第8話:よちよち一歩は、世界のはじまり
一歳を迎えたある日、母リーナが大事そうに布包みを取り出した。
「セレンの靴、できたのよ」
それは革を薄くなめした、小さな小さな靴。
村の職人が手作りしてくれたものだ。
兄レオン(六歳)は「ちっちゃいなー!」と目を丸くし、長兄カイル(八歳)は「これ、本当に履けるのか」と真剣に覗き込んだ。
母に靴を履かされ、足にぴたりと収まった瞬間。
胸がどきりと震えた。
これで、自分の足で外を歩ける。
父ゲイルが両手を広げる。
「さあ、来い、セレン!」
俺はふらふらと一歩踏み出す。
ぐらりと体が傾いたが、兄たちの笑い声と母の手が背を支えてくれた。
もう一歩、もう一歩。
石畳の庭を、靴の底がこつこつと鳴らす。
その小さな音に胸が震えた。
ふらつく足取りで畑をよろけ、兄たちの後をついていく。
その姿に、村人たちは笑みを浮かべながらも、ひそひそと陰口を交わしていた。
「……やっぱり外れ子なんだろうな」
「簡易判定で無反応だったからな。魔法は望み薄だ」
「カイルやレオンの弟だっていうのに、残念だな」
あからさまに蔑む声ではない。
それでも「期待外れ」という烙印が、俺の小さな背に貼りついているのがわかった。
だが、今の俺はさほど気にならなくなっていた。魔力はある。
俺は自分の中の魔力を確認していた。
土の匂いが鼻をくすぐり、頬を風が撫でた。
木々のざわめきが耳に広がり、まぶしい光が目を細めさせる。
いままで抱かれて眺めていた景色が、自分の足で進むことでまるで違って見えた。
そして、ふと気づく。
空気の中に、何かがある。
胸の奥を巡る流れに似ている。
母に抱かれたときに感じた、あの優しいざわめきと似たものが、風の中にも混じっている気がした。
確信ではない。
ただの錯覚かもしれない。
けれど、足裏で大地を踏み、頬で風を受けるたび、かすかに心が揺れる。
そのたびに、体の中の小さな循環が一瞬だけ応えるように震えた。
「ああ」
赤ん坊の声が漏れる。
だが胸の奥では、別の言葉が生まれていた。
これは、魔力の気配じゃないか?
リーナは泣きそうな顔で手を叩いていた。
「歩いた! セレンが歩いた!」
レオンは飛び跳ねて「すげぇ! おれの弟!」と叫び、カイルも無言で頷いてくれる。
ゲイルは「立派に育ったな」と笑って、鍬で荒れた大きな手で俺の頭を撫でた。
けれど俺は別のことを考えていた。
歩くことで、世界と自分がつながる。
この一歩一歩が、俺にとって魔法の練習なんだ。
その後、父の畑仕事を見に行った。
ゲイルが鍬を振るうたび、土の塊が砕け、光を浴びて舞い上がる。
「ほら、セレン、土はこうして耕すんだぞ」
父の息遣いとともに風が揺れる。
その風の中に、また微かなざわめきを感じた。
あの優しい流れと同じような、けれどまだぼやけた何か。
俺はよちよちと畑の端を歩き、足裏から広がる土の温かさを必死に追いかけた。
レオンは川辺で石を投げながら「火よつけー!」と母の真似をして笑っていた。
もちろん何も起きない。
だがその無邪気な声に、風と水の音が溶け合い、俺の胸の循環がふっと広がった。
世界は、確かに何かで満ちている。
だが今はまだ、それを「魔力」と言い切れるほどはっきり掴めない。
帰り道、通りがかったマルタ婆が俺の足元を見て笑った。
「おやまぁ、外に出られるようになったか」
杖で地面を突き、しわくちゃの目を細める。
「よちよち歩きでも、風を感じ、大地を踏めば、それだけで力を吸い込んでおるもんさ」
母が驚いて聞き返す。
「赤子でも、そんなことが?」
「当たり前よ。土も風も火も水も、この世界には力が流れておる。歩くというのは、それに触れる第一歩じゃ」
俺は息を呑んだ。
やっぱり、あの気配は間違いじゃない。
その夜。
靴を脱がされ布団に横たわった俺は、昼間の余韻に包まれていた。
地面を踏んだ感覚、風に揺れた胸のざわめきが、まだ体の奥に残っている。
内の魔力と外の気配。
その二つがかすかに触れ合った瞬間を、俺は確かに感じた。
けれどそれはまだ不確かで、掴めば霧のように消えてしまう。
いつかこれを、はっきりと繋げられるように。
小さな足の一歩が、未来への大きな一歩になる。
そう信じながら、俺は目を閉じた。
胸の奥では、母の子守歌に似た自然のざわめきが、静かに響き続けていた。
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次回予告
母の歌に重ねて、ようやく安定した俺の魔力の循環。
だがその夜、俺はさらに一歩踏み出した。
父の鍬が土を打つ瞬間。
母が炎を灯す直前。
兄が声を張るとき。
空気の奥で、かすかな「震え」が走っていた。
それは血や声ではなく……人の体から漏れる、魔力そのものの揺らぎ。
俺は見てしまった。
他人の魔力が残す“流れ”を。
次回 第9話『魔力の奔流、その隙間に潜むるもの』
魔力に触れること。
それはやがて“魔孔”という秘められた一点を見抜く力へと繋がっていく。




