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第35話: グレンの修行③忍び寄る影

出発


 グレンの声が、村の広場に低く響いた。


「今度は一か月だ。お前らを魔の森に放り込む。食糧は最小限、補給も救助もない。もし敵地に孤立したら、どうするか。……それを身につける」


 俺とアルト、ノーラは顔を見合わせた。短期の山籠もりを経験した俺たちは多少の自信を得ていたが、今度は一か月と聞いて息を呑む。


「課題は四つ。生存、回避、抵抗、脱出だ」


 グレンは魔道士や兵士の訓練でも滅多に行われない過酷な課程を口にした。


「魔力がある世界だからこそ難しい。魔物は人間より敏感に魔力を嗅ぎ分ける。人は幻惑や呪詛を使って心を砕こうとする。……それを全部想定しろ」


 母は黙って見送り、兄たちも険しい顔でうなずいた。背中に視線を感じながら、俺たちは魔の森へ足を踏み入れた。


第一週:生存(Survival)


 最初の一週間は、「どう戦うか」ではなく「どう生き延びるか」だった。


 山の奥、澄んだ水面を湛えた泉があった。だがその輝きは仮初めで、表層をすくえば薄い靄が揺れる。魔瘴に侵されている―透明でありながら毒。喉を潤そうとしたアルトを、グレンが手で制した。


 「飲めば臓腑を焼かれる。森の泉はすべてが清浄じゃない。魔物と同じく、水も“牙”を持つ」


 ノーラが掌に雷を灯し、熱をもって煮沸を試みた。だが、いくら沸き立たせても靄は消えない。むしろ瘴気は立ち上る湯気とともに鼻腔を刺し、余計に危険だった。


 「熱では魔瘴は祓えん」


 グレンは静かに告げる。


 「土を使え。土は汚れを吸う。砂利と苔、土を重ねて濾せば、わずかに薄められる。火は弱くとも消すことなく保ち、風を呼んで炎を育てろ。生活魔法は、派手な雷や剣よりも確実に“命を繋ぐ”」


 俺はその言葉を胸に、濾した水に耳を澄ませた。喉の魔孔で震えを作り、声と魔力を水面へ響かせる。微かな軋みの音が返る。……毒が強いほど、不快な振動が混じることに気づいたのだ。


 「わかる……これ、毒が“鳴ってる”」

 魔力で毒の強弱を聞き分けられる―そんな自分の力を初めて知った瞬間だった。


 食もまた、牙を持っていた。

 アルトが仕留めた兎は、肉の奥まで黒い筋が走り、腐敗したような匂いを放っていた。ノーラが火で炙ろうとしたが、瘴気は炎に紛れて逆に広がる。


 「獲物にも魔瘴は宿る。狩ったらすぐには食うな。目で確かめ、匂いを嗅ぎ、魔力で感じろ」


 グレンは手際よく内臓を裂き、黒ずんだ臓器を切り捨てた。


 「命を奪うことと、生き延びることは違う。お前らはその境界を知れ」


 俺は肉に魔力を響かせてみた。毒の強い部位はざらざらと濁った音を返す。逆に澄んだ音を返す部分は、食える。アルトとノーラが顔を見合わせた。


 「……セレン、すごいじゃないか」

 「便利な喉ね……」


 照れ臭くて何も言えなかったが、仲間に役立てることが嬉しかった。


 夜は冷え、闇は底なしのように深かった。葉と枝を組んだ粗末な小屋は、雨風をしのぐには心許ない。床に敷いた草は湿って冷たく、背中に痛みが走る。腹は減り、疲労は重い。

 けれど、小さな火が胸の中心を温めた。

 アルトが横で寝返りを打つたび、剣の鞘がごとりと鳴った。ノーラの寝息がかすかに震え、夢の中でも魔力を抑え込もうとしているのが分かる。


 俺は焚き火を見つめながら、心の奥で思った。


 (生きることって、こんなにも必死なんだ……。けど、こんなにも確かなんだ)


