性が半歩近づき、小声で「セラ様」と呼ぶ。セラはこくりと頷き、彼女に目で「大丈夫」と返す。二人の間に、訓練された信頼の線が見えた。


「セレンさん」


「うん」


「怖がらせるつもりはありません。私は、祈るより歩くために此処に来ましたから」


「……祈るより?」


「はい。祈りは、大事だけれど“誰かに委ねる”ことでもあるから。私は、あなたと並んで歩くためにここへ来ました」


ミロが俺を見る。俺はミロを見る。どう返せばいいか、わからない。リディアがカウンター越しに手をひらひら振って


「話なら奥のベンチで」


と目で促す。


ミロが俺を見る。俺はミロを見る。

どう返せばいいか、わからない。けれど、今は―


「……悪い。俺、もう出るんだ。依頼を受けたばかりでさ」


セラは瞬きもしなかった。ただ、ほんの一拍遅れて杖を握り直す。


「その依頼書……魔物を、一人で討伐に行くのですか?」


その瞬間、セラの瞳が、わずかに鋭さを帯びた。

ギルド全体を、射抜くように見回す。誰も、何も言わない。


「……いいでしょう。わかりました」


セラは一歩下がり、踵を返した。


「お話は、後にしましょう。私も、行きます」


護衛の女性が慌てて追いつき、低声で何かを囁く、

セラは首を横に振ったまま、振り返らない。


白い衣が扉の向こうへ消える。

その背中は、聖女ではなく、一人の少女のそれだった。


「……ちょ、ちょっと待て、セレン?」


ミロが肘で小突く。


「あれ、きっとついてくるぞ!?」


「わかってる。でも、依頼は依頼だ。まずスライムだ。それにきっと悪い子じゃないよ。」


広間の視線は、彼女たちが通り過ぎるたびに、さざ波みたいに揺れて、そして、何事もなかったように元のざわめきへ戻っていく。教会の紋章は、やっぱり少し距離を生む。けれど、今日のモルヴァは光のほうが濃い。

扉が閉まる。

ミロが両手を広げ、肩をすくめる。


「“見つけました。あなたです”って。あれ一度でいいから言われたいよね」


セレンが苦笑する。

二人で受付に戻ると、リディアが受け札を確認して、にやりと笑った。


「……さっきの子、聖女“候補”って言ってたわね」


「うん。知らない?」


「こっちでもほとんど聞かないわよ。教会も人手不足だし、聖堂の“本物”は簡単に外に出さないもの。でも、あの目は本物だった」


リディアは印を押し、札を返してくる。


「気をつけて行っておいで。湿地帯はこの時間は霧が出てるから見つけるのも大変よ」


「ありがとう」


「あと、セレン」


「うん?」


「“見つけました。あなたです”って、いつか私にも言ってくれていいからね」


「何を?」


「初めての魔物討伐の際は、私に報告してね」


リディアが肩を揺らし、カウンターの奥に引っ込む。

俺はミロと肩を並べ、広間を後にした。外の陽射しは、さっきより少しだけ柔らかい。街はまだ、キラキラしている。

ただ、胸の石がときどき鳴った。

ぽん、ぽん。

誰かが俺の名前を、やさしく確かめるみたいに。


街のきらめきが背中で遠ざかる。

石畳はやがて土道に変わり、湿り気を帯びた風が頬に張り付いた。川音が近づくにつれ、鼻先に生温い泥と腐葉の匂いが混じる。

少し後ろ、十歩ほどの距離を保って、白い影が二つついてくる。

セラと、その護衛の女性だ。歩幅は小さいのに遅れない。靴底が水気を拾っても足音を立てない。訓練の跡が見える。


「ちょうどいい機会です」


セラが囁くのが、風に紛れて届いた。


「神託の人物か、戦いを、見せてもらいましょう」


「了解しました、セラ様」


護衛の女性が短く応じる。


「危険なら介入します」


「ええ。でも、最初は……私達は祈らず、見守ります」


俺は聞こえないふりをした。

依頼札は俺の腰袋にある。初めての“本物の討伐”。やる、と決めて受けた以上、振り向かない。


湿地帯の入り口は、思ったより暗かった。

背の高い葦が日差しを遮り、泥水の小さな鏡がいくつも足元で揺れる。ときおり、見えない何かが水面をはねて輪を広げる。


アルトやノーラのいない横がやけに広く感じる。

無意識に、足音を小さくする。短剣の柄に汗が滲む。


いた。

視界の端、澱んだ窪みの中に、無色の“ふくらみ”がある。水ではない。ゼリーのようでいて、液体のようでもある。透けて見える枯葉が、ゆっくり沈んでは止まっている。

それが、ぬるり、と形を変えた。縁が持ち上がり、膜が張る。丸くも四角くもない、境目の曖昧な生き物。


胸の奥が、ひやりと沈んだ。

恐怖とは違う。驚きとも違う。

触れてはいけないものを見た”ときの拒絶感。

体が反応するより先に、背骨が冷たくなる。

その存在には、「生き物らしさ」が一切なかった。

息をしていない。血が通っていない。

ただ、この世界という器に、誤ってこぼれ落ちた“別の何か”。


耳の奥で、音が一枚、剥がれたような気がした。

周囲の水音も風も、遠くなる。自分だけが、何かの底に沈んでいくような


(スライムとはいえこのプレッシャー)


