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第43話:モルヴァの陽光、冒険者の街モルヴァへ

希望と光に満ちた旅立ちの日

春の風が畑を撫でてゆく。湿り気を含んだ土の匂いが、芽吹いた若葉と混ざって胸の奥までやわらかく染み込んだ。丘の上の鐘楼から、昼の鐘が三度、澄んだ音で落ちてくる。

昔から変わらない村の真ん中の音、けれど今日は、その同じ音が見たことのない景色へと導く。


「うわ、空、広っ。雲ってあんな速かったっけ」


村の門をくぐり、畑と川と森を抜け、いくつかの丘を越える。

丘を越えると、空がいっそう広くなった。雲の影が走り、野花が群れ、遠くに山脈が薄く重なっている。

道は一本、しかし線のようには見えなかった。

ところどころに刻まれた靴跡や車輪の筋、欠けた石。

誰かが歩いた重みが残っていて、その重みが、今ここで自分の重みと重なる。

旅は孤独になるはずなのに、孤独の輪郭は思ったほど鋭くない。


(行ける)


胸の内側で、小さな震えが、膨らむみたいに広がる。喉の奥、あの日から気づいてしまった場所。魔力が通ると、そこだけ色が濃くなる。そこに意識を寄せる。声にはしない。ただ、そこにいる自分を、少し強く肯定する。

昼過ぎ、道が森へ沈む。木々の葉はまだ柔らかく、陽の光を通して黄緑色の影を地面に落とす。

鳥の声が高く、虫の羽音は細く、遠くで水の気配。

耳が忙しく働きだして、ひとつひとつを違えて拾い上げる。この世界は、こんなにもいろんな音で満ちていたのか、と今さらのように驚く。

村では「同じ音」だと思っていたものが、こんなに違う。重ねて、反らして、溶け合って、離れていく。


「……はは、やばいな。世界って音だらけだな」


夕暮れ前、森の出口が金色にぼやけた。抜けると、視界が一気に開ける。丘の向こう――石造りの巨大な街が、沈みかけた陽の光を受けて、長い影と長い光を交差させていた。


冒険者の街、モルヴァ。古い地図には「モルバ」とも記される都市。旅人はモルヴァと呼び、王国の書記はモルバと綴る。名前が二つあることが、かえってこの街の厚みを増しているように思えた。どちらの名も、たぶん正しい。耳に入る響きが違うだけだ。


「あれ……なんだ、あの影。壁?壁か?でかっ……でかすぎない?」


 城壁は高く、滑らかな石を幾層にも積み上げている。見上げれば、壁の向こうから塔の森が見えた。塔と塔の間には、細い橋が空を渡している。風に揺れているのに、崩れ落ちる気配がない。橋の縁には浮遊石がはめ込まれ、淡い光が脈打っていた。街道の先、門の脇に植えられた樹は、幹の内側から魔導灯が透けて光っている。葉の間を小さな光球がふわふわ漂い、子どもが笑いながら追いかけていた。


(ここが……)


 言葉が喉でほどける。


「ここが、冒険者の街……」


と続けたかった。けれど、声にすると小さくなってしまう気がして、胸の中でそっと反芻する。胸が高鳴る。鼓動という音のほかに、もうひとつ、無音のはずの高鳴りがある。未来に触れそうになると、人は音のない音を聞くのだろうか。


やがて、朝靄の向こうで巨大な影がふくらみ、輪郭を得る。


街の城壁が、朝靄の向こうからゆっくり姿を現した。

石造りの弧、見張り台、往来を行き交う荷車。村の鐘とは違う、無数の音が重なり合っている。人の声、蹄の響き、商人が鳴らす金属の鈴。モルヴァの街は思っていたより、ずっと騒がしかった。


