第36話: グレンの修行④ 予期せぬ試練
夜の森は、普段よりも重かった。霧が草の葉にまとわりつき、微かな光も霧に吸われて消える。焚き火はとっくに消し、三人は匿いの布で身体を覆い、息を殺していた。ここまでの一か月は「訓練」と呼べるものばかりじゃなかった。火を操り、音を操り、罠を撒き、泥で匂いを塗りつぶす術、生きるための知恵が、肌の下に刻まれている。
三人は気配が違ったことを感じた。静寂が「作為的」だと分かる瞬間があるのだ。鳥も虫も、いつもの時間に声を失っている。セレンの耳が、その「穴」を捉えたとき、黒い布が炎の薄い輪郭の端に滑り出した。男は音もなく、影のように近づく。短剣を二本、互いにクロスさせたように構え、目だけが月に反射して冷たく光っている。狙いはノーラだ。
アルトが飛び跳ねる。剣を振るって襲いかかる。だが一撃で刃を弾かれ、肩に切り傷を負って地面に崩れ落ちる。ノーラは雷を膝に溜める間もなく、男の刃の先に追い込まれる。彼女が繰り出す魔力は強烈だが、男はその「前兆」を察知して距離を詰めるのが早い。彼の短剣がノーラの袖を引き裂き、彼女の詠唱を寸断した。血が薄く光った。
「ここでぇ……おわりだよぉ……ひひひっ」
男の声は低く、無感情で、近い。
三人は、その瞬間に「勝てない」と悟った。相手の技量はセレンたちの比ではなかった。男の動きは滑るようで、刃の運びは無駄がない。正面切っては歯が立たない。
セレンの体に、冷たい震えが走る。恐怖とともに、訓練で叩き込まれた原則が頭をよぎる。正面で殴り合うんじゃない。環境を使え。誘い込め。錯覚を作れ。連携で一瞬の隙を生むんだ。
だが、その一瞬すら与えてはくれない。男はアルトの倒れた姿を蹴り、彼を動けないようにする。ノーラは腹部を鋭く斬られ、よろめく。セレンは喉が砂を噛んだように渇く。肺が焼けるように痛む。三人とも血も汗も混ざった泥の臭いが鼻を刺激する。
視界の端で、男が短剣を上げ、最後の一突きを狙う。
そのとき、時間が極端にゆっくり流れた。
三人は男によって追い詰められていく。
男の刃が月光を反射する。圧倒的な気配に全身の血が凍る。それでもセレンたちは、グレンの訓練で叩き込まれた術を一つ一つ思い出し、必死に応用しようとした。
アルトは泥で匂いを消し、草葉で体を覆い、気配を殺して待ち伏せる。
ノーラは雷をあえて微弱に散らし、遠方に囮の音を作る。
昨日までの訓練でなら通用した。グレンすら見破るのに苦心した罠も、声も、欺瞞も、
だが、男は足音すら立てずに岩陰をすり抜け、アルトの背後に立って囁いた。
「こどもの策だねぇぇ…ひひひっ」
次の瞬間、アルトは背に浅い切り傷を負い、呻き声を上げる。
ノーラの囮の雷も、男には無意味だった。彼は一瞥しただけで位置を見破り、雷が弾ける前にノーラの手首を蹴り飛ばす。掌から散った光は地面を焦がすだけで、彼女自身が悲鳴をあげた。
セレンの声も、男には通じなかった。むしろ「声を使っている」と見抜かれ、逆に居場所を悟られる。闇の中から刃が閃き、セレンの頬をかすめる。
「訓練で覚えたぁ、小手先ぜ〜んぶ出しちゃったぁ? 悪くないよぉ……ひひひっ」
男の声は低く、舐めるようにねっとりしていた。
「でもねぇぇ……訓練と実戦はぁ、ぜ〜んぜん違うんだよぉ……。俺たちの間に横たわってるのはぁ……“命を奪った数”なんだぁぁ……ぐふふふっ」
三人は理解した。
火を起こした夜も、索敵を学んだ朝も、狩猟や待ち伏せを重ねた日々も、確かに自分たちを成長させた。けれどそれは、あくまで“生き残る基礎”。いま目の前にいるのは、人を殺すために一生を費やした存在だった。
(……通じない。これじゃ、全部通じないんだ……!)
