08
黒に塗りつぶされた動物たちは魔影と呼ばれるようになった。
光を一切通さず、何一つ反射せず、ひたすら真っ黒に染められたそれが迫りくる様は恐怖をあおった。
刃を持って切り裂けば手ごたえはあるが躯は残らず霧散する。
鋭い爪や牙を受ければそこは冷え切った黒い炎が燃え上がり激しい痛みで身を苛んだ。
果たして実体があるのかどうかすら判断が付かない。
騎士たちは少しずつ数を減らしていった。
「私が現れる前、魔影の討伐はどうしていたのです?」
旅を続ける程に増えていく気がする魔影を不思議に思って静音は剣士に尋ねた。
「森の奥とか魔沼の傍に近寄らないよう周知して、人里に姿を現し始めたら討伐に行ってある程度減らす」
静音は首をかしげた。
「傍に寄らないようにしていればある程度防げる?」
ガイキは少し考えるように顎をこすった。
「防げるが、いずれ数は増えていく。人里を侵食し始める前に数は減らさなければならない」
「では、今、近づくほどに尋常ではない数の魔影が出てくるのはどう解釈します?」
ガイキは答えずじっと静音を見た。
静音は次の目的地らしき岩だらけの山を見上げた。
「ほら来た」
ガイキは背中から剣を引き抜いた。
崖の上から狼を象った黒い影が次々と飛び降りてくる。
十や二十の数ではなかった。
そしてこのところの魔影は以前のようなある種の脆弱性はなくなりつつあった。
剣で切り裂いても霧散せず再生して見せるのだ。
それは文字通り影を切っているようなもので、騎士たちの徒労感は極まり士気は落ちつつあった。
攻撃が通じるのは魔法と魔法をまとわせた刃であり、それはすなわちアリオでありガイキであった。
騎士の中にも魔法が使える者は存在し魔剣の所持者も存在してはいたが。
静音は周囲にシールドを張り、ガイキの邪魔にならないよう少し後方へ移動した。
遠征前に宰相補佐からはっきりと「役目は浄化のみ。それ以外は専門家を用意する」と言われ、わけもわからぬまま放り出されたのだ。きちんとそれぞれの役目は果たしてもらう事にしている。
相変わらずアリオは遠慮なしに攻撃魔法を近場に放ってくるが。
おかげでまた髪を焦がした。
数十の魔影狼たちを殲滅した時、騎士の数はまた減っていた。
平然と息も切らさず立っているのはガイキとアリオのみ。
疲れ切った様子の騎士たちを鑑みて小隊長らと話し合い、その日は山に登る前に野営する事となった。
野営予定地は山の中腹と聞いていたのでだいぶ遅れているが仕方なしと判断したようだ。
静音は話し合いには加わっていないので経過も話し合われた内容も関知する所ではない。
それよりも川である。
夕飯をさっさと済ませ、一度テントに入って休んだことにして抜け出した。
ちなみにテントは最初、女性魔導士たちと一緒だったが、露骨に嫌がられてすったもんだが起きそうになり、早々に小隊長に願い出て補助用に用意されていたタープ(布に魔物素材の何かが塗られて防水加工されているらしい)で簡易テントを張り、そこで一人で寝る事にした。常にシールドを張っているおかげで暑さ寒さは問題ないし虫も寄ってこない。人目さえ避けられればいいのだ。
タープは手ごろな木があればそれを支柱にしたし、なければ魔法で止めた。旅に出て一ヶ月も経たないうちに隅でひっそり過ごす静音を気にする者は誰もいなくなっていたし、魔法のことを尋ねられれば「知らない間に出来るようになっていました」で押し通すつもりだ。従者も最初は手助けしようとしたようだったが静音がさっさと全てを整えてしまったため、物言いたげな顔をしつつも何も言わずにテント前に控えるようになった。
寝ずの番などもあるようだったがそれは騎士で順番に回されており、従者はそこへは加わっていないようだった。
どこのテントで寝ているのかも静音は知らないし、聞きもしなかった。
従者の名前はエイディスというらしい。最近知った。
いついかなる時も気配を消し、静音の傍にいる事が任務のようで、テントを抜け出した事もばれているだろうが気にしない事にしている。
忠告もしてこなければ、行動を制限したりもしないからだ。
恐らくは宰相か王に、報告は上げているのだろうが。
聴覚を魔力で補助する事が出来ると知った時、視力も底上げが可能と判明した。
遠くを見はるかす事も出来れば、暗視カメラ以上に夜目も利く。
誰もいないことを確認し、シールドを広げて結界とし、川岸の一部を囲った。