「馬車の車輪音と、鈴と、怒鳴り声……全部重なってる。村の鐘と全然ちがう。……街って、こんなに騒がしいのか」


門前には列ができ、槍を持つ門番が合図する。


「身分は?」


「農村出の旅人です。冒険者登録を」


 銀貨一枚、通行税。手のひらから離れた金属が木盆の中で乾いた音を立てた。

なぜかその音が心地よくて、深く息を吸う。

出入りする人の数に、目が追いつかない。

旅装束の商人、角飾りをつけた護衛、背丈ほどの剣を背負った女の戦士、服の裾から魔道具の金属がちらりとのぞく青年。

荷車の上では異国の果物が光り、道端では砂人形が踊っている。見知らぬ言葉。見知らぬ仕草。見知らぬ笑い声。知らないことだらけなのに、怖くない。怖さを上回る速度で、胸の期待が増えていく。


門をくぐる。

足元の石畳は、村のものよりもずっと均一で、隙間には小さな白い花が根を下ろしている。

街路樹の枝から、透明な灯りがぶら下がって、昼なのにひかりを落としていた。

店からは香辛料の匂い。鉄の打ち合う音。酒場の歌。路上で弾く竪琴。喧嘩の寸前みたいな笑い。世界が、音を惜しみなく配っている。


初めての交差路で足が止まった。どちらを向いても、驚くものがある。

右を見れば噴水があり、その縁で子どもが足をぱしゃぱしゃさせている。

左を見れば市場があり、声が幾重にも重なって波になっている。

まっすぐ進めば、何かのパレード。見たことのない仮面、羽根、色。


「うわっ、香辛料の匂いだ!鼻の中が熱い!」


「若いの、舌が目覚める粉だよ。ひとつまみどうだ!」


「ありがとう、後で必ず来ます!」


「らっしゃい、笛の即興だよ」


子どもが笑う。金槌、鉄の擦れ、竪琴、怒鳴り声からの笑い。音が波みたいに押し引きしては溶ける。

セレンは、体の軸が少しだけ遊ぶように揺れているのに気づいた。浮かれている。浮かれていいと思った。浮かれながら、足はしっかり地面を踏んでいる。


「噴水……市場……あっちはパレード!?俺どっちに行こうか!」


交差路で立ちすくんでいると、袖をくい、と引かれた。

振り向くと、茶色の髪に前髪を垂らして片目を隠した少年が立っていた。

痩せてはいるが、目の中に芯のような光があった。

腰にはギルド印の木札がぶら下がっている。ギルドの雑用印。

小さな荷車の取っ手を握り、もう片方の手には麻紐で結んだ小包をいくつもぶら下げていた。


「この街は初めて?」


 声は穏やかで、気取らない。こんなに人の多い場所なのに、耳の奥にすっと届く声だった。


「そう、見える?」


「うん。見える。初めての人は、みんなね、上ばっかり見るから目にキラキラした光が入ってるんだ。……いいね、その目」


少年はくすっと笑った。


「僕はミロ。荷運びをやってる。あとギルドの雑用係もやってる。この街では、道に迷ったら、紋章を探すといいよ。ほら、あそこ」


ミロが指差した方向、街のほぼ中心に、他と比べてもさらに大きな建物があった。

玄関の上、白い石の大扉に、古い文字のような、しかし見たことのない流麗な線が刻まれている。

線は絡み合い、ひとつの言葉を形作っていた。


『人は試される』


読み上げると、背筋が自然に伸びる。試される、と刻まれているのに、責められている感じがまるでない。

不思議だ。問いかけ、というより、招待状に近い。試されることそのものが、歓迎の合図みたいに思えた。


「あれが冒険者ギルドだよ。見た感じ、腰の短刀、君も冒険者だろう。この街がはじめてなら、宿に行く前に、ギルドに寄っておいたほうがいい。街は広いから、夜になると余計に広くなる」