 その夜、小さな炎は俺たちの「生きている証」として、暗い森を押し返す光となった。


第二週:回避(Evasion)


 第二週に入ると、課題は「見つからずに動くこと」へと移った。

 ただ歩くのではない。敵が必ずこちらを探している前提で、一歩ごとに息を潜める。


 グレンは森の入り口で立ち止まり、俺たちを見渡した。


 「魔物も人も、獲物は目でだけは追わん。魔物は“魔力の匂い”を嗅ぎ、人は“痕跡”を読む。隠れるだけでは不十分だ。溶けろ―森の呼吸に、風の囁きに」


 その日の訓練ではグレンが持ってきた「影嗅ぎ鼠」が放たれた。

 森を這うように低く進み、赤黒い目を光らせる魔獣。人の魔力が揺らぐ瞬間を嗅ぎ取り、数里先からでも追い詰めてくるという。

 背筋に冷たい汗が流れる。見つかれば即座に喉を裂かれる……そんな気配を放っていた。

 ノーラは必死に掌を泥で覆い、雷の気配を押し殺そうとする。


 「……冷たい……でも、これで隠せるなら」


 雷を纏うあの眩しい光が、いまは仇になる。彼女の小さな指が震えていた。


 アルトは剣を鞘ごと胸に抱え、目を閉じていた。


 「剣も呼吸してる……殺さなきゃ」


 剣士の使う武器が、逆に狼を呼ぶ。彼の額に浮いた汗が、刃より重そうに見えた。


 俺は二人の魔力の流れを探った。

 ―雷のきらめきと、剣の鋭さ。

 それを自分の魔力で包み、ひとつに溶かし込んでいく。

 やがて三人の揺らぎは群れの鼓動のように混ざり合い、一本の流れを成した。


 狼たちは近づき、鼻を鳴らす。だが次の瞬間、群れの“匂い”を読み違え、茂みを裂いて別の方向へ走り去った。


 「……助かった……」


 ノーラの声は消え入りそうに震えていた。


 「お前……今、合わせたのか?」


 アルトが俺を見た。


 「うん……でも、偶然かもしれない」


 俺は肩で息をしながら答えた。自分でも、何をしたのかはっきり分からなかった。ただ、仲間を守りたくて魔力を合わせた―それだけだった。



 その夜、焚き火は起こされなかった。

 暗闇のなか、湿った土の匂いと虫の羽音だけが満ちている。

 グレンは枝を組む手を止めずに低く言った。


 「完璧な隠蔽は不自然だ。人間の目は“違和感”を嗅ぎ取る。足跡を消すときは、一本だけ残せ。魔力を抑えるときは、わざと微かに漏らせ。痕跡を絶つのではなく、“別の痕跡”を与えて追わせろ」


 彼の声は冷ややかだったが、そこにあるのは知識を授ける者の静かな熱だった。


 「回避は逃げることじゃない。騙すことだ。敵が山賊であろうと、冒険者であろうと―奴らは賢い。だからこそ、“真実の影”を与えてやれ」


 俺は膝を抱き、静かな夜に耳を澄ませた。

 喉の奥を小さく鳴らしながら思う。


 (魔力は相手を誤誘導するためにも使える)


 その気づきが胸に沈み、炎なき夜をかすかに温めていた。


第三週:抵抗(Resistance)


 第三週は、これまでで最悪の訓練だった。

 課題は―捕虜を想定した「抵抗」。


 森の奥の開け地に連れて行かれ、俺たちは一本の杭に順に縛られた。縄はただの麻ではなく、魔封じの符を編み込んだもの。力を込めれば込めるほど痺れが走り、指先は痺れ、喉までも塞がれるような感覚があった。


