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第38話: グレンの旅立ち

朝の靄が、村の広場の土を薄く濡らしていた。

鐘楼の影が長くのびる下で、俺は喉の奥に意識を落とし、そっと息を整える。


(痛みは……まだある。けど、流れはつかめる。怖がるな。魔力を、そのまま声に乗せろ)


 俺は短く合図をして、広場の中心に立った。集まっていた村人がざわつく。子どもたちが棒切れを掲げ、女衆が籠を抱え、男たちは腕を組んで黙り込む。誰かが言った。


「また“声の実験”か?」


「この前の夜襲で役に立ったって話だが……」


 俺は深く息を吸い、胸骨の奥—喉の末端魔孔—をやわらかく押し開く。

 微かな振動が、声帯から背骨へ、そこから四肢の筋へと広がっていく。


(押しつけるな。畑の用水みたいに、静かに、細く。マルタ婆の言うとおりだ)


低い“基音”を一拍。

それに“揺らぎ”を重ね、耳ではなく骨へ届く帯域に調律する。

 アルトの肩が、ぴくりと反応した。握る木剣の柄に、力が素直に乗るのが見える。

 ノーラの指先には、かすかな静電の粒が灯り、暴れかけた雷が飼いならされた仔獣みたいに丸くなる。

ざわ……と、輪が揺れた。


「おい、いま空気が変わらなかったか?」


「気のせいだろ。声だぞ、声」


 そこに、太い足音が割り込む。村長ハルドだ。額の皺は険しく、腕は固く組まれた。


「セレン。広場は遊び場ではない。勝手な真似をするな」


冷たい叱責が、どっと胸に刺さる。

言い訳が喉まで出かけたとき、横から“砂利を踏む”ような声が重なった。


「叱るのはまだ早い、村長」


 グレンだった。肩をいからせるでもなく、いつもの半笑いを片側に引っかけたまま、視線だけが鋭い。


「夜襲の晩、こいつの声がなけりゃ、何人死んだか分からなかった。だが、、」


そこで、わざと間を作る。広場全体が息を詰める。


「口先だけじゃ、信用は積み上がらねぇ。戦場に偶然はあるが、信頼に偶然はない。……なら、皆の前で“示せ”ばいい」


村長の顎がわずかに動く。

グレンはその動きを逃さず、さらに一歩踏み込む。


「公開模擬戦だ、村長。村の若い猟師衆を相手に、こいつら三人にやらせる。こいつの声が本当に“武器”なら、結果が出る。違うなら、その場で諦めさせりゃいい」


 その場で幾つもの視線が交差した。期待、不安、猜疑、そして僅かな好奇心。

 村長は長く息を吐き、低く言い渡す。


「……よかろう。公開模擬戦だ」


 ざわめきが弾ける。グレンが俺の背を軽く叩いた。


「対戦相手は猟師ライナー、ドルン、マルクスの三名。実戦経験は十分だ」


 村長が名前を読み上げるたび、前へ出た男たちの筋が固く浮かび上がる。皮の胸当て、短槍、丸盾。


(猟師頭のラッドは出ないのか、だけどライナーは黒狼との闘いでレベルが4に上がっていたはずだ)


村人の列の隙間で、アルトが小声で言った。


「セレン、顔色悪ぃぞ」


「平気だよ。……やる」


ノーラは鼻で笑って肩をすくめる。


「こっち三人、向こう三人。数は同じ。なら、勝つのも恥かくのも同じ」


 ツンと据わった顎。それでも目の奥に、前話の夜の影が揺れているのが分かった。


(ノーラ……大丈夫だ。俺が、お前の雷を導く。アルト、お前の剣筋を軽くする。できる。やれる)


 村の中央に土の円が描かれ、太縄が外周に置かれた。はみ出したら負け。倒れて立てなくなっても負け。刃物は無し、木剣・木槍のみ。

 鐘守セリオが見守り台に座り、鐘の綱に手をかける。


「始めるぞ——」


 ゴォォン、と低く鐘が鳴った。


開始直後から、押された。

猟師たちは狩りで培った連携で、左右から角度を変えて圧をかけてくる。ドルンの短槍が円の外縁で“突きのフェイント”を連発し、マルクスの丸盾がアルトの踏み込みを潰す。ライナーの低身のタックルがノーラを狙う。


「ちっ……速ぇ!」


 アルトの木剣が盾に吸われ、肩口が跳ねる。ノーラの掌で青白い光が暴れ、彼女は奥歯を噛んで押し殺す。


(まずい。このままだと、各個撃破だ。三人が“ばらけて”いる。重ねろ。重ねなきゃ、届かない)


俺は喉の奥で“基音”を探した。空気の湿り、土の反発、相手の足音。


(セリオの鐘と同じだ。誰かの胸に、同じ“芯”を置く)


 低い、低い、耳で聞き取りにくいほどの音を、骨に向けて打つ。

 アルトの足裏、足首、膝、腰。重心の移動が“数拍だけ前”へ滑る。


「アルト、今!」


カンッ!