セレンの心臓が焼けるように痛む。喉が震え、声を出そうにも乾いて言葉にならない。
ノーラの目には涙が滲み、アルトは歯を食いしばってなお立ち上がろうとする。だが男の目には揺らぎがなく、ただ淡々と「次の死」を刻んでいる。
全滅が迫る。
刃がノーラの喉元に迫る。俺たちはもう動けない。アルトは血を流し、ノーラは肩を切られて膝をついていた。俺の手も震え、声さえ出なかった。
その時、男はふっと息をつき、冷たい笑みを浮かべた。
「……ふひひっ……冥土の土産にぃ……ちょぉっとだけ……教えてあげよぉかぁぁ……ひひひっ」
その声音は淡々としていて、まるで子供をあやすように穏やかですらあった。だが次に吐かれた言葉は、俺たちの心を鋭く抉った。
「お前らの村の近くで黒狼が一体、倒されてたなぁ……噂になってるみたいだね。でもねぇ、あれを仕留めたのは俺なんだよぉ……勘違いするな……あの程度の魔物、村人でも槍を揃えれば倒せる相手だ。それを殊更に誇っちゃうなんて……愚か者のすることだよぉ……ぐふふふっ」
アルトが顔を歪める。だが声は出ない。男の眼差しは冷えきって、ただ事実を突きつける刃のようだった。
彼は次に、ノーラをじっと見下ろした。
「でもねぇ…..問題は、雷だよ!!」
ノーラの肩が震えた。男の声はさらに低く、鋭さを増していく。
「雷を制御したな、その歳で……異常だよ。お前、自分じゃ分かってないだろう?
両親は気にも留めてないみたいだが……世の中には困る奴がいるんだよ。もしお前が家に戻されたら……その小さな体に宿る雷が、誰かの思惑を壊す。
だからな……“芽のうちに摘む”。柔らかい首筋を指で押し潰すみたいになぁ……へへっ」
「殺し方までは指定されてないんだ。だから―俺の好みで、じっくり愉しませてもらうよ……ふひひっ」
ノーラの唇から小さな息が漏れる。彼女の瞳には涙と怒りが滲んでいた。
「……どうして……」
暗殺者は答えなかった。ただ、冷ややかに短剣を構え直し、最後の一撃を放とうと身を屈めた。
暗闇の中、世界が音を失ったかのように静まり返った。
呼吸だけが大きく聞こえ、心臓の鼓動が耳を叩く。
アルトは血まみれで膝をつき、ノーラは膝を抱えて震え、セレンの喉は砂を噛むように乾いていた。
目の前には、短剣を冷たく構えた暗殺者の影。彼の動きは確かで、余裕すら感じさせた。三人が何を仕掛けても、それをことごとく凌ぐ。まさに「格上」──そして、今まさに短剣を振るってトドメを刺さんとしている。
暗殺者の刃が振り下ろされる寸前、アルトの体が僅かに傾いた。彼の目に宿るのは、決して引かない覚悟。
が、その刃は止められずアルトの側面を穿った。
アルトは呻きとともに横に崩れ落ちる。
ノーラは叫び声を絞り出すようにして、なおも魔力を立ち上げようとしたが、暗殺者の手はすでに腕を絡めるように伸び、ノーラの詠唱の糸を断ち切る。
「駄目だ……正面からはもう無理だ」
セレンの胸に、冷たい諦観が走った。だが、その先に生きたいという衝動が燃え上がる。全滅―その二文字が目の前でちらつく。仲間を失う想像が、身体を凍らせる。手が震え、視界が揺れる。
ノーラの体が小刻みに震えた。恐怖だけじゃない。理不尽さへの怒り。それでも刃を前にすれば、抗う力は潰されてしまう。
「セレン、アルトごめん。外れものの私が……“落ちこぼれ貴族”のくせに……まだ頑張りたいなんて、願ったから」
「……ほんとは、もう誰かに……“置いていかれたくなかった”だけなのに……」
そのとき、何かが切れた。恐怖も、限界も、全部。
セレンの胸に炎のような感情が突き上がった。
(ふざけるな……!)
(ノーラを“邪魔だから”なんて理由で殺すだと? どれだけ苦しんで、どれだけ頑張って雷を制御してきたか……俺は知ってる!)
(それを踏みにじるなんて、絶対に許さない!!)
視界が赤く染まる。
恐怖で震えていた喉が、怒りで熱を帯びる。肺の奥から熱い息が噴き上がり、頭の芯を焦がしていく。
今まで積み上げてきた訓練、全部通じなかった。それでも
(俺が……俺の声が……!)
(仲間を守れないで何が“武器”だ……!)
