第31話:英雄の子供達
日が昇り切らぬうちから、村は低いざわめきに満ちていた。
涸れ沢の土はまだ黒く湿り、焦げと血の匂いが朝霧に混じる。夜襲は退けた。だが、代償は小さくない。
そのとき、一人の人影が村へ戻ってきた。
灰色の法衣をまとったオルド神父。夜明け前に街の司祭へ呼び出されていたが、つい先ほど帰還したのだ。疲労の色を隠さぬまま広場を横切り、彼は無言で教会の方へと歩いていく。
(彼の口から語られる街の報せは、いずれこの場に届くだろう)
誰もがそう直感し、息を呑んだ。
広場の中央。
長机の上に帳面を置いた村長ハルドが、杖を突いて立ち上がる。周囲には男たちが輪を作り、女衆は少し離れた場所で肩を寄せ合う。子どもは家の戸口からのぞき込み、息をひそめていた。
ハルドは深く息を吸い、重々しい声を放った。
「報告を始める。」
老いた声が石畳に落ち、静けさが広がった。
「……戦死、二名。ヨアン―土の者。盾列、前にて頭の初撃を受け、即死。カスパル―火の者。搬送の途上、横合いから噛みつかれ、致命。重傷者、三名。フェリクス、腹部深手。ライナー、左腕の裂傷深く、当面は弓不可。ベネト、足首裂傷、歩行困難。軽傷は多数だが省く。いずれもヴァル、シモンが手当中だ。」
浅い嗚咽が幾つも、女衆の列から零れた。ヨアンの幼い息子が母の腰に顔を埋め、袖を濡らす。赤髭のカスパルに火の扱いを教わっていた若い男が、歯を食いしばってうつむいた。
「……そして。」
ハルドは、短く息を整え、次の頁へ指を運ぶ。
「レベルの上がった者を告げる。頭へ攻撃を当てた者、ならびに群れを退けるに大きく寄与した者だ。ラッド、ライナー、アルト―以上三名、各々一段。ノーラ、同じく一段。セレン―一段。納得がいかぬ者は、今は黙れ。これは昨夜の戦場で、女神様ご自身がお認めになられた証だ。」
ぎくり、と俺は小さく肩を震わせた。視線がいくつも刺さってくる。高揚でも嫉妬でもない、熱を帯びた、真っ直ぐな眼差し。ラッドが片手を挙げ、寡黙に頷く。ゲイルは腕を組んだまま、ほんのわずか口端を上げた。
「言っておく。」
ハルドは杖の先で石を一つ、コツリと鳴らす。
「昨夜、生き残れたのは奇跡ではない。各々が持ち場を守り、決死で役目を果たしたからだ。中でも―」
老いの眼が、輪の内側をゆっくりと渡り、俺で止まる。
「セレンの力がなければ、盾は折れ、槍は鈍り、雷は外れたろう。お前の魔力は、確かに皆へ届いた。ここにいる全員が見た。……ようやった。」
息が詰まる。胸の奥で、昨夜の震えが微かに蘇る。俺はただ、頷くことしかできなかった。
輪のあちこちから、ぽつぽつと声が上がる。
「セレン、ありがとよ。」
「お前の叫びで、足が前へ出た。」
「お前の声が、心臓を叩いたんだ。」
その言葉は、暖かい水のように胸の石ころを洗った。俺は両の拳をぎゅっと握り、うつむく。
(……俺の力は、無駄じゃなかった。)
ハルドは帳面を閉じ、次の指示へ移る。
「再発を防ぐ。見張りの交代は今晩より倍の密度で行う。柵は補強、油は配分を改め、炎の扱いはトルとローレンの許可なく触るな。土の者はゲイル指揮で段差の改良。狩人は鹿道の踏み跡を洗い直し、三叉路から黒松沿いは罠を増やす。隣村へは本日中に伝令を出す。嘆きは葬りの後でよい。まずは手を動かせ。」
全員が「了解」と声を合わせ、輪がほぐれていく。そこで、広場の外から砂を踏む音が近づいた。灰色の法衣―街の司祭に付き従う従者が二人、そしてその後ろから、オルド神父の姿。
「司祭殿の言葉を持ち帰った。」
オルド神父は静かに杖を立て、皆を見渡す。皺の間の瞳は澄み、夜明けの水のようだ。
「大精霊よりの信託が、街の教会の司祭に降りた。曰く、この村は《黒浪を退けし村》と呼ばれ、女神の加護のひとつを得た、と。恐怖に呑まれず、互いの手を取り、火と土と声とをもって群れを退けた尊き場。加護は薄布のように全域を包むという。詳らかには追って伝える、と。」
ざわめきが起こった。誰かが胸に手を当て、十字を切る。別の誰かは空を仰ぎ、涙を拭った。
「……また、街では噂が立っておる。」
