第28話: 不穏な気配と神父の言葉
村は、昨日の魔物騒ぎのせいでまだ落ち着かない空気に包まれていた。
門は半分閉じられ、見張り台には弓を持った大人たち。広場では槍や鍬を持った男たちが集まり、村長ハルドが夜の警戒の割り振りを読み上げている。
「二匹目は仕留めていない。群れの可能性もある。油断はするな。鐘の合図を忘れるなよ!」
広場の中央で、村長ハルドが声を張った。手には帳面。読み上げる声が石壁で跳ね返る。
「見張りは二人一組で半刻交代。鐘の合図は三つ。警戒は二打、集結は三打、退避は連打。夜半に試打する。油は節約するが、門と見張り台の灯りは絶やすな。女衆は夜食を回せ。子どもは日暮れ以降、門から先に出すな」
「了解!」
返事はそろったが、誰の喉にも乾いた緊張があった。昨日、俺たちは初めて魔物とやり合った。ひとつは倒し、もうひとつは森へ逃げた。猟師ラッドの話では三匹目、もしくは四匹目もいたという。わからないことほど、怖いものはない。
井戸端では水桶がぶつかり合って鈍い音を立て、母さんたちの声がいつもより小さく沈んでいる。
「畑の畦、踏まれてないか見た?」
「鹿ならいいけど、爪の跡だったって……」
「窓板を出して、灯りは布でくるむよ。赤ん坊は静かに」
「子どもは日暮れまでに家に入れよう」
「昨日は怖くて眠れなかったよ……」
子どもたちは広場で棒を振って遊んでいたが、すぐに叱られている。
「門のそばは駄目だ! 広場の真ん中で遊べ!」
……日常と警戒が入り混じった、不安定な空気。
俺は広場の隅で立ち止まり、胸に手を当てた。
昨日、初めて魔物と戦った。怖かった。けど逃げなかった。
そして勝った。
(……俺、レベルが上がったんだ)
そう実感できる。身体の奥が太くなったみたいに、魔力が濃くなったのがわかる。
誇らしいはずなのに、不安が胸の奥でうずく。
(実際にはノーラの雷の暴発で勝てただけ。村長の言う通りだ。倒せたこともただの偶然だった。事実2匹目には勝てなかった)
考え込んだときー。
「……ん?」
耳の奥がざわついた。
広場の喧噪の奥に、別の“音”があった。
風の音。
井戸の水が揺れる音。
牛の鼻息。
……違う。
(……低い……?)
地の底で石が唸るような、重たく湿った響き。
耳で聞いたというより、胸の骨の裏側が震えているような感覚。
(昨日までは、こんなの感じなかった……。魔力が増えたせい……? わからない。でも、嫌な気配だ)
顔が勝手に門の方へ向いた。影の帯の向こうに、暗い森の縁。
「……来る、かもしれない」
「……魔物?」
俺は思わず口にした。
思わず漏れた声に、近くの子が振り向く。
「おい、セレンが“魔物”って言ったぞ!」
「聞こえる? 意味わかんねーよ!」
笑い声。けれど軽くはない。怖さを押し戻すために、わざと大きく笑うやつの笑いだ。
「昨日のは偶然だろ?」
「調子に乗るなよ!」
「耳までおかしくなったんじゃないか?」
大人たちまで苦笑いで言った。
「セレン坊や、縁起でもないことを言うな」
畑帰りの男が声を荒げた。肩に鍬、腰に短剣。眉間の皺の下に疲れ。
「俺だって緊張してんだ。冗談でもそんなこと言うな。気持ちがささくれる」
「違う! 本当なんだ!」
「怖いけど……胸が震えてる。何かが近づいてるんだ!」
言葉にすればするほど薄くなっていく。伝わらない苛立ちが喉を熱くした。
「セレン」
背中から降ってきた声は、土に染みる水みたいに静かだった。振り向くと、白い法衣の裾が目に入る。オルド神父。古びた教会の主。杖の先で土を押さえ、腰には細い革袋。聖油か。頬はこけ、目尻に皺。なのに瞳は泉みたいに澄んでいる。
「静まれ」
低い声が広場に落ちた。
人々が振り向く。
「神父様……」
「オルド様だ」
ざわめきは一気に消えた。
神父は俺の前に立ち、静かに問いかける。
「セレン。おまえには、何が聞こえた?」
否定じゃない。ただの確認。
俺は勇気を振り絞った。
「……地の底から響くような、重たいうなりです。耳を通して、胸が震えるんです。昨日まではなかったけど……レベルが上がって、敏感になったのかもしれません」
自分で言って、自分でもよくわからないと思った。神父は静かに頷く。
大人たちが鼻で笑おうとしたが、神父は片手を上げて制した。
「皆の者。耳を澄ませよ」
静寂が広場を覆う。
「音は、神話の最初にある。天地が分かたれる前、光より前、言葉より前。最初に在ったのは“響き”だと古き書に記されておる」
俺は息を呑んだ。
「見えぬものを笑うな。気づく者を軽んじるな。たとえおまえらが聞けずとも、この子が耳にしたものには意味がある」
村人たちは押し黙った。不安の影だけが広がる。
胸の奥に、熱が灯った。
(神父様は……俺を否定しなかった)
ざわめきが引く。嘲笑は消え、不安だけが残る。
俺の胸に、熱が灯った。初めて、大人が、権威ある人が、俺の“変な感覚”を切り捨てなかった。
ざわめきが引く。嘲笑は消え、不安だけが残る。
俺の胸に、熱が灯った。初めて、大人が、権威ある人が、俺の“変な感覚”を切り捨てなかった。
(俺は証明する。気配が幻じゃないって。俺の存在が無駄じゃないって。守れるって、証明する!)
門の方で試しの鐘が二打、三打と鳴る。篝火の炎がゆらめき、夜が村を覆い始める。
耳に、いや胸の奥に。
まだ、あの不穏な唸りが確かに響いていた。
不穏な気配は、近づいていた。




