第42話: 旅立ち、冒険者への決意
春の風が村を抜けていく。
芽吹き始めた畑の土は、柔らかく、まだ冬の冷たさをわずかに含んでいた。
丘の上の鐘楼から、昼の鐘が鳴る。
鐘の音はいつもと同じように村を包んだ。
けれど、今日のセレンの胸には、なぜか重く響いた。
家に帰ると、母リーナが封筒を手にしていた。
茶色の封蝋には、王都の紋章と「王立アルテリオ魔法学院」の文字が刻まれている。
息をのむ。
グレンが推薦状を送ってくれてから、もう半月。
ようやく届いたそれが、何を意味するか、セレンにもすぐに分かった。
母が封を開け、震える手で文面を広げた。
そこには、丁寧な筆致でこう書かれていた。
「臨時鑑定の儀の記録を精査したところ、“音属性”なる系統は、当学院において未だ承認された魔法学体系に存在しません。ついては、貴殿の入学資格を棄却と致します。」」
セレンの胸の奥が、静かに沈んでいった。
“存在しません”たった六文字。
それだけで、努力も、夢も、未来も、すべて線を引かれたように感じた。
母リーナは、言葉を探すように息を吸った。
「……そんな、グレンさんの推薦まであったのに」
手紙の下には、補足のように冷たい文言が並んでいた。
「音属性は、前例がなく、実証も不十分。学院としては教育課程に組み込めません。また、鑑定の際に観測された不安定な反応も、判断に影響しました」
“ぽよん”。
あのとき、光の柱が微かに震えた、あの、間の抜けた音。
村人たちが笑ったあの瞬間が、今さらのように心を刺した。
(体面、か……)
セレンは静かに手紙を握りしめた。
王都の学院。貴族や大商人の子息たちが集う世界。
そこに「音魔法」という格式の低い存在を受け入れる余地は、最初からなかったのだろう。
カイルがぽつりとつぶやいた。
「……俺たちも、そうだったのかもな。勝手に“光属性”だと決めつけてた」
その言葉は静かで、けれど痛いほど真っすぐに胸に刺さった。
その夜、集会所に呼ばれた。
村長ハルド、マルタ婆、父ゲイルも、母リーナ、兄たち。
囲炉裏の火が、橙色の光を壁に踊らせていた。
ハルドが口を開いた。
「……王都からの返答、拝見した。厳しいのう」
深い皺を刻んだ顔に、どこか申し訳なさそうな影が落ちている。
「音属性……わしも長いこと人を見てきたが、聞いたことがない」
マルタ婆がうなずく。
「この村でも初めてじゃ。けれど、前例がないというだけで拒むとはのう……。学び舎とは、人が未知を受け入れる場所のはずじゃろうに」
リーナがゆっくりと立ち上がる。
「簡易鑑定で“属性なし”って出ただけで、みなさんがこの子を“不吉の子”って呼んでたこと、私は忘れてないですよ」
声は穏やかだった。怒鳴り声でも、責めるような調子でもない。けれど、その穏やかさが逆に痛かった。
広間の空気が一瞬にして凍りつく。
誰も目を合わせようとせず、椅子の軋む音さえ響かない。
薪のはぜる音だけが、やけに大きく聞こえた
「学院というのは、そういうところなんだよ」
レオンが苦い顔をした。
「俺が士官学校を受けたときも、家柄や属性で格付けされた。学校ってところはどこも“力”より“型”を見てる」
兄カイルが、静かに口を開く。
「村の畑と違って、彼らは“結果の出ている種”しか植えない。新しい種は、芽を出す前に摘まれるんだ」
沈黙が落ちる。
囲炉裏の薪がはぜ、静かな音を立てた。
やがてハルドが、重い口を開いた。
「……セレン、わしら庶民が学院に入るには、二つの道しかない。ひとつは“希少属性”と認められること。もうひとつは、“冒険者ランクC”以上を取ることじゃ」
「ランク……?」
セレンがつぶやく。
マルタ婆が補足するように言葉を継いだ。