剣先が盾の縁を噛み、マルクスの盾角が揺れる。アルトが一歩潜り込んだ。


「ノーラ、半拍ずらして!」


ノーラの掌で丸まっていた雷が、呟くような唸りを帯びる。


(“足を止めるための雷”)


 電の輪が地面を薄く舐め、ライナーの足首が一瞬止まる。タックルの力が抜けた。

 俺は二人の呼吸に自分の呼吸を重ねて、さらに一段、声線を細く絞る。

音は風になり、風は筋に触れ、筋は刃を導く。

 アルトの切っ先が、盾と槍の“間”を縫った。ドルンの手首に“痺れ”が走り、槍の先が落ちる。


ここだ。


「下!」


俺の声と同時に、アルトが足払い。ノーラの雷が“弱い枷”として足首を絡め取る。

マルクスが膝をつき、ライナーが体勢を崩した瞬間、ドルンが吠えて突っ込んできた。


「甘い!」


短槍の穂先が俺の胸に向かってくる。避けられない距離。痛覚がぞわりと逆立つ。


(怖い——でも、退かない)


俺は一歩だけ前に出て、胸骨を鳴らす。


「ッ……!」


声が、刃先に触れた。

……いや、正確には、刃先の“震え”に触れた。

ユルグの手の中で短槍が微かに共鳴し、狙いが紙一枚ぶん逸れる。俺の肩をかすめ、土に刺さった。

 すぐさまアルトが柄を叩き上げ、ノーラの雷が槍の柄を走って“しびれ”を返す。


「立て直せ、二人とも!」


俺は叫ぶのではなく、“通す”。

基音、支音、揺らぎ。

アルトの膝に“軽さ”を、ノーラの指先に“導き”を、そして相手の握りに“わずかな遅延”を。

 汗の匂い、土の味、血の鉄。全部が喉の奥で混ざり、ひとつの線になって前へ伸びた。

 アルトの剣閃が盾の裏に回り込み、ノーラの雷がその軌道の“外側”を守る。三拍子が重なる。

 マルクスの盾が外へ飛び、ライナーが尻餅をつき、ドルンの槍が空を切る。


「今だ、押し込め!」


土の円の外縁まで、三人を波のように押し戻す。

足跡がくっきりと外へはみ出し、見守り台のセリオが綱を強く引いた。


ゴォォン。


鐘が鳴り、土の上に静寂が落ちた。

息が、やっと肺に戻ってくる。

アルトが剣を下げ、ノーラが掌の雷を消した。俺は膝に手をついたまま、空を仰いだ。


勝った。偶然じゃない。


輪の向こうで、誰かが小さく拍手した。その拍手がもうひとつ、もうひとつと増えて、やがて広場に波紋のように広がっていく。村長ハルドが一歩前に出る。目は厳しいが、声は低く、重い。


「……見事だった。これは“偶然”ではない。セレンの声、アルトの剣、ノーラの雷。それぞれが互いを繋ぎ、補った。村として——認める」


 胸の奥が熱くなる。アルトが小さく拳を握り、ノーラはそっぽを向いたまま、ほんの少しだけ口元を緩めた。

 (やれた。俺たちは、やれたんだ)



