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第三章

 それは、雨の音だった。


 ぽつ、ぽつ……。

 窓の外を打つ不規則な雨粒が、記憶の奥底に沈んでいた何かを呼び起こす。


 ——彼女の記憶は、ある一点から突然、空白になっていた。

 その夜のことを誰に聞かれても、雪乃は「覚えていない」と答えるしかなかった。

 けれど、覚えていないのではなく、「閉じ込めていた」のかもしれない。


 雨音は、封じた記憶の鍵だった。


 その夜——


 高校三年、文化祭の前日。

 雪乃は部活の準備で、遅くまで美術室に残っていた。

 誰もいないはずの校舎。夜の静寂に沈む廊下。

 足音が響くたびに、自分の存在が吸い込まれていくような錯覚に陥った。


 美術室には、全身を映す大きな姿見が一枚置かれていた。

 由来は不明だが、代々その場所に据えられているらしかった。

 古びた木枠、曇った鏡面。どこか不自然に冷たい。


 その前を通りかかったとき、不意に視界の端で“何か”が動いた。


 ——誰かが、鏡の向こうから手を振っている。


 いや、自分の動作ではない。確かに「先に動いた」のだ。

 鏡の中の“彼女”は、微笑みながら手を振り、口を動かした。


 (……おいで)


 音はないのに、そう聞こえた。脳内に直接響いたような幻聴。

 背筋が凍りつく前に、意識がふっと遠のいた。



 気がついたとき、雪乃は保健室のベッドにいた。

 担任の先生が心配そうに覗き込んでいる。


 「……鏡の前で倒れてたの。覚えてる?」


 雪乃は黙って首を振った。


 「誰もいなかったよ。鍵も閉まってた。なんで中に入れたのか不思議なくらい」


 その夜からだった。

 鏡の中に“自分ではない私”が現れるようになったのは。



 玲司は彼女の語った記憶を、精神医学の観点から反芻した。

 通常の解釈であれば、これは「自己像の乖離」、あるいは解離性健忘やトラウマ性幻視に分類される。

 だが——それだけではない“確かさ”があった。


 雪乃の語る“鏡の私”は、単なる幻覚の域を超えていた。

 明確な意志、目的、行動の先取り。

 そして何よりも、彼女が語る内容は、玲司自身の体験と異常なほど一致していた。


 鏡の中に“先に動く自分”がいる。


 それは一種の予知でも、映像のズレでもない。

 もうひとつの存在が、鏡の向こうから“こちら”を模倣し、やがて取って代わろうとしている。



 玲司はふと、ひとつの疑問に立ち止まった。


 ——なぜ「鏡野」なのか。


 雪乃の苗字、“鏡野”。

 それが単なる偶然の一致に思えなくなっていた。


 彼女の家系に、何かある。

 古い呪術や信仰、封じられた何かが、その名前に込められているのではないか。

 玲司は調査のため、雪乃の家族構成を尋ねた。


 「……両親は、もういません。母は小さい頃に事故で。父は——失踪しました」


 「いつ頃?」


 「中学のとき。ある朝突然、家の鏡だけ全部割られていて、父もいなくなってたんです。

  ……玄関には、小さな鏡が一枚、裏返して置かれてました」


 玲司は言葉を失った。


 家中の鏡を破壊し、最後に一枚だけ“裏返して”残した。


 その意味は明らかだった。


 鏡の中に何かが入り込んだ。そして、出てきた。

 父親は気づき、抵抗しようとした。けれど、間に合わなかったのだ。



 その夜。玲司は夢を見た。


 白い廊下。静まり返った病院。

 廊下の先に、割れた鏡があり、その破片の中から“無数の目”がこちらを覗いている。

 瞼を閉じても焼き付いたその映像は、起きたあとも網膜に残っていた。


 ふと、デスクの上に置いた手鏡が、かすかに震えた。


 (……こちらを見ている)


 理性が否定しようとする前に、心の奥底が認めてしまっていた。


 ——すでに“こちら側”に来ているのかもしれない。


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