第七章
鏡の中に立つ玲司の手から、古びた封筒が落ちた。
それはまるで、記憶の重さに耐えかねたかのように、ゆっくりと宙を舞って畳の上に落ちた。
その封筒には、子供が書いたような丸い文字でこう綴られていた。
「れいじくんへ」
その名を見た瞬間、空気が震えた。
——なにかが、剥がれ始めた。
畳の目が逆に流れ、障子の紙が音もなく裂けていく。
逆光の中に立つ“影の玲司”の輪郭が、ゆらりと滲んだ。
「……その名前を、そんな風に呼ぶな」
影が、低く唸るように言った。
「“名前”は、誰かの“所有物”じゃない。おまえが手紙で守ってるつもりのその文字は、ただの文字列だ。意味なんか、ない」
玲司は、目を細めて返す。
「違う。意味があるかどうかを決めるのは、“その言葉に何を込めたか”だ」
玲司の声が震える。けれど、それは恐れからではない。
言葉が、想いという刃になろうとしていたからだ。
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玲司は、あの時と同じように雪乃の名を呼んだ。
「雪乃」
それは、夜の闇に灯す火のような声だった。
「雪乃、聞こえるか。おまえが書いてくれたあの手紙、俺、まだ持ってる。
小学生のくせに、やたら丁寧な字で『これからもともだちでいてください』って……あれ、俺、一生捨てられなかったんだよ」
鏡の世界が揺れる。
“影の雪乃”の笑顔に亀裂が走った。
「やめて……それを言うな……!」
「おまえは“本物”になれない。思い出がないからだ。
偽物は、どんなに完璧に模倣しても“心”が追いつかない」
⸻
玲司が雪乃に近づく。
座敷の隅でうずくまっていた彼女が、わずかに顔を上げた。
その目が、玲司の瞳と重なる。
「……れいじ……?」
その声は、確かに“彼女”のものだった。
心の底からすくい上げたような、かすれた声だった。
玲司は微笑む。
「迎えに来た」
その瞬間、世界が悲鳴をあげるように崩れた。
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“影の玲司”が最後の抵抗を見せる。
「本物かどうかなんて関係ない! 人は簡単に騙される! 俺たちが“本物”だと名乗れば、それで世界は……!」
玲司は答えない。
ただ、雪乃の手を握った。
「信じる者がいる限り、本物は消えない。
だからおまえたちは、永遠に偽物のままだ」
その言葉とともに、玲司の胸ポケットにあった手紙がまばゆい光を放つ。
それは過去の“想い”が宿った、一通の“記憶”の形。
光が世界を焼き尽くし、“鏡の裏側”が崩れ落ちていく。
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気がつけば、玲司はあの廃屋の居間に倒れていた。
雪乃がすぐ隣で目を覚ます。
あたりに黒い鏡はなかった。ただ、砕け散った破片が畳に転がっているだけ。
「……帰って、これたのか?」
雪乃が、呆然としたまま玲司の顔を見た。
「うん」と玲司はうなずく。
「帰ろう。今度こそ、“本物の世界”に」
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彼らの背後で、砕けた鏡の破片がひとつ、かすかに光った。
まるで、“それでもなお見ている”何かのように——。