第二章
目を閉じると、鏡の音が聞こえる。
正確には、音などしていない。
だが、志水玲司にとって“あの夜”以来、鏡は常に割れる寸前の硬質な緊張音を、無言のまま放ち続けていた。
それは耳ではなく、皮膚や脊髄で感じる振動だった。
触れれば砕け、覗けば“誰か”が戻ってくる。
そんな確信めいた恐怖が、脳髄に巣食っていた。
玲司は自室の本棚の裏、ほこりをかぶったダンボールから、一冊のファイルを取り出した。
“あの事件”の記録だ。
——大学三年、冬。
心理学ゼミの研究発表準備で泊まり込みとなった夜、学内の旧館で一人の学生が失踪した。
名前は、水谷結花。玲司の同期で、ゼミでは最も頭の切れるタイプだった。
失踪の前夜、結花はこう言っていた。
「鏡ってね、人の心を写すって言うじゃない? でもさ、もし逆だったら、怖くない?」
「逆?」
「うん。心が、鏡の中の“何か”を写し取ってたとしたらってこと」
冗談のように笑っていたが、目は笑っていなかった。
それが引っかかったのか、あるいは何か他の“気配”を感じていたのか……。
結花の最後の目撃は、ゼミ室。
監視カメラの映像では、夜の十時半。誰もいない室内で、鏡に向かって独り言を繰り返していた。
「……誰?」「……戻して」「私じゃない、私じゃない」
その二日後、結花のスマートフォンが校内の排水口から発見された。
以降、彼女の行方は知れない。
自殺と断定された。だが遺体は見つかっていない。
玲司は当時、誰にも話していないある“体験”をしていた。
それが原因で、彼は卒業後に精神医学の道へ進んだ。
あの夜、ゼミ室に忘れ物を取りに戻ったとき——
室内の鏡に、**自分とまったく同じ顔をした“誰か”**が立っていた。
いや、鏡に写っていた。だが“反転”していなかった。
頬のほくろも、髪の流れも、すべて現実と一致していた。
——通常の鏡像にはない一致。
その“自分”は、玲司が動く前に、先に笑った。
思わず声を上げて後退したとき、鏡がバキッと割れた。
ガラス片が床に散った瞬間、それは消えていた。
いや、消えたのか——逃げたのか。
玲司は、雪乃の語る「鏡の中の私じゃない私」という言葉が、その夜の“何か”と恐ろしく重なっていることに気づいていた。
⸻
翌日、玲司は病院に向かう道すがら、都内の古書店に立ち寄った。
そこには、鏡に関する精神疾患や文化的信仰、そして都市伝説までも網羅した奇書が並ぶ。
ページをめくる手が止まる。
——「鏡像症候群」:“自己の鏡像”が意志を持ち始める感覚。
——「鏡鬼」:地方伝承に見られる“鏡の中の霊魂に体を乗っ取られる”民話。
そして、ある一文が玲司の視線を射抜いた。
『鏡とは、外を映す道具ではなく、内を暴く穴である。
見ているのは、おまえではない。見られているのは、おまえだ。』
ぞっとした。
何かが、深く、揺らぎ始めている。
理性の皮を一枚ずつ剥ぎ取っていくように、言葉が心に刺さる。
病院に戻ると、受付が慌ただしく動いていた。
「先生、鏡野さんが、ナースステーションの鏡を……」
——割った。
玲司は無言で駆け出した。
心臓の音が自分の足音と重なり、ただでさえ早い思考が、さらに異常な速度で駆けめぐる。
雪乃は、病室の隅で膝を抱えていた。
床には、バラバラに砕けた鏡。血の混じった破片。
「見たんです……また、あの“わたし”が……」
玲司は、その顔に映る“本気の恐怖”を否定できなかった。
心の底にある、鏡という存在への根源的な不信。
——もしかして、彼女は狂っているのではなく、**正気のまま“見えてしまっている”**のではないか?
脳裏に、ひとつの仮説が浮かんだ。
もし鏡に、**自我を持った“像”**があるとすれば?
それは人間に似て非なる意識を持ち、向こうからこちらを見ていたとすれば?
その仮説に、どれだけの狂気が含まれているかは分かっている。
だが——もしそれが真実なら。
あの夜、結花は“取り込まれた”のかもしれない。
そして今、雪乃もまた——同じ運命を辿ろうとしている。