プロローグ
――23年前の深夜、山奥の屋敷にて。
あの夜、鏡の奥から「それ」はやってきた。
豪雪に閉ざされた村の一角。
白い息を吐きながら、少女はじっと鏡を見つめていた。ふわふわと降る雪が、外の世界をまるで真っ白な幕で覆い隠していくようだった。
屋敷の中は静まり返り、家族はみな眠っているはずだった。
だが少女は知っていた。
階段の軋む音がした。誰かがゆっくりと、決して急がず、しかし確実に近づいてきている。
鏡の中の世界が、ゆらり、と揺れた。
「だめ……来ないで……」
声に出すと、泣き声のように震えた。
小さな手が鏡の縁をぎゅっと握る。
そのとき、鏡の中の“少女”が動いた。
鏡の前に立っているのは確かに自分自身のはずだった。
けれど、その“わたし”は、決して“わたし”ではなかった。
笑っていた。
口元だけを歪めて、冷たく、意味のわからない笑みを浮かべていた。
「雪乃……おいで」
声が、鏡の奥から聞こえた。
男とも女ともつかぬ、どこか削れたような音の声だった。
一歩、鏡の中の“それ”がこちらへとにじり出してくる。
もう逃げられない。
逃げようとすれば、背中に別の“気配”が立つ。
もうそこには、父も母も兄もいなかった。
赤黒く染まった畳と、静かすぎる空気が、何よりそれを雄弁に語っていた。
「——来ないでぇえええええっ!」
悲鳴を上げた少女の両眼は、血走り、鏡を見開いたまま動かなくなった。
静寂が戻る。
その鏡は、のちにこう記録されることになる。
——心中事件の唯一の生き残りである少女・鏡野雪乃は、
「家族は鏡の中の人に殺された」と証言した、と。