「ギルドへの案内、お願いできますか?」


セレンは、ミロの腰のギルド印の木札をチラッと見て言った。


「もちろん。荷車押しながらでよければ」


ミロは荷車の取っ手を片手で操りながら、もう片方でセレンの袖を軽く引いた。

迷う隙を与えない、けれど急がせすぎない歩幅。

路地を抜け、露店の間をすり抜け、石段を二つ上り、曲がり角で一度だけ立ち止まる。


「ここを曲がると正面が大通りになる。ギルドは大通りの突き当たり。あ、これ」


ミロは、胸元の紐をするりと抜いて、手のひら大の布飾りを差し出した。

藍色の古布に、小さな白の結び目がいくつも縫い込まれている。

ところどころに乾いた香草の葉が縫い留められていて、匂いは弱いが確かに生きていた。


「お守りだよ。旅の人には配るって、僕が決めた。……父ちゃんの真似なんだけどね」


「ありがとう。代金は」


「代金なんていらないよ。冒険から帰ってきたら、そのとき笑ってくれたら、それでいいや」


「それなら、絶対笑って戻るよ」


そう言って、セレンとミロは笑った。

返す言葉の見つからなかった沈黙を、ミロは笑いで満たしてくれる。セレンはお守りを首にかけ、指でそっと結び目をなぞる。硬さと柔らかさが交互に指先に触れる。そのリズムで、緊張がほんの少し整う。


「さ、ギルドに行こうよ」


ミロの背中について、大通りに出る。石畳は磨かれ、陽を受けて白く光る。

両側の建物は均整が取れているのに、どこか人の手の癖が残っていて、整いすぎた無機質さがない。

窓辺に吊るされた風鈴が、風に触れてちりんと鳴る。金属の高い音、ガラスの丸い音、貝殻の乾いた音。耳に触れるたび、体のどこかに新しい場所ができるような感じがする。


ギルドの前に立つ。近づくほどに、その大きさは現実味を増した。

白い大扉は、両手を広げた巨人でも届かない幅で、表面の彫刻は、陽の角度で陰影が深くなる。

扉を支える柱には、古い時代の戦士たちの浮き彫り。

笑っている者、剣を置いて祈る者、傷を確かめながら仲間の肩を叩く者。どの顔も、怖くない。強いけれど、強いだけではない。そこに「自分を使う」覚悟のようなものが刻まれている。


「でっっっかい……! 扉、巨人用?」


「この扉は、まあ、“巨人も入れます”って意味の見栄かな。中はもっとうるさいよ。君が賑やかなギルドが好きなら、きっと気に入ると思う」


「うるさいの、好きだよ」


「じゃ、いらっしゃいセレン。冒険者の台所に」


扉の前で、セレンは一度だけ深呼吸をした。

喉の奥の魔孔に、空気がそっと触れる。意識を寄せる。声は出さない。ただ、そこを通る空気に、ほんの少しだけ「今から行く」という意思を重ねる。息を吐くと、胸の中のざわめきが、ひとつの音に揃っていく。


扉は重かったが、重さの中に油のよく回った滑らかさがあった。わずかな軋み音がして、光と音の波が一斉に流れ込んでくる。酒と革と油の匂い。昼前から酒杯を傾ける者、磨かれた装備の光、笑いと取引の声、喧噪なのにどこか調律されている。掲示板には羊皮紙がぎっしり並び、「採集」「護衛」「討伐」の札が色分けされていた。