セレンは這うようにしてアルトの側へ駆け寄った。血に湿った剣の柄をぎゅっと掴む。冷たい金属の感触が指先に伝わる。体の奥から、これまで訓練で刻んだものが一斉に呼び起こされる。
火を起こした夜、風で音を散らした日、罠の縄を編んだ腕の感触、泥で匂いを消した手のぬくもり。
すべてが今、一本の道筋で繋がる。
「アルト、手を離すな」
セレンの声は震えていたが、並外れた強さを含んでいた。彼は自分の魔力を―これまでとは違う、無理を承知の無理をして―剣へ流し込んだ。だが今まで使っていた“合図の震え”ではない。基幹魔孔のさらに奥、全身から絞り出すように生まれる低い共鳴を、剣の刃全体にまとわせる──魔力の層を鋼に纏わせるのだ。
怒りと恐怖と願いが一つに混ざり合い、喉が裂けるほどの叫びが心の奥から迸った。
「ノーラを―絶対に死なせるもんかぁぁぁッ!!」
その叫びと共に、魔力が暴発するように剣へと流れ込む。刃が共鳴し、空気を震わせ、金属の唸りが音速の刃へと変わる。
アルトの指が剣の柄を固く握る。
セレンの魔力は彼の魔孔の震えを介して刃へと向かい、剣はみるみると変化した。
刃の縁が、音の微振動で真空を引き裂くような青白い幽光で縁取られていく。空気が震え、金属が細かく唸る。
音の刃──音速に近い微振動が付与された刃は、ただ斬るのではない。振動は分子の繋がりを一瞬暴き、耐久を一段と弱める速度で切断する高周波ブレードと化した。
暗殺者はその変化を察したか、ほんの一瞬目を見開いた。その隙にアルトは力を振り絞って剣をただ横に振る。
刃は鋼の音を帯び、風を裂くと同時に、鋭い高周波の振動で空気を引き裂いた。
音の帯が暗闇を切り、暗殺者の短剣の柄を捉え──短剣が、甲冑の縁が、さらには肉の繋がりが、同時に振動に耐え切れず断たれていった。
「―っ!」
暗殺者の顔に驚愕が走る。刃が食い込み、彼の短剣は柄の付け根からスパッと断たれ、見事に二つに分かれた。
次の瞬間には、彼の胴が斜めに切り裂かれるように感じられた。切断は静かで、あまりにも速かった。暗殺者は血の臭いより前に、重心を失ってよろめき、体が二つに分かれたかのように地面へ崩れ落ちる。暗闇の中で、切り裂かれた金属の二片が鈍くぶつかる音が、最後に小さく鳴った。
刃を振った手の衝撃で、アルトは膝をつく。セレンは力を使い果たし、剣の柄を握ったまま膝から崩れ落ちる。ノーラは震える手で立ち上がり、呆然とその場を見下ろす。三人は息を合わすように、ただ互いを見た。勝ったのだ──しかし、それは歓喜だけではない。全滅の瀬戸際で掴んだ勝利は、重く、骨の折れる経験そのものだった。
数秒後、森を割る足音。グレンが駆け込んできた。彼は真っ先に倒れた男を見て、次に三人を見る。驚きと、そして深い何かが混ざった顔をしていた。静かな間があって、やがてグレンは低く言った。
「……お前ら、本当にやったのか。知らぬ間に、こんな奴が入り込んでいたとはな」
セレンは砂を噛むように息をしながら、かすれた声で答えた。
「みんなを、ノーラを……守りたかった」
そう言い切ると同時に、セレンの体は糸が切れたように崩れ落ちた。アルトの剣を握ったまま、目を閉じて動かない。
鉄の剣が先端からボロボロと崩れ落ちていく。細かな破片が粉のように砕け、風に散った。刃が耐えきれず、音の魔力に食い破られたのだ。
駆けつけていたグレンの目は、その一瞬を確かに見ていた。
―剣に、魔力を纏った。
ただの光ではない。震え、うねり、魔力の層を刃に乗せ、鋼を震動の刃へと変える。あれは本来、熟練の魔法剣士、あるいは魔導士が長年の修練で辿り着く領域だ。子供の体で耐えられるはずがない。無理もなく、今セレンが気を失ったのも当然だった。
グレンは膝をつき、荒い息を吐く少年を見下ろした。
「魔力を剣に纏わせる魔法剣……子供がやっていい芸当じゃねぇ。負担がでかすぎる……」
ふと、胸の奥で疑問が膨らむ。
彼の剣にまとったそれは、ただの光でも炎でも雷でもない。見たことのない属性の揺らぎ。振動の波が鋼を震わせ、音すら切り裂く剣へと変えた。
「……おまえの属性とは、いったい何なんだ、セレン……」
森を覆う沈黙の中、その問いだけが、焚き火の消えた跡に深く刻まれた。
アルトは苦笑いを漏らし、ノーラは肩で大きく息を吐いた。血と泥にまみれた夜の森で、セレンに被さるように三人は互いに寄り添い、その場に倒れ込んだ。勝利は手にしたが、代価は大きかった。だが同時に、それは確かな成長の刻印でもあった。セレンの声は、仲間を救う“武器”になったのだ。