言葉を知らなくても、理解だけはできた。

こいつを許せば、世界が少し壊れる。

だから俺は、震えてでも、踏み込まなければならない。


セレンの足が止まった。呼吸が浅く、肩がわずかに震えている。

恐怖。それだけではない。世界そのものに拒まれているかのような、得体の知れない拒絶。


セラは一歩も出ず、静かにそれを見つめた。


(……そうです。あれは生き物ではありません。“魔物とは、生物ではなく、世界に生じる『歪み』なのです。”)


彼女の目には、セレンとは違うものが映っていた。

祈りの資格を持つ者だけが知る、この世界の裂け目。

神は語らない。ただ、歪みが生まれる。その現実だけがある。


「これが……、スライム」


一歩踏み込む。泥が吸い上がり、足首が冷える。

スライムが反応した。音もなく伸び上がり、重力に逆らうようにこちらへ“寄って”くる。


短剣を横に払った。刃が、確かに何かを斬った感触を返す。

だが、斬れない。膜は割れず、刃筋に沿って形を変え、元の塊に戻る。生ぬるい液が柄に伝ってきて、掌がぞわっと粟立つ。


「……っ」


腰が引けた。足が泥に沈み、体重移動が遅れる。

スライムの縁が跳ね、俺の脛に触れ、焼けるような冷たさが走った。冷たいのに痛い。皮膚がきゅっと縮む。


(切れない……? じゃあ、どうすれば……)


喉が乾く。

息が浅くなる。胸の魔孔が縮み、末端が硬直する。悪い兆候だ。

スライムはゆっくり、けれど確実に、間合いを詰めてくる。膜の内側で、何か濁った粒がゆらりと揺れた。核、だろうか。だが、狙える速度じゃない。


(逃げたら、俺は一生、ただの“村のはずれ”のままだ)


魔法学院に入るには、冒険者ランクCがいる。

Cになるには、魔物を倒し、認められなきゃいけない。

魔物を倒さなきゃ、経験も入らない。レベルも上がらない。

“強くなれない”。


(このスライムから逃げたら……終わる)


「セレンさん」


背後から、セラの声が落ちた。

囁くでも叫ぶでもない、澄んだ音量。


「恐れるのは悪くありません。……でも、魔力を止めてはだめです。今のあなたでは魔法でしかスライムは倒せません。」


(俺は、アルトやノーラと一緒に魔物と戦ったときだって、共鳴させるだけだった。誰かの魔孔を響かせるだけで、自分で“殴る”魔法は何ひとつ……)


(音魔法に、攻撃なんてあるのか? けど、音は空気の震えだ。震えなら……相手そのものを震わせるしかない)


乾いた喉に、すうっと水が通る。

魔力を、震えを、止めるな。震えは、悪い兆候じゃない。俺の“始まり”だ。


息を吐く。

胸から喉へ、喉から指先へ。いつもの小さな循環を、意識で“なぞる”。

魔力を集め、練り、留める。

指先の末端魔孔が、ちり、と熱くなる。

握りしめた右手の親指と人差し指の間で、見えない鼓動がつく。ぽん、ぽん。

俺は左足を半歩引いた。短剣は構えたまま。右手だけ、わずかに前へ。


(落ち着け。俺は大きな魔法は撃てない。だから、“小さく”やる)


目の前で、スライムの縁がふるりと伸びる。

水面が歪むように、こちらへ舌を伸ばす前触れ。来る。


「——っ!」


伸びてくる透明の先端に向けて、俺は右手を突き出した。 刃は使わない。指先を、触れない距離で止める。

その“空隙”へ、震えを叩き込む。

音にはならない。だが、指先の魔孔が一瞬だけ大きく開き、圧縮した震えを放つ。

水面のような膜が、ぱき、と目に見えない亀裂を走らせ——はじけた。


「……!?」


スライムが、初めて“反応”した。

表層の張力が崩れ、縁が力なく崩れ落ちる。そこに小さな穴が開き、泥水が吸い込まれる。核がわずかに露出する。


(今だ!)