広い。けれど空虚ではない。

正面は掲示板。びっしりと依頼書が貼られ、紙の角が風でめくれている。

右は酒場。笑い声とグラスの触れ合う音、弦の擦れる音。

左は装備屋の窓口。革の匂い、油の香り、磨かれた金属の冷たい光。

天井からは魔導灯がいくつも吊られ、白い光と暖かい光が交互に落ちている。

人の声は多いが、喧噪の中に妙な秩序があった。怒鳴り声が起きても、すぐに笑いに転じる。取引の駆け引きも、どこか演奏みたいに滑らかだ。


「受付は、あっちだよ」


ミロに促されて、セレンは木の柵で区切られた窓口に向かった。

列ができている。旅人、冒険者、鍛冶師、魔術師。

各々の装いが違うのに、窓口の前では同じ姿勢で待っているのが、不思議に心を落ち着けた。

順番というものが、ここでは価値の秤になっていない。

正面の椅子に座る女性が、ひとりひとりに同じ目の高さで言葉を渡しているからだろう。


 亜麻色の髪をまとめた女性。目尻にはわずかに笑い皺があるが、その皺の奥に、冷えない光があった。

書類を捌く手は速いのに、焦っている感じがまったくない。言葉も、必要なところで必要なだけ。余計なものを削ぎ落とした温度だけが、相手の耳に残っていく。

列が進む。

気づけば、目の前に立っていた。女性は顔を上げ、セレンの肩から下げた布飾りに一瞬視線を落として、それから目を合わせた。


「新規さん?」


カウンターの女性が顔を上げる。鋭い目だが口元は笑っている。

胸元のプレートには、「受付:リディア」と名が書かれている。


「はい。冒険者の登録をお願いしたいです」


「身分証は?」


「ありません。村の推薦状なら」


「セレン=アルディス。辺境の農村、七歳……え、七歳?」


リディアの目がまるくなる。七歳の登録は、この街では珍しくも危なっかしくもあるのだろう。

村長のハルドからの手紙に目を走らせたリディアはうなずき、木札を取り出す。


「推薦状は本物のようね……」


「登録には、通常、簡単な面談と、魔力波形の記録を行います。そうね、今日は混んでるから半日待ちかな。」


「でも、いいわ、今日は特別に、早く済ませてあげる」


リディアは片目を軽くつむった。


「どうして、特別に?」


「新しい人は、勢いがあるうちに記録したほうがいいの。それに、今日は良い日よ。あなたみたいな顔の子が、三人も来た。いい日って、重なるのよ。不思議ね」


窓口脇の小さな扉が開き、セレンはリディアに連れられ内側に通された。

ミロが「ここで待ってる」と手を振る。

セレンはうなずき、木の廊下を進む。壁には地図が掛けられ、ギルドの規約が簡潔に示されている。

「無謀を誇らないこと」

「他者の命を数えないこと」

「出会いに礼を言うこと」

どれも短く、けれど骨の通った文。読むだけで体の姿勢が整うようだ。


小部屋で、魔力波形の記録を取る。掌を水晶板に当てると、淡い膜のような光がふわりと持ち上がり、表面に波紋が広がっていく。

波紋は重なり、ほどけ、また重なる。水に投げた小石の輪のようでいて、もっと柔らかい。

リディアは黙って見ていた。目だけがよく動く。


「……珍しいわね」


リディアが、ため息のように言う。


「珍しい?」


「波紋の縁が、ほどけない。普通は輪郭が少しずつ薄れていくの。あなたのは、薄れないで、別の輪郭と混ざって、また戻ってくる。……波というより、震えね。ゆらぎ。ええ、好きよ、こういうの」


好き、という言葉が、紙の上ではなく、胸のあたりに直接置かれた気がした。セレンはこわごわと笑って、そして笑い返された。


「俺、音属性ってことになっていて」


言った瞬間、リディアの眉がわずかに動く。


「音?それって魔法なの?、珍しい、ってより“前例がない”やつ」


笑ってはいるが、目の奥は測っていた。逃げずに見返す。


「悪い意味じゃないわよ」


リディアは肩をすくめる。


「前例がない分だけ、実績で語るしかないだけ。」

「魔力はいいもの持ってるようだから、簡単にギルドのルールを説明してしまうわね。冒険者ギルドではランクはFから始まって、E、D、C……って上がる。街の外に出る依頼については装備確認と同行者条件あり。未成年の単独討伐はD級対象の依頼禁止。違反は罰金、最悪除名ね。あなた未成年よね、気をつけて。って言ってもDランクなんてまだまだ先だけど」