「冒険者というのは、魔物を狩り、素材を集め、世界を旅して己を鍛える者たちじゃ。王都は彼らの“実績”を、学院入学の証明として扱っておる。前例のない者でも、“結果”を出せば無視できぬということじゃ」
「つまり……」
セレンは拳を握る。
「学院に入れないなら、自分で“実績“を作ればいい」
リーナが、思わず息をのむ。
その顔は不安と希望が入り混じった複雑な表情だった。
マルタ婆が微笑む。
「そうじゃ。世界は広い。村を出れば、音を“魔法”として見てくれる者もおるかもしれん。お主が響かせた声を、きっと誰かが聞いておる」
ハルドが頷いた。
「行くか、セレン」
「……はい」
迷いはなかった。
農家の三男坊として村に残る理由もあった。
家を継ぐ兄、支えてくれる母、認めてくれた村の人たち。
だが、それ以上に、心の奥に“知りたい”という渇きがあった。
なぜ、魔力を帯びるのか。
なぜ、誰もが魔法を使えるのか。
なぜ、誰も知らない“音魔法”が存在するのか。
それを確かめるには、世界を見るしかない。
ハルドは少し考えてから、ふと笑みを浮かべた。
「……そうだな。もし行くあてがないなら、“モルヴァ”という街がいい。昔、行商人から聞いたんじゃ。冒険者の受け入れが手厚くて、初心者にも仕事が多いらしい。“新しい者を歓迎する街”そう言っておったよ」
マルタ婆がうなずく。
「へぇ、そんな街があるのかい。そりゃ都合がいいねぇ」
リーナも少し安心したように微笑む。
「……それなら、少しは安全そうね」
セレンは頷きながら、小さく息を吐いた。
「モルヴァ、か……。うん、そこに行ってみる」
夜。
村の丘にひとり立つ。
空は満天の星。風が吹き抜け、鐘楼の鐘がわずかに揺れた。
(学院が無理でも、学ぶ場所は世界にある)
あのときノーラが言った言葉が、ふと蘇る。
女神様が“音魔法”とした理由は、きっとあるわ。
どう使ってほしいか、その想いを、あなたに考えてもらいたいから。
「……考えるさ」
セレンは静かに呟く。
目を閉じ、喉の奥に魔力を流す。
喉の末端魔孔が、かすかに震えた。
風がその振動を拾い、空気が共鳴する。
ひゅう、と微かな音が夜空を渡る。
小さな“音”が、遠くの山に反響した。
ほんの一瞬だが、それは確かに届いた。
まるで、世界が「聞いている」とでも言うように。
「俺の声を、世界に響かせる」
胸の奥で、魔力が脈を打つ。
それはまだ幼く、不安定な“音”だった。
けれど、その震えの中に、確かな“意志”があった。
背後で、足音がした。
振り返ると、マルタ婆が立っていた。
月明かりに照らされた皺だらけの顔が、柔らかく笑っている。
「決めたのかい、セレン」
「はい。明日の朝、荷をまとめて」
「そうかい。……寂しくなるねぇ」
マルタは杖を突きながら、空を見上げた。
「昔な……まだわしが若いころ、こう言われたんじゃ。“音は心の形。誰かを想うほど、遠くまで届く”ってね」
セレンは黙って聞いていた。
「お主の声は、優しい音をしておる。この世界がどれほど騒がしくても、きっとその音は届くさ」
「マルタ婆……ひとつ、聞いてもいい」
「ん? なんじゃい」
「俺の鑑定の儀のとき、言ってた言葉……“震えが響きとなり、響きが波を生み、そこから光と火と大地が生まれた”って。あれ、どういう意味なの?」
マルタは一瞬、目を細め、遠い昔を見るように夜空を仰いだ。
「……セレン、“世界の始まり”ってのを聞いたことはあるかい?」
セレンが眉をひそめる。
「創世神話ってやつ? 光の神が大地を照らした、とか、教会でちょっとは聞いたけど……退屈だった」
マルタは鼻で笑った。
「わしが昔に聞いたのは、もっと荒っぽい話だ。光や炎より前に、この世には“振動”しかなかったっていう神話だよ」