オルドはそこで言葉を選ぶように一拍おいて、続けた。
「『加護の村に、支援系の高位光属性の子が現れた』とな。―名は挙がっておらぬ。噂はいつも歪む。心しておけ。」
俺は息を呑み、そしてうつむいた。俺のは喉の奥の、小さな魔孔が開いて、ただ皆へ届いただけの―。
(それでも……いい。昨夜、届いたのは真実だ。)
ハルドが司祭の従者に深く礼をし、実務の話へ移っていく。輪は散り、それぞれの持ち場へ走り出す。俺は片付けを手伝おうと歩を進め、ふと、視界の端で金色の髪を見た。
ノーラだ。広場の外れ、木陰の古い石碑のそばに立ち尽くし、遠い方角を見ている。街の門のほう、いや、そのもっと先だ。
俺は、近づいた。
「ノーラ……。」
「……オルド神父が、街へ呼ばれてたでしょ。……だから、もしかしたらって、思ったの。」
ノーラは笑おうとした。けれど、その笑みはすぐにほどけ、唇がきゅっと結ばれた。
「制御できたって、誰かが伝えてくれて……それで、父様か母様が、迎えに来るんじゃないかって。『よくやった』の一言でいいのに、って。……でも、何もなかった。いつも通り、何も。」
言葉がそこで途切れ、彼女はゆっくり首を振った。金の髪が、朝の光で淡く揺れる。目元が赤い。指先が、ほそく震えていた。
胸の奥が軋む。(何を言えばいい? 何を)喉が熱くなり、昨夜のように声が形を求めて暴れる。俺はそっと一歩近づき、彼女の横に立った。
「……俺は、昨日、ノーラに助けられた。皆もだ。雷がなかったら、きっと全員が死んでた。だから……俺は、ノーラが仲間でよかった。」
それだけしか言えなかった。けれど、言葉は嘘ではない。胸の底から、まっすぐに出た。
ノーラは、ぐっと唇を噛み、やがて、ふっと肩の力を抜いた。
「……ほんと、あんたって、変なとこばっかり真っ直ぐね。」
頬を伝う涙を、手の甲で乱暴に拭う。
「ありがと。……ほんとに、ありがと。」
昨夜のような轟きではない。母が幼い頃に口ずさんでくれた、あのやわらかな子守唄の調べが、心の底でそっと揺れる。俺は息を整え、ごく低く、短く、声を置くように紡いだ。
(届いてくれ。痛みを少しでも、軽く。)
波紋は優しく広がり、ノーラの肩のこわばりが少しだけほどけていくのがわかった。彼女は驚いたように俺を見たが、何も言わなかった。ただ、小さく「平気」と呟いた。
「やらなきゃいけないこと、あるから。」
ノーラは顔を上げる。瞳に、また火が宿っていた。
「もう一度、もっと完璧に制御する。……昨日は勝てた。けど、まだ偶然だって言われたら、悔しいから。」
「うん。俺も、魔力を鍛える。皆に届くように。もっと、確かに。」
二人で木陰を離れると、風が村の屋根を撫でた。遠く、鐘楼でセリオが小さく鐘を打つ音がする。短く、澄んだ音―人を集め、心を落ち着かせる響き。
(鐘は、人を集める。俺の声も、いつか―)
広場では、男たちが荷車の車輪を直し、土の男たちが段差の土を締め直す。火の者は油の壺を繕い、狩人は弦を張り替える。女衆は古布を裂いて包帯を作り、子どもは小石を拾って道をならす。誰かがヨアンの畑へ立ち寄り、芽吹いた苗の土をやさしく寄せた。赤髭のカスパルが鍛えた火箸が、鍛冶小屋の壁にもたれかかっている。
オルド神父は、広場の端で空を仰いだ。司祭からの言葉を反芻するように、目を細める。女神の加護―黒浪を退けし場所。大仰な言の葉など要らぬ。それでも、今は、その薄布が村を包む感覚が確かにあった。
ハルドが杖で石を叩いた。
「働け。泣くのは手を止めずに泣け。この村は、まだ立っておる。」
俺はうなずき、走り出す。荷車の縄を引き、土嚢を運び、仲間の肩を叩き、喉の奥でそっと息を回す。母に習った子守唄の調子で、音を磨く。声はまだ小さい。けれど、確かにそこにある。
昨夜、俺の声は無駄じゃなかった。
ならば明日も、無駄にはしない。
村の空は高く、雲はゆっくり流れていた。焦げた匂いは風に薄れ、かわりに土とパンの香りが戻り始める。遠くの森はなお暗い。けれど、ここに灯はある。人の手で守られた、小さくも確かな灯が。