「ランクCになれば、王立魔法学院入学の道が開くって聞いたんですけど、本当ですか?」


「……そう、らしいわね」


リディアは魔法学院には特段興味がないのか、もしくはあまり詳しくは知らないのか、淡々返事をした。

彼女の視線が俺の短剣に落ちる。


「続けるわね、装備は質素だけど、身のこなしは悪くなさそうね。最後だけど“Fランクの登録確認”。そうね、この紙片だけを魔法で落としてみてくれる?紙だけ落として、グラスは割らないで」

そう言ってリディアはワインが入ったグラスに紙片を乗せる。


「紙だけですか、分かりました。やってみます!」


 魔力を循環する。練る、留める、放つ、三拍子を小さく正確に。


(指先の末端魔孔から。最小で、最短で、狙い、紙だけ揺らす)


 ひゅ―、かすかな気配が空気に混じり、紙片がふるりと震えて、そっと机に落ちた。酒杯は波紋一つ立てない。


「へぇ」


 リディアが口笛を鳴らす。


「実はこれって凄い難しいことなのよ。属性の訓練を受けてないと、コントロールできないもの」

「本音を言うとね、あなた、ギルドにもなかなか来ないような歳の子供だから、冒険者ごっこかな?とも思ったの。」

「でも、Fランク登録、異論ないわ。セレン、でいいのね?」


「お願いします……」


(ギルドでも俺ぐらいの年齢は珍しいのか……まあ、見た目はただの子供だからな。けど、魔力循環さえ分かってりゃ、属性が分からなくても魔力はコントロールできる。俺は学校じゃなく、2回目の人生で覚えたんだよ。)


刻印台で木札に名前が焼き付けられる。木の香りと焦げの香りが混ざり、胸の奥で何かが温かくほどけた。


「初依頼は“安全・確実・早めに報告”。その三つだけ覚えなさい。……それと、今後魔法を扱うなら耳を守りなさい」


「耳?」


「自分の魔法に自分がやられる新米たまにいるの」


リディアは笑った。


「気をつけて、音魔法使いくん」


「あっ、規約と地図は持っていっていいわよ。よければミロに声をかけて、掲示板の前で“最初の依頼の選び方”を教えるわ。」


「ありがとう。リディアさん」


「リディアでいいわ。困ったら、窓口に来なさい。三度までなら、私が出る。その次は、あなたが出る番」


部屋を出ると、ミロがすでに立ち上がっていた。顔に少し誇らしげな影が差す。自分が案内した新人が無事に登録を済ませたことを、彼の足音が喜んでいる。


「終わった?」


「うん。思ったよりずっと早く」


「ここはね、そういう日があるんだ。空気が軽くて、魔導灯が少しだけいつもより明るい日。今日が、たぶんそう。」


ギルドの中央、掲示板の前へ戻る。紙の海。文字の羅列も、よく見ればそれぞれが違う様子を持っている。

緊張の残る筆跡。軽やかな走り書き。几帳面に揃えられた角。走り書きの途中で笑ってしまったような線。依頼の内容よりも先に、書いた人の体温が伝わってくる。


「最初はね、誰でもできるけど誰も手を出したがらないやつがいいよ。誰もやりたがらない依頼を、丁寧にやること。それが、一番、街に歓迎される方法だって……父ちゃんも言ってた」