短剣を返し、柄ごと叩き込む。狙いは核の“横”。

刃で割るのではない。震えで“ほどいて”、物理で“ずらす”。

ぬるりと嫌な感触。指先にまだ震えが残っている。俺はもう一度、小さく、短く、指先に集中した震えを乗せる。


核が、ずると滑った。

スライム全体がぐにゃりと歪み、体積が自重に耐えきれず崩れる。

濁りが広がり、膜がふやけ、輪郭が失われ、やがて、ただの泥水に溶けた。


沈黙。

耳の奥で、心臓の音が遅れて追いつく。


「やった……」


膝が笑い、思わず泥の上に片手をついた。

掌に冷たい感触。ぬめりは、もうない。ただの水と泥。それが無性に嬉しい。


背中で、風が息を吐いた。


「見事です」


セラの声は、さっきよりわずかに温かい。

振り返ると、護衛の女性が周囲を警戒しつつ頷き、セラは一歩だけこちらに近づいていた。距離は保つ。けれど、目は近い。


「いまのは——」

「魔力を集めて、相手に震えを浸透させた……震えによる破壊……」


「《震破しんぱ》」


自分の口から、自然に言葉が出た。


「指先に集めた震えで、表面を、少しだけ壊した。……大きいのは無理だ。ほんの小物を“割る”くらいの、ちっちゃいやつだけど」


「充分です」


 セラはほんの一瞬、目を細める。笑わないけれど、嬉しそうに見えた。


「あなたは今まで、何度も自分を抑えてきた。暴れないように、笑われないように、壊さないように。抑えるのは、強さです。でも、出すのも、強さです」


護衛の女性が、泥を避けるように足場を作ってくれる。俺は立ち上がり、深呼吸した。魔孔が、まだ熱を持っている。使いすぎていない。けれど、もう一発、同じものは……いける。自分で自分の“残量”がわかるのが、少しだけ誇らしい。


「もう一体、います」


護衛が顎で指す。葦の影に、さっきより小ぶりの塊。

俺は短剣を下げたまま、距離だけ詰める。足の運びは、さっきよりも軽い。スライムがこちらを向く。膜が揺れ、縁が伸びる。


(さっきのまま、焦らずに)


右手の指先へ、短く、細く、魔力を絞り解放する。


「——震破ァァァッ!!」


空気が跳ねた。刃ではない。拳でもない。

“振動”だけが、一直線にスライムへ叩き込まれる。


パァァァァン!!


膜の内側で、泡立つような悲鳴。

遅れて、粘質の波がぐらりと崩れ、

中心を裂く“白い線”がスライムを真っ二つに走った。

膜の内側で、何かが弾けた。

粘りのある質が、ひと呼吸遅れて波打ち、中心に“裂け目”が別れた。

核が、顔を出した。


俺は刃ではなく、“柄”でそいつの位置を押しずらす。

ズルッとスライムの体が崩れだす。


二体目は、息も乱さずに倒せた。


(……俺、今……何を……?)


指先が、じんと痺れている。

痛みじゃない。震えた余韻だ。

切れないなら、相手に響かせる。

多分、それだけだった。


アルトのような剣や、ノーラのような雷の魔法がなくても一人で魔物を倒せた。

静かに、しかし確かな達成感が、全身を温めていく。

俺は泥水を払って振り返り、セラと目を合わせた。


「あの……ありがとう。さっきの、声」


「私は何もしていません」


セラは首を振る。


「あなたの魔力が、あなたの魔法を、ただ連れてきただけです」


「報告に戻りましょう。朝のうちに終えられるのは、良いことです」


護衛の女性がさりげなく前に出て、帰路の安全を確かめる。

俺はもう一度、湿地帯を振り返った。最初に踏み込んだときほど暗くは見えない。葦の隙間から差す光が、さっきよりまっすぐだ。


歩き出すと、セラが半歩だけ並んだ。距離はまだ、十歩。

それでいい、と思えた。今は、これでいい。


「セレンさん」


「うん」


「さっき、あなたは震えていました」


「……ああ」


「次は、震えが怖くなくなったあなたを、見せてください」


俺はうなずき、泥道を踏みしめる。

初めての“本物の勝利”は、想像より静かで、想像より温かかった。

ギルドの扉の向こうで、きっとミロが口を開けて待っているだろう。リディアがまた褒めてくれるだろう。


その時の俺は、まだ知らなかった。


この不思議な少女セラが、

俺の旅を、“まだ見ぬ場所”へと押し出していくことを。


その足取りは、浮かれていた。

小さな勝利を抱えたまま、

俺は、初めて冒険者になれた気がしていたのだから。

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