 そして目の前に広がるのは、幻惑魔法。

 グレンが取り出した魔石には、あらかじめ幻惑魔法の術式を記憶させており、魔力を流すことで術式を発動させた。

 母が泣き叫ぶ姿。兄が俺を罵る声。アルトが血に染まり、ノーラが絶望に沈む幻影。

 それはあまりに生々しく、頭では幻だと分かっていても、胸を抉るように痛んだ。


 アルトは怒鳴った。


 「こんなの……幻だろうが!」


 必死に縄を引きちぎろうとしたが、力は次第に抜け、声が枯れていく。やがて歯を食いしばることしかできなくなった。

 ノーラは最初から涙を流していた。


 「……うるさい……やめて……」


 母の声、父の顔、幼い頃の記憶が突きつけられる。細い肩が震え、唇を噛み切るほどに強く噛んで耐えていた。


 俺は魔力を循環させた。

 魔力を外に出せなくても、内側で循環させることはできる。母が歌ってくれた子守唄。兄が笑っていたときの声。


 (あれは幻じゃない。本物の記憶だ……)


 その響きを心の底に重ね、幻影の声と切り分けた。

 やがて尋問役の声が闇の中に落ちた。


 「仲間を助けたければ……村を犠牲にしろ」


 低く甘い声。だがその裏に、冷たく鋭い刃を忍ばせていた。


 俺の唇は震えた。答えそうになった。喉の奥で必死に震えを作り、ただひとつの行動にすがった。


 「ひとつ……ふたつ……みっつ……」


 数を数える。小さな律動を作る。

 それは意味を持たないはずの行為だったが、不思議と心がつながり、崩れかけた意識をつなぎ止めてくれた。


 どれほどの時間が経ったのか分からない。縛めが解かれ、冷たい夜風が頬を撫でたとき、俺たちは全員、地面に崩れ落ちていた。

 グレンは焚き火も起こさず、星空の下で淡々と告げた。


 「強がりは長く続かん。怒鳴り散らしても、涙を流しても、やがて折れる。……抵抗とはな、心を守る“拠り所”を持つことだ」


 彼の視線が俺に向く。


 「セレン。お前は魔力を自分の盾にした。幻を切り裂く刀ではなく、心を守る壁として。……だが覚えておけ。それは時に武器にもなる」


 その言葉が胸に深く突き刺さった。

 母の歌声。兄の笑い声。

 それが俺にとっての最後の砦であり、同時に戦うための武器になりうるのだ。


第四週:脱出(Escape)


 最終週の課題は、やはり「逃げる」ことだった。

 戦うのではなく、生き残るために檻を破り、罠を抜け、追手を欺いて森から出る。その術を学ぶ。


 夜、俺たちは仮想の囚われ人として柵の中に放り込まれた。

 粗末に見えるが、枝と縄を巧妙に組み合わせた囲いは、力任せでは抜けられない。周囲には魔力で起動する罠が散りばめられ、下手に動けば音と光が森全体に響くだろう。


 「……これ、本当に抜けられるのか?」


 アルトが囁く声は低く震えていた。

 ノーラは額に汗を浮かべ、掌をじっと見つめていた。


 「やるしかない。……私の雷で、罠を狂わせてみる」


 青白い光が一瞬だけ走り、罠の符が誤作動を起こした。小さな閃光が森の奥に飛び、囮のように目を逸らす。

 その隙にアルトが剣を抜き、縄を断ち切った。力強い音が夜に響いたが、俺が魔力を声に乗せ遠くへ響かせる。影追い鼠は幻の痕跡を追って反対側へ走り去った。


 「……よし、今だ!」


 俺たちは柵を抜け出し、森の奥へ駆けた。


 だが、最後に待っていたのは魔道具による幻惑の迷路だった。

 木々が同じ形で並び、空は逆さに揺らめき、進めば進むほど同じ場所に戻ってしまう。焦燥感が胸を締め付ける。


 「くそっ……! 同じところばっかりじゃねぇか!」


 アルトが苛立ち、剣で茂みを切り裂いたが、また同じ景色が現れた。

 ノーラは肩で息をし、唇を震わせた。


 「……出口が……見つからない……」


 胸の奥が凍りつく。


 (もしこれが本物の敵地だったら―俺たちはこのまま狩られて終わる)