掲示板の前で最初の依頼を選ぶ。ミロが指差したのは、街角の清掃と、広場の魔導灯磨き、飛んだ依頼書の回収。誰でもできるけど誰もやりたがらない仕事だ。


「それ、やってみるよ」


「だよね」


ミロは嬉しそうに笑い、紙をはがして手渡した。

紙の端に、整った字で「ありがとう」が添えられている。きっと前にこの依頼を貼った人の、癖だ。ありがとうを添える癖。見えない誰かの顔が、紙の白にほんのり浮かんだ。


受付に紙を持っていくと、リディアが「うん」と短く頷いた。


「いい選び方。ね、ミロ」


「うん。いい選び方」


ふたりの声が重なって、その光景にセレンの胸がまた高鳴った。


午後いっぱい、セレンは街角を歩いた。

石畳の隙間にこびりついた泥を削り、噴水の縁に溜まった落ち葉をすくい、魔導灯のガラスを布で磨く。

ふだんは意識されない場所ほど、汚れが深く、磨けば磨くほど、光は素直になっていく。

手が動くリズムに合わせて、胸の中の震えもしずかに一定になって、呼吸が整って、体が「ここにいる」ことを受け入れていく。


仕事の合間、広場のベンチで一息つく。

背負い袋から、母が詰めてくれた固いパンを取り出し、歯で切り、口の中で時間をかけてやわらかくする。

塩漬けの実の酸味が、疲れた舌に目を覚まさせる。

喉を通るとき、さっきまでの自分が少しだけ古くなる。新しい自分が、ほんの少し、入ってくる。


夕方になると、モルヴァの街の光の色が変わった。

陽が傾き、魔導灯の明かりが存在感を増す。

磨いたばかりのガラスが、子どもの瞳みたいに澄んだ光を返す。手のひらに布の繊維の感触が残り、爪の間に黒ずみが少しだけ残る。疲れは、悪くない。体の内側から、安心がじわりとにじむ。


ギルドへ戻ると、入口でミロが手を振っていた。

彼の荷車には新しい包みが積まれていて、今日という日の中で、彼も自分の仕事をきちんと増やしたのだとわかる。


「どうだった?」


「言ってた通りだった。やって良かった。まるで街が、街の人達が自分を受け入れてくれたように感じている。」


「だろうね」


ミロは笑って、それから少しだけまじめな顔になった。


「この街は、広いから、いいことも悪いことも、たくさんある。でも、誰もが最初の一日は、いいことが起きたなって思い出に残る。そういうふうに、街ができてるんだ。」


「できてる?」


「うん。最初の一日は、誰でも英雄。父ちゃんが言ってた」


父ちゃん、という言葉に、ミロの声の端にほんの少しだけ影が射した。けれど、それはすぐに光に溶けた。セレンは何も聞かなかった。今はたぶん、聞かなくていい。聞くべきときは、ミロのほうから話してくれる。


受付で依頼完了の印を押してもらう。

リディアが


「おつかれさま」


「はい、初日の稼ぎ。合計155ルン。村の畑よりは割に合った?それとも街も泥は泥かしら、ふふ」


「覚えておきなさい。お金は減るけど、評判は残る。

今日、あなたを見た人は“働く子”として覚えてるから。」


と言いながら、紙の角を軽く弾く。彼女の指先の癖だろう。彼女もまた、今日という日の中で、自分の役目を美しく終えている。


「最初の仕事は、最初に終わらせる。いい日を、ちゃんといい日のまま寝かせるコツよ。それで、今日の宿は決めてあるの?」


「まだだよ、本当に来たばかりだからさっぱり分からないよ」


「それなら、このギルドのある大通りを出て、右に二つ目の路地。“白い梟亭”がお勧めよ。清潔だし、値段も、まぁふつうね、そして何より朝の粥がおいしいの。室内は少し狭いけど、最初は狭いほうがいいと思う。心がぶつからないから」


「リディアありがとう」


「どういたしまして。ようこそ、モルヴァへ。ここは“自分を証明する場所”。証明は、誰かに見せるためだけじゃない。自分に見せるために、ね」


「それと、明日も来なさい。初日だけ来る子は、星ほど見てきたから。」


ギルドを出ると、広場の空気がすこし冷えている。陽は傾いたが、空はまだ明るい。高い塔の影が長く伸び、その影のふちに、磨いた魔導灯の光が縁取りをつけている。人は相変わらず多いが、昼間とは違って足取りがやわらかくなる。仕事を終えた人の、体の重みと、心の軽さが混ざっている。


