第一章
雨だった。
風もなく、ただ静かに、絶え間なく落ちてくる。夜の東京は、街灯とアスファルトが交わるたびに濡れた瞳のように輝き、そして沈んでいた。
志水玲司は、病院の喫煙所で一本の煙草を細くくゆらせていた。
診察の合間、雨の音を聞くのが癖だった。まるで、過去のざわめきを洗い流してくれるようで。
だが今夜は、その雨音さえも不快だった。
「……鏡野雪乃?」
ポケットのメモに書かれたその名前を見た瞬間、胸の奥で何かが微かに軋んだ。
自殺未遂で搬送。切創痕多数、左手首を深く……。
意識は回復したものの、極度の解離状態と錯乱。診断は未確定。
玲司の元に回されてきたのは、いわゆる“厄介な患者”だった。
だが彼女の名前には、耳慣れぬ既視感があった。
あまりに静かに、何かの記憶を叩くように。
「家族は……鏡の中の人に、殺されたんです」
カルテに添えられた救急医の記録が、玲司の脳裏にこびりついて離れなかった。
——鏡。
その単語が、嫌でも過去の映像を引きずり出してくる。
自分が大学三年だった冬。
ある“事件”で、自分は鏡を見なくなった。
部屋の鏡はすべて外し、洗面所の鏡にも布をかけるようになった。
意識すまいとしても、鏡の中の何かが、いまだにこちらを覗いている気がしてならなかった。
「先生、準備できました」
声をかけてきたのは、臨床心理士の黒崎美紗だった。
細身の身体に白衣を羽織り、理知的な瞳が玲司を見つめる。
だがその眼差しの奥には、いつも計算と興味が潜んでいた。
「例の患者さんね。正直、あれは重いわよ。手首の縫合だけで五十針を超えたって話。『鏡が襲ってくる』なんて叫んでたらしいわ」
「……ありがとう」
玲司は短く答え、診察室の扉を開けた。
⸻
部屋の空気が違った。
まるで冷蔵庫の扉を開けたような、妙な温度の低さがあった。
その中央に、彼女は座っていた。
鏡野雪乃——26歳。
長い黒髪は乱れ、左手にはまだ包帯が巻かれていた。
だが、なにより目を引いたのはその“眼”だった。
空虚。
正確には、空虚の“演技”がうまくいっていない目。
虚無を装っているのに、感情が漏れ出てしまっている。
怒りか、悲しみか、あるいは——恐怖か。
その眼差しは、今にも逃げ出しそうに揺れていた。
「志水です。今日からカウンセリングを担当します」
静かに名乗ると、雪乃は少しだけ顔を上げた。
その仕草が、鏡の中でこちらの動きを真似てくる“誰か”に見えて、玲司の背筋が一瞬震えた。
「……鏡、ありますか?」
第一声だった。
「この部屋にはありません。必要であれば、後ほど——」
「いらない。……いらないんです。見たくないから」
彼女の声は、ガラスを爪でこすったような細くかすれた音だった。
響きは弱く、けれど中身は硬い。その口調の中には、どこかに刃があった。
玲司は言葉を選ぶように、ゆっくりと問いかけた。
「雪乃さん。あなたは、なぜ手首を切ったんですか?」
「……来たんです。あの夜。また、来た」
「“あの夜”とは?」
「……昔、全部……死んだ。パパも、ママも、にいに……。でも違う。私、見たんです。鏡の中で。あの人が、笑ってた……私の顔で、笑ってた」
言葉のつじつまは、ところどころで破綻していた。
だが玲司は感じていた。
その語りは“嘘”ではない。
むしろ、彼女の脳内には確かな映像として刻まれている。
鏡の中で笑う“自分ではない自分”。
——解離性同一性障害? それとも視覚認知の歪みか。
玲司の頭の中で、複数の診断名が列をなしたが、どれもしっくりこない。
「……あの人、私を殺そうとするんです。でも、私が死ぬと、入れ替わっちゃう。だから、生きてなきゃいけないの。生きて、鏡を見なきゃ、監視しなきゃいけないのに……」
雪乃の言葉は徐々に加速し、やがてぶつ切りになった。
彼女の目がどこか遠くの空間を見つめている。
「……見てる……今も、見てる……鏡の奥で、こっちを見て……」
ガタ。
椅子を蹴るようにして、雪乃が立ち上がった。
その顔は蒼白で、唇を噛み締め、目に涙を浮かべていた。
玲司が立ち上がろうとした、その瞬間。
彼女の視線が、部屋の隅にあるステンレス製の花瓶に向いた。
「だめっ!! そこにいる、そこにいる!!」
叫びとともに、彼女は包帯の手で花瓶を叩き落とした。
鏡面仕上げの側面が、床に転がりながら、玲司の姿を映す。
だがそこには、もうひとつの“誰か”の顔が、ほんの一瞬だけ、かすかに映ったように見えた。
⸻
診察の後、玲司はデスクに戻りながら、心のどこかで確信に似た恐怖を抱いていた。
——彼女は、病んでなどいない。
むしろ、何か“本物”を見ている。
それが幻覚でないとするならば。
あの鏡の中には、一体——誰がいるというのか。