これで遠目に誰かが来ても景色の一部にしか見えないし、近づく事も無意識に避けるだろう。
着ている物を全て脱ぎ捨て、弱い炎をいくつか結界内の水面に投げ込んで飛び込んだ。
温めの湯が全身を包み込む。
思わずため息が漏れた。
結界で川岸の一部を囲う際、ぐっとシールドを押し広げつつ生き物は全てその外へ押し出し、川底は魔法で一時的に固めてある。
いくつかの炎は水の中を消えることもなくゆらゆらと揺蕩っている。
ひどく幻想的で、現実離れしていて、そして実際に現実離れしているのだと溜息をつきつつ思った。
見上げる月は一つだったが、傍らに一つ強すぎる光があり、動きから見て衛星かもしれないと思う。この星の潮汐作用は複雑なのではないかと想像する。そういう事は誰かに聞いても構わないのではないか。だが誰に聞けば良いのだろう。
つらつらと考え事をしながら無意識に目の前に魔力を集めて練る。
それはもう癖のようにしみついていて、最近では息をするのと変わらない。そうやって、制御能力は日々向上していく。
そして、集まってくる魔力の実態が、粒子に似ているのではないかと思うようになった。
練った魔力で形成された塊は懐いた猫のようにすり寄ってくる。
今思えば最初の渦巻きは魔力が戯れに遊びに誘っていたかのようだった。
思いつきで一部を切り離し、蛍のように飛ばしてみた。
ふわふわとオレンジの光を放ちながら空中を漂う。
指先を差し出すとちょんととまった。
振るとまた宙を漂い出す。
生き物ではないが、生き物のように動く。
「不思議ね……。この世界ではうかつなことも言えないし、話し相手にでもなってくれるといいのに」
静音は異界渡り後初めて警戒心なく言葉を発した。
「まあここは私の結界内だし、なにをしゃべっても人に聞かれる事もないし。愚痴でも悪口でも吐き捨ててしまおうかしらね」
とはいえ、独り言というのもそうそう続けられはしないものだ。
そのまま身体を滑らせ、水面下にもぐりこんだ。
髪の中、地肌まで湯を行き渡らせ、指を通した。
石鹸がなく、最初は困ったが、直ぐに浄化魔法を応用して全身洗い上げる魔法を作った。湯もタオルもいらず口腔内洗浄さえ済ませられるので、便利なものだと思ったが、この世界の人間がありがたがる「浄化」を風呂がわりに使うと知られたらどう思われるか。
「どう思われようと構わないけどもね」
ざばりと水面から顔を上げ、髪を後ろに流す。
そういえば、髪もだいぶ伸びた。
もともとセミロングだったが、風呂もろくに入れない道行を考えて、旅立つ前に「ばっさり切ってほしい」とアンナに頼んだが「とんでもない」と断られた。
この世界では女は髪を伸ばすものらしく、特に上流階級の女は長く手入れの行き届いた髪が富の象徴であるらしい。
「いやそんなことはどうでもいいので」と更にうったえたが、アンナは決して首を縦に振らなかった。
「シーニャ様は」(静音とは発音しづらいらしい。姓の世良の方で別に構わなかったのだが(実際アンナ以外は皆セラ呼びだ。それすらセリャになりがちだが)アンナは頑なに名を呼ぶ事に拘り、ついに原型が何かわからないシーニャにたどり着いた。露西亜語の変化に似ている気がする)
「特別な力をお持ちなのです。その神秘性を保つためにも、長く真っ直ぐな黒髪は有効です。どうぞそのまま伸ばしてください」
そう言われて渋々切らずに過ごしてきたが、長い旅路で髪の毛の手入れなどおざなりな上、アリオのせいで定期的に焦げる。
伸ばしても神秘性を保つどころかぼろぼろでみっともないだけだ。
通勤バッグの中に入れておいたヘアゴムのおかげで手早くまとめる事は出来ているが、あまり長くなると一部を引っ張られて頭痛がする。髪の毛は重いのだ。
思い立って、脱ぎ捨てた服の中を探ってナイフを取り出す。
旅支度の中にアンナが入れておいてくれたものだ。
貴族女性の旅支度にナイフがいるのかどうかは疑問だが。
おかげで色々と役に立っている。
魔力で風を呼び、まず髪を乾かす。
半分乾かした所で、両サイドに分けた髪を前へ持ってきて十センチほど切る。鋏が欲しい所だ。
次に完全に乾かすと、昼間アリオに焦がされた所をそぎ落としていく。
しみじみ手に取って見ると、昼間の攻撃だけではなく、過去何度かにわたって焦がされた所が傷んで千切れて無残な事になっていた。アンナが見たら間違いなく悲鳴を上げて怒り出すだろう。泣くかもしれない。
そう思ってふと考える。
もしかしてアリオのこれは嫌がらせなのか?