 模擬戦の後、広場はいつもの喧噪を取り戻した。

 倒れた縄は巻き上げられ、倒木は片付けられ、女衆が湯気の立つ鍋を運ぶ。

 グレンは皆と笑い、汗を拭い、子どもたちに木剣の握り方を教え、父ゲイルと柵の補強を語り合った。

まるで、ずっと前からここにいたみたいに。


「セレン」


背後から呼ばれる。振り向くと、グレンは目を細め、いつもの半笑いを消して言う。


「いいか。声は“押しつける”な。“誘う”んだ。味方を中へ、敵を外へ。さっきやったろ。あれを毎度やれ」


「……はい」


「それと」


 グレンはわずかに視線を逸らし、広場の喧噪を一瞥した。


「飯、食っとけ。倒れるぞ」


 軽く笑って、あっさり背を向けた。

 その背中に、妙な“区切り”の影が差していることに、俺は気づかなかった。


夜。

 広場の片隅に、静かな焚き火が燃えていた。

 模擬戦を終えた俺たちは、まだ身体の奥がじんじんと熱を持っていた。

 その前にグレンが腰を下ろし、煙管をひと吹きしてから、手元の布包みを三つ取り出した。


「……よくやったな。今日の勝ちは偶然じゃねぇ。お前たちは、自分の力で“仲間を掴んだ”。

 これは、その褒美だ」


俺とアルトとノーラが顔を見合わせる。

グレンはにやりと笑い、ひとつずつ包みを差し出した。

グレンは焚き火の前で、俺とアルトとノーラに一本ずつ、布にくるんだ小さな包みを渡した。


「アルトには―これだ」


包みの中には、拳ほどの小さな黒鉄の球。だが触れた瞬間、ずっしりと手首に重みが落ちた。

「“重力石”。鉱山の底で圧を浴びて生まれた鉱だ。握るたびに微妙に重さが変わる。

 “剣を振るう筋”だけじゃなく、“支える芯”を鍛えるための石だ。力任せの癖を矯正するには、これが一番いい」

アルトが目を見開き、拳を握る。


「……っ、これ、ただの重りじゃねぇな。手の中で、生きてるみたいだ」


グレンはにやりと笑う。

「生きてる“重み”だ。力の意味を忘れるな」


「ノーラには、こいつだ」


薄い布を開くと、中には白銀の細い腕輪が入っていた。

光の加減で、うっすらと紫の線が走る。


「“雷銀らいぎん”だ。稲妻を浴びた銀。導きすぎず、逃がしすぎない。お前の雷を、“外に漏らさず中で留める”器だ。

 雷は怒りの力じゃねぇ。守りたいものを包む力だ。それを思い出せ」


ノーラは静かに腕輪を握りしめた。

火の光に照らされた横顔が、いつになく穏やかだった。


「……きれい。冷たいのに、あったかい……ありがと。大事にする」


「セレンには―これだ」


掌にすっぽり収まる短い刃。

鞘も柄も黒く、光を吸い込むような色合いで、触れるとひやりとした密度が指に宿る。

持ち上げた瞬間、刃の内側で微かに星屑のような煌めきが走った。


「……軽いのに、硬い……?」


隕鉄スターメタル。空から落ちた鉄だ。折れにくく、鈍らない。魔力の通りが尋常じゃない。

空から来た鉄は“外の世界”の象徴だ。いつかきっとお前の役に立つ。」


息が詰まった。

刃を握った掌の奥から、どこか遠い音がじん、と響く。


(空から来た鉄……外の世界を見ろ、ってことか。俺の声が、この刃の中で鳴る未来が見える)


「……ありがとう。大事にする」


グレンはうなずき、少しだけ声を落とした。


「セレン。声は、時に毒になる。時に薬になる。『誰のために響かせるのか』を、毎回、自分で決めろ。

この刃は、お前の声を通す“器”にもなる。鳴らすも殺すも、お前次第だ」


焚き火がぱちりと爆ぜた。


一拍の沈黙。


ノーラは目を細め、焚き火越しにグレンを見つめた。

その目は、何かを見透かしていた。


「……グレン。あんた、村を出るつもりね?」


グレンは一瞬だけ視線をそらし、唇の端を上げた。


「……やっぱりバレたか。勘のいい娘だ」


「図星なのね」


「ああ。俺の仕事は終わりだ。村長にはもう話してある。明日の朝、村を出る」


焚き火の炎が、彼の瞳にちらりと映った。


「湿っぽいのは嫌いだからな。……お前ら、言うんじゃないぞ」


ノーラは何か言いかけて、唇を噛んだ。

アルトは俯き、拳を強く握りしめる。

俺はただ、胸の奥がぎゅっと締めつけられるのを感じていた。


(分かってた。いつかは、こうなるって。でも)


