第四章
そこは、地図にもろくに載っていない山間の集落だった。
鏡野雪乃の故郷。かつて山岳信仰と共に栄え、いまは過疎と忘却の狭間に沈んでいる場所。
玲司は彼女の案内で、重い曇天の下、その村に足を踏み入れた。
道はすでに舗装を捨て、車の足元には砕けた石と落葉が交互に交じっていた。
森の木々は沈黙し、風すらもどこか怯えているように見える。
「……ここ、空気が違う」
玲司がそう呟くと、雪乃は黙ったまま頷いた。
この土地には“光”がない。
太陽が昇っていても、何かに遮られているかのような陰りが残る。
古びた鳥居、廃れた祠、倒れかけた石碑。それらすべてが、この村が「何かを封じていた」過去を語っていた。
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鏡野家の旧宅は、村の奥にひっそりと佇んでいた。
苔むした瓦屋根、軒の下に吊るされた風鈴は錆びきり、音を出すこともない。
障子には穴が空き、床は軋み、家全体が深いため息を吐いているようだった。
「……私が最後に来たのは、父がいなくなって半年後。それ以来ずっと空き家のままです」
玲司は手袋をはめて玄関を押し開けた。
重い音とともに、土間の奥からひんやりとした冷気が流れ出る。
家の中には、鏡が一枚もなかった。
壁にも、化粧台にも、姿見にも、鏡の“気配”すら消えていた。
それが異常だと感じた瞬間、玲司の脳裏にかすかな警鐘が鳴った。
「全部、割られたんです。父が……いなくなる前夜に」
雪乃の声が震えた。
その震えが、玲司の内側にずしりと沈み込む。
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奥の間に入ると、床の間にだけ違和感があった。
一見ただの板張りの壁。しかし近づいてよく見ると、微妙に“線”がある。
古い襖のように、そこだけ異なる素材で覆われているのだ。
玲司は指先でなぞり、釘の頭を見つけた。
慎重に工具を取り出し、それを外していく。
やがて現れたのは、裏返しにされた鏡だった。
木枠の奥に、まるで封印のように貼りつけられた鏡。
黒布で覆われ、その表面がこちらを映さぬよう、完全に背を向けられていた。
「……封じてあるんだ」
雪乃がかすれるように言った。
「父が言ってた。『鏡には“裏”がある。裏に入ったものは、こちらに戻ろうとする』って」
玲司の指先が止まった。
「それは……“誰か”じゃなく、“何か”かもしれない」
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その夜。
二人は旧宅に泊まることにした。調査のため、やむを得なかった。
深夜二時——ふと、玲司は音で目を覚ました。
ぽたり、ぽたり。
水音。床に落ちる液体の音。
手探りでライトをつけ、音のほうへ向かう。
すると、床の間の鏡のあった場所——そこから、水のようなものが染み出していた。
血ではない。けれど、限りなく“血に似たもの”。
その下で、鏡がかすかに震えている。
——カタン。
ひとりでに、鏡の裏の板が動いた。
玲司が近づこうとしたとき、鏡の向こうに“自分の背中”が見えた。
こちらを向いていない“自分”。
けれど、その“自分”は、鏡の中でゆっくりとこちらに顔を向ける。
——ニヤリ。
笑った。
次の瞬間、床下から「ドン!」と何かがぶつかる音がした。
まるで鏡の奥で、何かが“叩いている”かのように。
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玲司はすぐに雪乃を起こし、鏡に布をかぶせた。
だが、すでに手遅れだったのかもしれない。
鏡の布越しに感じる、“息づかい”のような波動。
見ていなくてもわかる。あれはもう、ただの鏡じゃない。
向こう側から、誰かが来ようとしている。