いや、嫌がらせなのは間違いない筈だが(殺さない程度に云々という例の会話からして)、わざわざ髪を焦がすという行為を狙ってやっているのだとすれば、なかなかのコントロールではある。そして、上流階級の女性に対してであればかなりのダメージだろう。アンナの様子からして。
静音にとっては大した事ではないが。
髪がまとまらないほど短く千切れるのは困るが、通勤バッグの中にはヘアゴムやヘアピンが何本か入っていた。仕事中邪魔にならないようにまとめたり留めたりするのに使っていた物だが、ばさばさのザンバラ状態になった所でこれらでさっとまとめてしまえば少なくとも「みっともない」事にはならないで済む。
ダメージを受けたと思っておいてくれる方が都合が良いのでこれらについては黙っておこう。
と、ここまで考えて、「ばさばさのザンバラ」状態でいても、自分としては全く困らないのでは、とはたと気づく。
別段見映えよくしておく必要はないのだ。
誰かに好かれようなどとは思ってもいないのだから。
「う~ん」
目の前に魔力で水鏡を作りだし、出来上がりを調整しながら考える。
他者に良い印象をあたえる必要はない。
が、自分がうっとうしいのは避けたい。
「まあ、どうでもいいか」
川の水でじゃぶじゃぶとナイフを洗い、魔力風で乾かして鞘に納める。
もう一度ざぶんと水に潜り込み、切った髪の毛を洗い落とす。
ふわふわと漂う疑似蛍は水面の小さな波の上を飛び跳ねる。
「遊んでいるの?本当に生きてるみたいね」
一度胸まで水から出て、ちゃぷんと肩まで浸かると少し大きな波が立った。
疑似蛍は空気の流れに沿うようにふわりと浮き上がった。
戯れに静音は息を吹きかけてみた。
更に疑似蛍はふわふわと浮かび上がり、見上げた月に重なった、と思うと、結界の外へ漂い出した。
「あ……」
どうしよう、と思ったが、静音が操る魔力は誰一人として感知できないのだ。
別段何か困ったことになるわけでもなし。
光の飛んでいく先を見送る。
目を閉じると、その軌跡が目の裏に残って、無意識にそのまま追いかけた。
疑似蛍に視覚が乗って上から己を見下ろす。
「幽体離脱みたい……」
なかなか面白い。
方向を転じて周囲を見回す。
月は輝き、水面は白く揺れ、不思議な光景だった。
人里離れた山のふもとで、野営地からも離れている。
本来なら真っ暗なはずだが、月は全てを白々と映しだし、その眩さを誇っているようでもあった。
このまま疑似蛍を高く高く飛ばせばどこまで行けるのだろう。
そう思った。
月にまで飛ばせるだろうか。
この世界が元の世界と同じ法則で成り立っているのであれば、大地は球体なのか?
