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第五章

朝が来たはずだった。けれど、空はまだ夜のように暗かった。


 旧鏡野家の周囲を包む霧が、まるで“外の世界”を断ち切るかのように立ち込めている。

 その濃さは異常で、窓からわずか一メートル先さえ見えない。


 玲司は静かに起き上がり、手帳に昨夜の出来事を書き留めた。

 ——鏡の震え、床下からの音、鏡に映った「自分ではない自分」。


 だが、それ以上に脳裏に焼きついて離れないのは、あの目だった。


 鏡の中からこちらを見た目。

 確かに“同じ顔”なのに、全く異なる意思と感情を宿したそれは、理性が否定しても、身体の奥が「違う」と叫んでいた。


 あれは“鏡野玲司”ではない。



 午前十時。霧はわずかに薄れたが、どこか不自然に村全体が沈黙していた。


 雪乃は古い納戸から、一冊の黒い帳面を持ってきた。


 「これ、蔵の床下にあったんです。父が最後まで隠していたみたいで……」


 それは、戦前の旧字体で記された儀式録だった。


 鏡野家がこの地に根を下ろしてから続けてきた、ある“封印の儀”についての記録。

 その冒頭に記された一文が、玲司の血を凍らせた。


『此ノ家ハ、影ヲ喰ラウ者ノ境界ナリ。

鏡ハ門ナリ。影ハ神ナリ。

凡ナル者、決シテ其ノ名ヲ告ゲテハナラヌ』


 ——“名”を告げてはならぬ。


 鏡に映る者に、本当の名前を知られてはならない。

 そう書かれていた。

 名前を知られた瞬間、鏡の中の影が“同化”し、その者の“居場所”を奪うという。



 玲司は息を飲んだ。

 昨夜、鏡に映った“彼”が、口の動きだけで、何かを呟いていたことを思い出す。


 (……かがみの……れ……)


 いや、それ以上は言わせなかった。だが、もしも——。


 「雪乃。君、今まで“鏡”の前で自分のフルネーム、言ったことないか?」


 「……ある。小さい頃、遊びで。鏡に向かって『私は鏡野雪乃です』って。何度も……」


 玲司は震えを感じた。


 彼女は、すでに“名前を渡している”。


 だから、鏡の中に“雪乃”が現れるのだ。

 それは彼女の影ではなく、彼女に成り代わろうとする“影”だった。



 帳面の後半には、封印の儀の詳細が記されていた。


 そこには、夜半、北の山にある「影見の間」と呼ばれる洞窟で、鏡を“正面から”見る儀式のことが書かれていた。


 儀式の条件は三つ。


 一、影に本名を与えてはならぬ。

 二、鏡に背を向けたまま名を問われたなら、沈黙を守れ。

 三、鏡が“笑った”なら、もはや戻る術なし。


 「……つまり、鏡は“喰らう”のか」


 玲司は呟いた。


 人の姿と名前を取り込み、完全に“入れ替わる”。

 その“器”が欲しいだけでなく、“現実”に出てくるための名札として“名前”を使う。


 それを阻止するために、鏡野家は代々、“鏡の鍵”を護っていた。



 その鍵——


 玲司はふと、旧家の床下にあった鉄箱のことを思い出した。

 解錠したとき、中にあったのは、一枚の黒い鏡だった。


 布で包まれたその鏡は、通常の鏡とは異なり、光をほとんど反射しない。

 まるで、こちらの姿を“拒絶”しているかのように。


 (……もしかして、これは“向こう”を見るための鏡か?)


 玲司は意を決して、黒い鏡を机の上に置いた。

 雪乃も黙ってその隣に立つ。


 布を取ると、そこには映ってはならないものがあった。


 鏡には——雪乃だけが映っていなかった。


 玲司の姿はそこにある。

 だが、隣に立つ雪乃の姿だけが、鏡の中に存在しない。


 いや、正確には——“違う何か”が、そこにうっすらと浮かんでいた。


 輪郭だけ。影だけ。

 けれど、鏡の中のその影は、こちらを見て、口を動かした。


 (……ユキノ……)


 ——それは彼女の名前を、知っている。



 雪乃が鏡に近づいたとき、不意に鏡面が波打ち、彼女の手が中に吸い込まれた。


 「雪乃!」


 玲司が叫ぶ間もなく、黒い鏡の中で“雪乃の影”がこちらを向き、微笑んだ。

 まるで、これが「最初から定められていた」かのように。


 ——影は、もうこちら側に足を踏み入れている。

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