第15話:兄カイルの準備
畑の土の匂いは、朝の空気と混じって重く胸に届いてくる。
夏の日差しを浴びた麦の穂が風に揺れ、ざわざわと小さな波をつくる。
その波の向こうに、兄カイルがいた。
鍬を両手で握りしめ、黙々と土を返す。
まだ九歳。けれど、背中にはすでに“子ども”よりも“大人”の色が濃い。
汗で髪が張りつき、泥で膝が汚れても、彼は一度も手を止めない。
俺は家の縁台に腰かけさせられ、まだおぼつかない足をぶらぶらさせながら、その姿をじっと見ていた。
二歳になったばかりの俺にとって、兄の働く背中は「遠い場所にある灯火」のようだった。
「カイル。もう一人前だな」
父ゲイルの低い声が畑に響く。
大きな手で腰に鍬を当て、土をならす姿は、村の誰よりも逞しい。
その父が、兄の肩に手を置いた。
「これからは、お前に畑を任せる日も増える。10歳になれば元服だ。男として、家の柱になるんだぞ」
カイルは一瞬、顔を上げた。
幼さの残る輪郭に、ぐっと引き締まった影が宿る。
「……はい」
短い返事。だが、声は迷いなく響いていた。
俺は胸の奥がざわつくのを感じた。
兄はまだ九歳。けれど、もう“農夫としての責任”を背負わされている。
前世の俺なら、その年頃はランドセルを背負い、ゲームや漫画の話をして笑っていただろう。
比べるまでもなく、こっちの世界の子どもは早すぎる。
(そうだ、、元の世界でも、昔は十五歳で成人なんて当たり前だったんだよな。いや、それどころか十二歳で嫁いでいた時代だってあった。俺が生きた現代が“遅い”だけで、、)
そう思い出すと、ここでの兄の姿も不思議と納得できる。
文明が違えば、価値観も違う。
けれどそれを頭で理解しても、心がすぐに追いつくわけじゃなかった。
俺にとってのカイルは“兄”であり、“まだ子ども”でもあったのだから。
昼下がり。
母リーナが布を広げ、昼食を畑に運んできた。
麦粥と干し肉、それに漬け物。
簡素な食事だけれど、土の匂いに混ざる湯気はなぜか豊かに感じる。
「セレンも一緒に食べましょうね」
母に抱かれながら、俺は兄たちと輪になって座った。
カイルは両手を合わせて「いただきます」と呟き、真剣に食べ始める。
いつもより口数が少ない。
食事のひと口ひと口に、妙な重みがある気がした。
父が豪快に肉を噛みながら言った。
「カイル。畑は待ってくれん。季節が巡れば、男も女も子どもも関係なく働く。だが、もうお前は“子ども”じゃない。村も、家も、お前を大人として見るだろう」
カイルは俯いたまま、少しだけ頷いた。
母がその背中に目を細める。
「大丈夫よ。あなたはきっとやれる。この子の面倒を見るのだって、誰より上手なんだから」
俺は驚いた。
確かにカイルは、俺を抱き上げてくれることもある。
ぎこちなくても、落とさないように腕を固くしてくれる。
言葉が少ないからこそ、誠実さが滲む。
兄は一瞬だけ俺を見て、ほんの少し口元をゆるめた。
その笑顔が、子どもっぽさを残す最後の火花のように思えた。
夜。
家の囲炉裏に火が灯り、橙色の影が壁を踊る。
父は藁縄を編み、母は衣を繕う。
そしてカイルは、黙って座り込み、じっと火を見つめていた。
「緊張してるのか?」
父が笑うと、カイルは首を振った。
「……ただ、俺はできるのかなって」
その言葉は小さく、けれど俺の耳にはしっかり届いた。
土を耕すこと。家を支えること。大人として認められること。
兄の心に初めて芽生えた“不安”が、橙色の火に映って見えた。
母が手を止め、そっと言った。
「大丈夫。できるかどうかじゃない。続けるの。畑も、家族も、手をかけた分だけ応えてくれる。カイル、あなたはそれを知っているでしょう?」
カイルは少しだけ目を伏せ、そしてまた顔を上げた。
炎に照らされる瞳が、決意に染まっていく。
「……うん。俺、やるよ」
俺は布団に包まれながら、その横顔を見つめていた。
言葉は理解できなくても、胸の奥で熱が広がる。
前世の俺は、こんなふうに“家を継ぐ”と口にしたことはなかった。
責任から逃げて、便利さに流されて生きていた。
(カイルはもう、自分の道を決めたんだ。)
二歳の俺には、何もできない。
けれど、兄の背中を焼き付けることだけはできた。
この光景を忘れまいと、小さな心に深く刻み込んだ。
その夜、眠りに落ちる直前。
母の子守歌がかすかに耳に残る。
俺は目を閉じながら、心の中で呟いた。
(兄さん、頑張れ。俺も、必ず追いつくから)
幼い誓いは、囲炉裏の火の残り香とともに、胸にそっと刻まれた。
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次回予告
夜の火に照らされた兄の横顔。
「俺、やるよ」
その決意は、幼い俺の胸にも深く刻まれた。
やがて訪れる十歳の鑑定の儀。
大精霊の御前に立ち、己の属性と職業を告げられる瞬間。
兄カイルは、家を背負う「農夫」としての道を歩み出す。
その光景は、俺にとっても忘れられない一歩となる。
責任を受け入れる兄の姿を前に、赤子の俺はただ願った。
(俺も、必ず自分の道を掴む)
次回
第16話「十歳の鑑定」
農夫としての第一歩。そして、俺が“この世界の現実”を知る日。




