第14話:母の涙
母の“教育ママ化”は日に日に加速していた。
神父に相談し、神話を読み聞かせ、火や水や風を感じさせる。
だが、母の中ではそれでも足りなくなっていたらしい。
その朝。
母はいつもよりずっと早く起き、俺を背に負い、桶に映る自分の姿を覗き込んだ。
「よし!」
頬には泥一つなく、瞳はきらきらと輝いていた。
それは、何の打算もない純粋な光。
子が特別だから、世界に認めさせたい。
ただそれだけの思いに突き動かされた表情だった。
「セレン、楽しみね! 今日こそ、あなたの未来が開けるかもしれないのよ!」
その声は無邪気で、胸を弾ませる遠足前の子どものようだった。
母は俺を背に負い、父にも言わずに家を出た。
「セレンを、本物の魔法使いにしてあげたいの」
その横顔は、不安よりも希望に満ちていた。
遠足に出かける子どものように胸を弾ませ、無邪気に未来を夢見ている。
向かった先は、町はずれの領主館。
下級貴族の屋敷だった。
白壁と高い石垣に囲まれた領主館。
農民の家とは比べるまでもない、威圧感ある鉄門。
母は俺を背負い、必死に頭を下げた。
「どうか、この子に、、魔法の教育を! 才能があるんです!」
最初に出てきた執事は、鼻で笑った。
「農民風情が、分不相応な夢を語るとはな」
奥から現れた若い貴族が、嘲笑を浮かべながら歩み出る。
金刺繍の外套を翻し、声を張り上げる。
「魔法? はっ、笑わせるな。
お前ら農民の血から、まともな魔術師が生まれるわけがないだろう!」
「魔法は血筋のものだ。貴族や神殿の子弟に流れる特別な才があってこそ扱える。
お前たち農民がどれだけ背伸びしても、せいぜい井戸水を冷やす生活魔法止まりだろう」
さらに別の貴族が、冷たい声で告げる。
「赤ん坊が魔力を揺らした? だからなんだと言うのだ。
魔法は血筋と伝統で磨かれるもの。
畑の泥にまみれた一族が、どう足掻いても身につくはずがない」
母は震えながらも食い下がった。
「ですが! この子は確かに、、!」
「黙れ!」
若い貴族は杖で門扉を叩き、怒鳴りつける。
「きゃっ」
「農民の分際で子を特別扱いとは、滑稽だ!
お前の夫も、代々ただの土くれ同然。
兄とやらもせいぜい畑で草をむしるのが関の山だろう。
そしてこの赤子も、結局は泥にまみれて一生を終える!」
「農民が魔法を学ぶ? 笑止!
力を持たぬ者が魔力を振るえばどうなる?
暴走し、己を焼き、村を焼き払い、迷惑を撒くだけだ!」
もう一人の貴族が、冷徹に言い放つ。
「貴族が魔術を受け継ぐのは“血と時間と犠牲”を払ってきたからだ。
農民が背伸びをすれば、その子も家族も無惨に死ぬだけ。
それが現実だ。受け入れろ!」
母は唇を噛みしめ、声を震わせた。
「それでも、この子の未来を信じたいのです、、」
だが返ってきたのは、決定的な一言だった。
「未来? 農民の子に未来などない!」
「そもそもお前ら農民は、代々“何も成さぬ血”。
学ぶ金も環境もなく、子に与えられるのは土と労働だけ。
努力しても覆せぬのだ。下に生まれた者は下のまま。それが世界の理!」
嘲笑と共に鉄門が打ち鳴らされる。
母の祈りは、冷たい現実と罵倒に踏みにじられた。
帰り道。
母は俺を背負ったまま、声を押し殺して泣いていた。
「ごめんね、セレン、、」
「母さんは、どうしても、あんたに未来をあげたかったのに、、」
背中越しに伝わる震え。
俺は赤ん坊の小さな手で、母の服をぎゅっと掴んだ。
(泣かないで、母さん。母さんが正しいことを俺が絶対に証明してみせるから)
悔しさで胸が熱くなる。
前世でも味わった、努力しても届かない社会の壁。
でも今度は、必ず超えてみせる。
母の涙をぬぐう力を、この手に。
帰り道、村に戻る道の辻で、俺たちは足を止められた。
そこに立っていたのは、背を曲げた老婆、マルタ婆だった。
村の誰もが一目置く古株で、長年の知恵を持つ語り部でもある。
「…..リーナ、お前、領主の館に押しかけたそうじゃないか」
しわがれた声が、風よりも鋭く胸を刺す。
母は驚いた顔をして、それでも背筋を伸ばした。
「ええ。セレンには、特別な力があるんです。だから、、」
マルタ婆は深くため息をつき、首を横に振った。
「馬鹿な。魔力とはゆっくり育てるもの。焦れば身を壊す。子を潰すことになるんじゃ」