グレンは笑って火を見つめたまま、静かに言った。


「別れってのは、終わりじゃねぇ。線の先が“別の始まり”になるだけだ。お前らの線は、まだ続いてる」



夜明け前、村の門。

濡れた草の匂い、薄い霧、鳥のさえずり。

グレンは荷を軽くまとめ、誰にも気づかれないように門番へ手を振った。

そのまま、静かに村を出るはずだった。


だが、背後から声が響いた。


「グレン!」

「また来いよー!」

「朝飯、食ってかないのか!」


振り返ると、村の道の両脇に人の列。

子どもたちが木の枝を振り、女衆が手ぬぐいを掲げ、男たちは笑って腕を組んでいる。

鍛冶屋の親父が顔を真っ赤にして叫んだ。


「今度は酒くらい飲んでけ、傭兵さんよ!」


村長ハルドが一歩前に出る。


「言っただろう。お前はもう“外の人間”じゃない。ここはお前が鍬を握った村だ」


「また稽古つけてくれよ!」


アルトが木剣を高く掲げた。


「……俺たち、強くなって、今度はこっちから会いに行く」


セレンは黒い短刃を胸に抱き、まっすぐに言った。


その言葉に、グレンの肩がわずかに震えた。

やがて、ふっと息を吐き、口の端を上げる。


「……まったく、お前らは。湿っぽいのは嫌いなんだがな」


それでも、笑っていた。

朝の霧が風に溶けていく。

グレンは荷を背に、門の前でゆっくりと振り返り、声を張った。


「また会おう! 鍛錬は続けろ! それと―朝飯はちゃんと食え!」


 笑い声があふれ、鐘楼の上からセリオが軽く鐘を鳴らした。


ゴォォン。


音が森へ溶け、朝の光が差し込む。


グレンはその音を背に、片手を高く上げた。

誰も見えなくなるまで、その手は降りなかった。


その背中は、どこまでも軽やかで、そして確かに、誇らしかった。


「……まったく、ただのいい村じゃねぇかよ」


―そして、森の小道の先。

霧の向こうで、グレンは小さく笑い、独りごちた


(あの少年の声。仲間に力を伝えるなど、通常の魔術体系では説明がつかない。魔力の流し方にしても、常識を逸している。属性の枠に当てはめようとすれば、かえって理解を遠ざける……)


 彼の脳裏に、古い伝承の一節が甦る。


 “世界の始まりには、揺らぎがあった。震えが響きとなり、響きが波を生み、そこから光と火と大地が生まれた”。


(……そうか。あれは“振動”だ)


朝空の赤が彼の瞳に映る。


(原初の世界に在りし揺らぎ、すべての根源。光よりも前、火よりも前、存在そのものを揺り動かした最初の息吹。少年の“声”は、それを思わせる。もし真にそれが属性として顕現しているのだとすれば―この国どころか、大陸の均衡をも揺るがすだろう)


グレンは細く息を吐いた。

(導きを誤れば、己をも呑み込む刃となる。……王の密命を帯びる者として、あの力の行く末を看過することはできまい。だが、あの眼の奥に宿る意志、まだ折れてはいない)


そう結論づけ、彼はふと空を仰いだ。


「報告:辺境ヴィルム村、女神の“名の加護”確認。

住民は工夫と覚悟で黒狼の群れを退け、過度な神秘依存なし。

子ら三名

アルト:踏み込みに将器あり。

ノーラ:ライヒヴァルト家娘。高位雷、芯を持つ。

セレン:声の波、音律の外にある“響き”。おそらく古き術の系統....光ではない。だが光に匹敵する才。

……保護価値あり。放置して害にはならず、導けば国の益」


グレンは手帳を閉じ、遠くの山稜に薄くかかる朝の光を眺めた。


「女神の加護が降りた村。いや、ただ、人が人として積み重ねた村。

そして、子どもたち。

……俺の役目は、見届け、必要なときに背を押すことだ」


そう言い、グレンは先程書いたセレンについての報告を光属性に書き直した。


(過度な報告は、お前の芽を摘んじまうかもしれないからな)


外套の下で、王族直轄の紋章を刻んだ小さな封筒が衣擦れした。

宛先は魔法学院の入学局。

中には二通の簡潔な推薦状。

一通は貴族子女ノーラ殿に。

一通は平民セレン殿に―ただし、鑑定の儀の結果まで保留の旨をそっと添えて。


「また会おう、セレン。次は、お前の声がもっと遠くまで届く頃に」


振り返らない。振り返れば、残る。

朝霧がほどけ、グレンの影が森に融けて消えた。

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