 俺は深呼吸をひとつして、目を閉じた。

 暗闇に飲まれそうになる心を押し返し、耳を澄ます。


 風の流れが違う。

 同じように見える枝葉のざわめきが、一か所だけわずかに遅れて揺れている。

 空気がよどみ、匂いが重く溜まる方向がある。


 (……抜け道は、あっちじゃない)


 「こっちだ!」


 声を張るより先に、俺は足で地面を叩いた。固い土と柔らかい土、その響きの違いが道を示す。

 アルトが先頭に立って剣で障害を払い、ノーラが雷を指先に灯して影を裂いた。


 俺は最後尾で振り返り続けた。息を乱さず、風の匂いと足裏の感触を確かめながら仲間を迷路から導いていく。


そして、茂みを突き抜けた瞬間。

 森の風が頬を撫でた。湿った空気ではなく、自由な風。月明かりが差し込み、広い夜空が開ける。


 胸が震えた。

 (……これが“生き延びる”ってことなんだ)


 アルトが剣を下ろし、ノーラが小さく笑う。束の間の安堵。

 その直後、耳元を裂く風切り音が走った。反射的にアルトが俺とノーラを抱えるように横へ飛び退いた。地面に黒い刃が突き立ち、土が派手に弾ける。ほんの一歩遅れていれば、俺たちの誰かの喉を貫いていただろう。


 乾いた音が、月明かりにやけに大きく響いた。


 「な、なんだこれ……!? こいつも幻惑の仕掛けか!?」


 アルトが剣を握り直し、必死に辺りを見回す。


 だが俺は、胸の奥が冷たく沈んでいくのを感じていた。


 (……違う。これは訓練じゃない)


 グレンの課題なら必ず前触れがあった。鳥の声の途絶、風の揺らぎ、匂いの変化……俺たちが“気づけるように”導いてくれていた。

 けれど、今の一撃には何もない。不自然なほどに気配がなかった。ただ月明かりの下で、殺すためだけの刃が飛んできた。これは“幻惑”なんかじゃない。純粋な殺意だ。


 闇の奥から、ぬめりつくような声が落ちた。


 「……みぃ〜ごとぉだぁぁ……ひひひっ……」


 影が月明かりに滲み出すように姿を現す。黒ずくめの男。足音も、気配も、何ひとつなかった。

 背筋を冷たく這い上がる感覚に、俺は悟った。


 (敵だ……本物の、敵だ!)


 「んふふふ……やっとだよ……。訓練中なんていつでも殺せたのにぃ……ぐっと我慢して、こうして“自由を掴んだ”瞬間を待ったんだ……うひひひっ……」


 声は淡々としていたが、刃より鋭く冷たい。


  「小さな肩ぇ……細い足ぃ……震える指先ぃ……。はぁぁ……まだ育ちきってない身体がぁ……怖がってぇ……それでも立とうとしてる姿がぁぁ……ゾクゾクするんだよねぇぇ……ひひひっ!」


 ノーラが一歩後ずさり、アルトが剣を構える。俺は背筋が凍りついた。


 「そうそう……そういう目! 怯えてもがいて、逃げ道探して……。でもね、ここでぷつん、って切れちゃうんだよぉ……。柔らかい首ぃ……細い胸ぃ……あぁぁ、最高だぁぁぁ……ぐふふふふっ!」


 男の瞳が月光を弾いた。

 

「だからねぇ……ここで、終わりにしてあげるよ。逃げ道なんて、もう――ないんだからねぇぇ……うふふふっ。」


 凍りつく空気。勝ち取ったはずの自由の風が、一転して死の予感に変わる。

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