「そんなことありません!」母は食い下がった。
「この子は、もう魔力を揺らして見せたんです。赤ん坊のうちから扱えているんです!」
「ほう」
老婆の目が鋭く光る。
「ならば聞こう。赤子が魔力を揺らすなど本当にできると思うか? それは幻にすぎん」
「幻なんかじゃない!」母は声を張り上げた。
「一番そばで見てきた私が知っている!」
俺の胸がどきりと鳴った。
「夜中に小さな手を震わせていたことも、布団を熱で濡らしたことも、、私は全部見てきた」
母は涙を浮かべて叫んだ。
「セレンは、私の誇りです!」
マルタ婆は長く目を閉じ、しわ深い顔に険しい影を落とした。
そして低く呟いた。
「……ならば、せいぜい気をつけるんだな。特別な子ほど、早く折れる」
そう言い残して、背を丸めたまま去っていった。
母は俺をぎゅっと抱きしめた。
「セレン、、あなたの努力を、母さんはちゃんと知ってる」
俺は胸の奥が熱くなるのを感じた。
隠れて布団の中で魔力を練り、指先に集めていた。
母には気づかれていないと思っていた。
だが母の言葉は、まっすぐだった。
(母さん、、見てくれてたんだな)
涙がにじむ。
だけどそれは、悔しさではなく、温かさだった。
その夜、父は普段よりもずっと遅く帰ってきた。
外から吹き込む夜風に混じって、ふと、低い声がした気がした。
「……では、これで」
耳慣れた声。村長のものに、どこか似ていた。
帰ってきた父は
畑仕事にしては服も汚れておらず、手にも鍬はなかった。
「ただいま」
短い声。
だがその声音は、まるで遠くから戻ってきた旅人のように疲れていた。
ただ無言で、母をぎゅっと抱きしめた。
次に俺を抱き上げ、小さな胸に押し当てるように力を込めた。
「……大丈夫だ」
短い言葉。だがその腕は、何よりも強く温かかった。
母の肩は震えながらも、少しずつ落ち着いていった。
◇
数日後、母はまだ諦めていなかった。
今度は村長の家に俺を連れて行ったのだ。
村長の家は他の農家より少し大きく、古い木造の梁が立派だった。
だが家の中は質素で、豪奢さとは無縁だ。
母は深々と頭を下げた。
「村長さん、この子に、、魔法の導き手を。少しでも未来を開いてやりたいのです」
村長は白い髭を撫で、しばし黙って俺を見ていた。
おそらく、貴族の館に押しかけた噂はすでに耳に入っているはずだ。
だが村長は、そのことには一言も触れなかった。
咎めることもなく、ただ静かに俺と母を見つめていた。
その目は、責めるでもなく、哀れむでもなく。
まるで「それでも子を思う親の心」を理解しているかのようだった
「……気持ちはわかる。だがなぁ」
静かに首を振った。
「わしの家は、かつては剣聖の末裔だと言われた。だが今は、見る影もない。
剣のことなら少しは教えられるが、、、魔法は門外漢じゃ」
母の顔が曇る。
そのとき、部屋の隅から少年の声がした。
「じいちゃん、誰か来てるの?」
現れたのは、俺より少し年上の少年。
乱れ気味の黒髪に、まだ幼いが芯の強そうな眼差し。
アルトだった。
村長は孫を手で制して言った。
「アルト、お前は下がっていなさい」
アルトは不満そうに眉をひそめたが、黙って引き下がった。
その背中には、まだ小さいながらも木剣が括りつけられていた。
母は悔しそうに唇を噛み、俺を抱きしめる。
「……そうですか。ご迷惑をおかけしました」
村長は深くため息をつき、ぽつりとつぶやいた。
「……農民にできることには限りがある。だが、それでも
子の可能性を信じることだけは忘れるな」
その言葉に、母の目が潤んでいた。
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次回予告
母が流した涙の意味を胸に刻みながら、俺は気づく。
この家にはもう一人、次の節目を迎えようとしている人がいる。
兄カイル。まだ九歳。
けれど来年には元服し、家を継ぐ者として立たねばならない。
汗に濡れた背中。黙々と鍬を振るう姿。
それはもう“子ども”ではなく、“家を支える男”の顔だった。
次回
第15話「兄カイルの準備」
幼き兄が背負う責任と、俺の胸に芽生える違和感。
「成人の早さ」と「家を継ぐ重み」を、俺は初めて知ることになる。