セレンは広場の真ん中に立った。目を閉じる。風の触れる音。遠くの歌の、三つ目の和音。露店で油が弾ける小さな音。子どもが笑ったあとの、息の抜ける音。地面の下で、水が細く通る音。塔の上の旗が、布の重みを持って揺れる音。耳に入ってくるものが、全部、今ここにいる自分の輪郭をくっきりさせる。


(俺も、この街から冒険者としてスタートしたんだ)


 胸の奥で、言葉が生まれる。声にしてしまうと、こぼれて薄くなってしまいそうで、でも、こぼれてもいい、とも思った。言葉は流れて、その跡に、音のない芯が残るのかもしれない。喉の魔孔に、そっと意識を置く。声にはしない。ただ、「いる」という音だけを、内側で鳴らす。


(ここから、冒険の始まり)


目を開ける。正面から、陽の光が差してくる。高い塔の間を縫い、浮遊橋の縁で一度ほどけて、ここへ届く。背中に、光がそっと乗る。暖かいが、重くはない。押し付けるでも、引っ張るでもない。ただ、そこに在って、在ることで、前に行く背中を肯定する光。


セレンは笑った。

誰に見せるわけでもない笑い。自分に見せる笑い。足の裏で石畳の硬さを確かめ、鞄の紐を持ち直し、息をひとつ吐く。吐いた息の軽さで、体の重心が半歩、前に出る。


広場の端、路上の楽師が新しい曲を奏ではじめた。きらきらと粒の立った旋律。曲の途中で、楽師がこちらを見る。目が合って、楽師は少しだけ頷く。知らない人の、その小さな頷きが、「ようこそ」と言っているようで、胸の中の震えが、もう一段階、明るくなる。


「ようこそって言われた気がした」


「多分、言ってる。モルヴァはそういう街なんだ」


「よし。行ってくる、白い梟亭」


「いってらっしゃい、セレン。明日もまた、掲示板で」


ミロが手を振る。リディアが入口で誰かの書類に印を押している。魔導灯が順に灯り、浮遊橋の縁が夜の準備を始める。塔の影は少しずつ短くなり、代わりに灯りの輪が地面に増えていく。音は減らない。夜の音が、昼の音に重なって、世界は厚みを増す。


セレンは、もう一度だけ振り返った。ギルドの扉。白い石。刻まれた文字。


『人は試される』


試されることが、怖くない。試されたいと思う。試されるたびに、何かを手に入れられる。この街ではそれが叶いそうだった。


広場の真ん中、光を背にして、セレンは一歩、踏み出した。最初の一歩。何百回も想像したのに、想像したどの一歩とも違っていた。体が進み、心が追いつき、心が追いついたら、次の一歩はもうそこにあった。


最初の日は、いいことだけでいい。街がそうできているのなら、今日という日の最後まで、その形のまま連れていく。宿の暖かい粥を想像する。布団の硬さ。枕の匂い。知らない天井。知らない窓。知らない夜の音。すべてが、明日の自分に必要なものになる。

風が、背中の光を少しだけ揺らした。遠くの塔の上で、最初の星が、まだ青い空に小さく点る。ヨルヴァは笑い、ヨルヴァは歌い、ヨルヴァは灯る。セレンは、その真ん中で、ただ立ち、ただ歩いた。立つ音と、歩く音。そのどちらもが、もう自分の音だった。


(最初の一歩。想像と違い、この世界はだいぶ優しい。けど、こっちのほうが好きだ)


こうして、冒険者の始まりは、賑やかに、眩しく、美しく始まった。

誰も泣かず、誰も傷つかず、誰も失われない。

セレンの冒険者としての最初の日は、世界が「意外と優しい」という事実だけで、十分に満ちていた。

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