表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/15

第一章

 雨だった。

 風もなく、ただ静かに、絶え間なく落ちてくる。夜の東京は、街灯とアスファルトが交わるたびに濡れた瞳のように輝き、そして沈んでいた。


 志水玲司は、病院の喫煙所で一本の煙草を細くくゆらせていた。

 診察の合間、雨の音を聞くのが癖だった。まるで、過去のざわめきを洗い流してくれるようで。

 だが今夜は、その雨音さえも不快だった。


「……鏡野雪乃?」


 ポケットのメモに書かれたその名前を見た瞬間、胸の奥で何かが微かに軋んだ。


 自殺未遂で搬送。切創痕多数、左手首を深く……。

 意識は回復したものの、極度の解離状態と錯乱。診断は未確定。

 玲司の元に回されてきたのは、いわゆる“厄介な患者”だった。


 だが彼女の名前には、耳慣れぬ既視感があった。

 あまりに静かに、何かの記憶を叩くように。


「家族は……鏡の中の人に、殺されたんです」


 カルテに添えられた救急医の記録が、玲司の脳裏にこびりついて離れなかった。


 ——鏡。


 その単語が、嫌でも過去の映像を引きずり出してくる。

 自分が大学三年だった冬。

 ある“事件”で、自分は鏡を見なくなった。

 部屋の鏡はすべて外し、洗面所の鏡にも布をかけるようになった。

 意識すまいとしても、鏡の中の何かが、いまだにこちらを覗いている気がしてならなかった。


「先生、準備できました」


 声をかけてきたのは、臨床心理士の黒崎美紗だった。

 細身の身体に白衣を羽織り、理知的な瞳が玲司を見つめる。

 だがその眼差しの奥には、いつも計算と興味が潜んでいた。


「例の患者さんね。正直、あれは重いわよ。手首の縫合だけで五十針を超えたって話。『鏡が襲ってくる』なんて叫んでたらしいわ」


「……ありがとう」


 玲司は短く答え、診察室の扉を開けた。



 部屋の空気が違った。

 まるで冷蔵庫の扉を開けたような、妙な温度の低さがあった。


 その中央に、彼女は座っていた。


 鏡野雪乃——26歳。

 長い黒髪は乱れ、左手にはまだ包帯が巻かれていた。

 だが、なにより目を引いたのはその“眼”だった。


 空虚。

 正確には、空虚の“演技”がうまくいっていない目。


 虚無を装っているのに、感情が漏れ出てしまっている。

 怒りか、悲しみか、あるいは——恐怖か。

 その眼差しは、今にも逃げ出しそうに揺れていた。


「志水です。今日からカウンセリングを担当します」


 静かに名乗ると、雪乃は少しだけ顔を上げた。

 その仕草が、鏡の中でこちらの動きを真似てくる“誰か”に見えて、玲司の背筋が一瞬震えた。


「……鏡、ありますか?」


 第一声だった。


「この部屋にはありません。必要であれば、後ほど——」


「いらない。……いらないんです。見たくないから」


 彼女の声は、ガラスを爪でこすったような細くかすれた音だった。

 響きは弱く、けれど中身は硬い。その口調の中には、どこかに刃があった。


 玲司は言葉を選ぶように、ゆっくりと問いかけた。


「雪乃さん。あなたは、なぜ手首を切ったんですか?」


「……来たんです。あの夜。また、来た」


「“あの夜”とは?」


「……昔、全部……死んだ。パパも、ママも、にいに……。でも違う。私、見たんです。鏡の中で。あの人が、笑ってた……私の顔で、笑ってた」


 言葉のつじつまは、ところどころで破綻していた。

 だが玲司は感じていた。

 その語りは“嘘”ではない。


 むしろ、彼女の脳内には確かな映像として刻まれている。

 鏡の中で笑う“自分ではない自分”。


 ——解離性同一性障害? それとも視覚認知の歪みか。

 玲司の頭の中で、複数の診断名が列をなしたが、どれもしっくりこない。


「……あの人、私を殺そうとするんです。でも、私が死ぬと、入れ替わっちゃう。だから、生きてなきゃいけないの。生きて、鏡を見なきゃ、監視しなきゃいけないのに……」


 雪乃の言葉は徐々に加速し、やがてぶつ切りになった。

 彼女の目がどこか遠くの空間を見つめている。


「……見てる……今も、見てる……鏡の奥で、こっちを見て……」


 ガタ。


 椅子を蹴るようにして、雪乃が立ち上がった。

 その顔は蒼白で、唇を噛み締め、目に涙を浮かべていた。


 玲司が立ち上がろうとした、その瞬間。


 彼女の視線が、部屋の隅にあるステンレス製の花瓶に向いた。


「だめっ!! そこにいる、そこにいる!!」


 叫びとともに、彼女は包帯の手で花瓶を叩き落とした。


 鏡面仕上げの側面が、床に転がりながら、玲司の姿を映す。

 だがそこには、もうひとつの“誰か”の顔が、ほんの一瞬だけ、かすかに映ったように見えた。



 診察の後、玲司はデスクに戻りながら、心のどこかで確信に似た恐怖を抱いていた。


 ——彼女は、病んでなどいない。

 むしろ、何か“本物”を見ている。


 それが幻覚でないとするならば。


 あの鏡の中には、一体——誰がいるというのか。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