「振動……?」俺が思わず声を漏らす。
「無から有が生まれるとき、最初に走ったのは震えだそうだ。揺らぎが響きとなり、響きが波となり、波がぶつかって光が生まれ、火が灯り、大地が固まり、やがて命が芽吹いた……。」
「つまり……“震え”が、世界の始まりってこと?」
マルタは微笑んだ。
「そうじゃ。だからのう、セレン、お主の力は、全ての起こりの始まり“ゆらぎ”そのものを呼び起こすのかもしれんよ。」
セレンは黙って夜空を見上げた。
星々が震え、まるで世界そのものが微かに歌っているように思えた。
「……ありがとう、マルタ婆」
マルタは笑って、背中を軽く叩いた。
「行ってこい。外の世界を“見て、聞いて、響かせて”おいで」
その言葉に、セレンは深く頭を下げた。
◇
夜明け。
村の門の前。
背負い袋ひとつの旅支度。
「食えない時はいつでも帰ってこい」
ゲイルが力強く抱きしめた。
兄カイルが黙って袋を持ち上げた。
「水袋、詰めといた。無茶するなよ」
「レオンから預かった短剣だ。護身用にしろ」
二人の兄の言葉に、セレンは微笑んだ。
「ありがとう。……俺、行くよ」
リーナがそっと息子を抱きしめた。
「あなたの魔法は、人を傷つけるためじゃない。人を繋ぐために生まれたの。忘れないでね」
「うん。母さん」
門の向こうに、朝焼けの光が広がる。
まだ誰も踏みしめていない道。
ぽよん。
鑑定の儀で鳴ったあの情けない音。
けれど今は、不思議と心地よい。
まるで「運命の始まりの合図」だったように。
セレンは空を見上げた。
雲一つない青空。
その先に、無数の未知が待っている。
(光でも、火でも、土でもない。俺は、音だ)
レオンから貰った短剣を腰に差し、ゆっくりと歩き出す。
草の音、風の音、鳥の声。
それらすべてが混ざり合い、世界がひとつの“旋律”のように響いていた。
足取りは軽い。
けれど、その一歩一歩に、確かな決意が宿っている。
(前例がないなら、俺が前例になる)
丘を越え、村が小さくなる。
鐘楼の上で、セリオの鳴らす鐘が鳴り響いた。
その音は、まるで“行ってこい”と背中を押すように温かかった。
セレンは立ち止まり、振り返る。
小さな村。母の家。
すべてが、初めての“原点”だった。
「ありがとう、俺を愛してくれた。俺の家族。」
朝の光の中で、少年の声が風に乗った。
その音は、確かに空へと溶け、遠くへ、遠くへ。
そして、世界のどこかで誰かが、
ほんの一瞬、心の奥が震えた。
それが“音魔法”の第一歩だと、
まだ誰も知らなかった。
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その頃。
はるか南方の王都近く。
“神聖アルセリア聖堂”の最奥、白亜の祈祷室、
そこに、ひとりの少女がいた。
白いベールが静かに揺れ、長い漆黒の髪が肩に流れる。
祭壇の前で、彼女はそっと祈りの手を止めた。
その瞳は、夜明け前の空のように澄みきっていた。
静かな風が、ステンドグラスを震わせた。
光が差し込み、聖水の表面に細かな波が立つ。
少女は瞳を閉じた。
唇がかすかに震え、やがてゆっくりと開く。
「……神託がおりました。魔饗と贄の街 モルヴァに向かいます」
その声は、まっすぐで、澄んでいて。
それなのに、なぜか空気がわずかに震えるほどの静かな力を孕んでいた。
ベールの下の唇が、ごくわずかに歪んだ。
それは嘲りでも狂気でもない
神の意志を受けた者だけが知る微笑だった。
風が吹く。
聖堂の扉が、ひとりでに開いた。
白い光の中で、黒髪の少女の影が長く伸びる。
その影は、美しく、どこまでもまっすぐだった。




