第22話おまけ: 一章閑話
レオンが家を出てから、まだ数日しか経っていない。
それなのに、家の空気は目に見えて変わっていた。
囲炉裏の周りに並ぶ食器は一つ減り、畑を手伝う声は二つから一つへ。
ただそれだけのことなのに、家が広くなったように感じられた。
「カイル、こっちは任せたぞ」
父ゲイルが鍬を担ぎながら声をかける。
「分かってる」
兄カイルは、いつも以上に真剣な顔で畑に向かっていた。
まだ十歳そこそこ。子供のはずなのに、土を耕す背中は一人前の農夫に見えた。
兄は家を継いだ。
その背中は、もう迷いがなかった。
母リーナはといえば、いつもより忙しそうだった。
畑から帰るカイルの食事を整え、俺を抱き、家の仕事をこなす。
時々ふと手を止めて、囲炉裏の火を見つめる姿があったけれど、それはきっと、レオンを思い出しているのだろう。
俺はその横顔をじっと見ていた。
「寂しい」と言葉にすることはなかったが、母の瞳の奥には消えない影が揺れていた。
「セレン、あんたも早く大きくなりなさい」
母にそう言われたとき、俺は胸が熱くなった。
俺に何ができるわけじゃない。
けれど、「いなくなった誰かの分を埋める」という思いは、確かに心に芽生えた。
夜。
囲炉裏の火の前で、父と兄が並んで座っていた。
「……父ちゃん、レオンは大丈夫かな」
カイルがぽつりと呟いた。
「大丈夫だ。あいつは火の属性を授かった。兵の道に進むのは自然なことだ」
父の声は力強かった。だが、その大きな背中もどこか沈んで見えた。
息子を誇りに思いながらも、不安が消えないのだろう。
翌朝。
カイルの背を追って畑に出た。
兄は黙々と鍬を振り、額から汗を流していた。
その姿はもう立派な「農夫」だ。俺には、とても遠い存在に見えた。
「兄さん、、」
声にはならないつぶやきが胸に広がる。
残された背中は、俺に問いかけている。
「お前は何を目指す?」と。
答えはまだ見つからない。
けれど、その問いだけは、確かに心に刻まれた。
兄レオンが家を出てから、日々は静かに、しかし確実に変わっていった。
家の中が寂しくなった分、村の人々との関わりが前より濃くなった気がする。
ある日、母リーナに連れられて畑道を歩いていると、近所のおばさんに声をかけられた。
「リーナさん、セレンをちょっと貸してくれるかい? 藁細工を仕上げたいから」
母が笑って頷くと、俺はおばさんに抱きかかえられ、縁側に座らされた。
おばさんの膝の上から見える景色は、母とは違った匂いと温もりがあった。
村の人間関係の網の目の中に、自分も少しだけ組み込まれている。そんな気がして、不思議に胸が温かくなった。
夕暮れ時、村の広場に出ると、子供たちが木剣を振り回して遊んでいた。
その中に、小柄ながら凛とした目をした少年がいた。
アルトだ。村長の孫。
年は俺より上で、木剣を構える姿はすでに「戦士の子」だった。
同じくらいの年の子供たちが取っ組み合いを始めると、アルトは木剣を軽く打ち鳴らして割って入った。
「やめろ! 喧嘩は剣じゃない!」
幼いのに、不思議な威厳があった。
子供たちは渋々手を離し、アルトの後ろに従う。
俺は抱っこされながらその光景を見ていた。
(やっぱり剣の家の子だ。いつか一緒に戦う仲間になるのかもしれない)
数日後。
母に連れられて、村外れの畑に薬草を摘みに行った。
そこで出会ったのは、背の曲がった老婆マルタ婆だ。
「おや、セレンじゃないか。元気そうで何よりだ」
母と世間話をしている間、俺は膝の上に座らされ、マルタ婆のしわだらけの手が俺の頭を撫でた。
その手は荒れていて、けれど温かかった。
「魔法はな、畑と同じなんだよ」
突然、マルタ婆は俺に向かってそう言った。
「急いで水をやりすぎれば根腐れする。
でも、世話を怠れば枯れてしまう。
魔力も同じさ。調和して育ててやらなきゃ、良い実りは得られん」
意味を全部理解できるわけじゃない。
それでも、その言葉は胸の奥に強く残った。
魔力を育てることは、命を育てることと同じ。
その比喩が、俺の探究心に火を灯した。
夜。
囲炉裏の前で母の子守歌を聞きながら、俺は小さく拳を握った。
「俺は、、必ず魔法を掴む」
家族を支えるために。
兄たちの背中に追いつくために。
そして、この村で出会った人々に応えるために。
家族の温もりだけじゃない。
村全体の営みの中に、自分の居場所がある。
そのことを知った4歳の夜、俺は深く眠りについた。
5歳の誕生日の朝。
母リーナが焼いてくれた黒パンは、ほんの少しだけ蜂蜜が塗られていた。
それはこの村では滅多に味わえないご馳走で、兄カイルも目を細め、父ゲイルも「今日は特別だ」と笑った。
けれど食卓の空気には、ひとつだけぽっかりとした空白があった。
レオンの席が、空いている。
士官見習いとして街へと旅立った次兄。
もうこの家で一緒に朝食をとることは、ほとんどないだろう。
俺は黒パンを小さな手でちぎりながら、ふと呟いた。
「……兄さん、今ごろ何してるかな」
母は一瞬だけ目を伏せたが、すぐに微笑んだ。
「きっと元気に頑張ってるわよ」
その声は少し震えていた。
日が傾く頃、村の人々が訪れて簡単な祝いをしてくれた。
近所のおばさんが藁細工のおもちゃをくれ、アルトも顔を見せて「おめでとう」とぎこちなく言った。
マルタ婆も現れて、乾いた笑みを浮かべた。
「5歳か。もう立派に村の一人前の口に加えられる年だな」
俺は首をかしげる。
「いちにんまえ?」
マルタ婆は俺の頭を撫で、しわだらけの指で軽く額を押した。
「働けとは言わんさ。ただし“見て学ぶ”のはもう始めてもいい歳だ」
母は「まだ子どもなのに」と苦笑したが、その目にはほんの少し期待の色もあった。
夜。
囲炉裏の火が小さくはぜる。
父ゲイルとカイルが話している声を、布団に入ったまま聞いていた。
「これからは俺が畑を守る。レオンの分まで」
「そうだな。お前に任せる」
真剣な兄の声。
誇らしげな父の声。
無理に押し出すのではなく、流れを導き、調子を合わせる。
火のゆらめきを見つめながら、母の歌を思い出した。
あの調和の旋律を心に刻んだ。