宇宙に浮かぶ天体であるのならば、宇宙空間を魔力は渡れるのだろうか。
高く、高く、月に向かって高く。
空気は薄くなり冷えていったが、疑似蛍とのつながりは切れる気配がなかった。
どこまでいけるものかとどんどん距離を伸ばしていくうち、自分自身の姿は砂粒以下になり、川も森も山も眼下に見下ろし、やがて丸い縁取りが現れた。
真っ黒い空間。
ただし、向こう側には膨大な熱と光をはらんだエネルギーがある。
太陽だ。
そして反対側には月。
ああ、このまま行けそうだ、と思った。
思ったが何かが引きとめてきた。
思わず舌打ちしそうになり、そしてぱっと意識が切り替わった。
はっと息をのむと、川べりに作った簡易風呂に浸かっている自分に戻ってきた。
少し、息が切れていた。
意識せず無理をしてしまったらしい。
魔力制御を続けているうち、徐々に扱える総量が増えている事には気が付いていた。
どうやら使えば使うほど成長していくものらしい。
城で受けた座学によれば「魔力量は生涯変わらない」という事だったが。
それゆえ、魔導士は魔導士と婚姻を結び、魔力量が多い者は市井に生まれようと見つかり次第取り込まれるらしい。
ある程度は遺伝するらしく。
しかし、魔力を「外から得る」場合は、体内の魔力量の多寡は関係が無い。
つまり静音の魔法は上限も制限も未知数なのである。
もともとの魔力量なども、あるのかないのか判らない。意識したこともない。
これが「渡り人」の特性であるのなら、それはまあ、召喚する意味もあるのだろうとは思う。
呼ばれる方にしてみれば理不尽極まりない事ではあるが。
とはいえ、このまま魔力修行を続けていけば、意識だけでも宇宙遊泳どころか月や他の惑星へ行くことも叶うかもしれないと思うと、多少は気分が上がった。
そういう楽しみでもなければやっていられない。
見上げると、宇宙にまで飛び出した疑似蛍がふわふわと戻ってきていた。
まだ結界の上にある。川向こうの高い木の天辺に導いて留めた。
そこからこちら側を見てみる。
結界は自分自身には利かないので、裸で川に浸かっているいい年をした女が丸見えだった。
羞恥心がこみあげてきたが、風呂に入れないよりはマシである。
ふと、木立ちの向こう側に視線を向けると、いつの間にか従者が立っていた。
やはりテントを抜け出した事には気が付いていたらしい。
彼には結界の中が見えているのだろうか。
『意識しない限り』は見えない筈だが、最初から行動を監視していたのであれば、そこにいることは当然判っている。
夜とはいえ、月明りで全ての輪郭は明瞭に浮かび上がっている。水の中に小さな炎も投げ込まれている。
間違いなく見えているだろう。
自分で自分を見た時とは違い、羞恥心等かけらも湧いてこなかった。
水から上がり、魔力風で全身を乾かし、洗浄魔法で手早く衣服を綺麗にして身に着けた。
洗浄魔法を作りだしてからは、元の世界から着てきていた下着を毎日つけていたが、流石に一部くたびれかけている。
この世界の下着も工夫次第では心地よく着られるのだが、ブラジャーだけはどうにもならず、大した胸でもないのだがなければないで困る。
そのうち魔法でなんとかしようと明後日の方向へ考えを向けながら、水の中の炎を消し、結界を解いた。
夜風は少し肌寒く、季節は秋かと思う。
この国は北半球に位置し、緯度も高めだ。それが先ほどの疑似『幽体離脱』で判明した。日本で言えば北海道くらいの気候か。
温い湯とは言え、少し浸かりすぎていたので、熱が冷めるまでは夜風を浴びているのも悪くないと思っていたが、こんなところで風邪を引いても誰も静音の体調に頓着してくれないのは判り切っている。
魔力を手繰り寄せてシールドを張った。
無意識にほっと息が漏れる。
周囲は全て敵とみなしておいた方が安全だと己に言い聞かせていたにもかかわらず、こういう所で甘さが出る。
日本人にはこの手の危機感の持続は難しい。
シールドを張りなおしたのは、従者に近づいてもいたからだ。
隙を見せる必要もない。
従者は木の陰に入ってはいたが、姿を隠す気はなさそうだった。
何故なら気配が消えていなかったからだ。
静音が気が付いている事も承知しているようだった。
特段こちらが気にする事もなかろうと、黙って傍らを通り過ぎようとした。
「無防備が過ぎませんか」
珍しく声をかけてきた。
静音は立ち止まった。
「そう?」
「夜は魔物だけでなく普通の獣も徘徊しています。夜盗がいる可能性だってある」
「そう。それは済みませんでした」
確かに護衛にしてみれば迷惑な行動だったかもしれない。
静音は形だけ謝ってテントに戻ろうとした。
結界やシールドの存在をわざわざ知らせる事もない。
「セラ」
静音は少し驚いて振り返った。
この従者に名前を呼ばれることがあるとは思わなかったからだ。
「あなたはいつまでそうやっているおつもりか」
静音は首をかしげた。
「そうやって誰とも親しくせず、味方も作らず、常に周囲を警戒して辛くはないのですか」
心配してくれているようにも思えるが、珍しい事もあるものだ。
静音は思わず笑みを浮かべた。
従者ははっとして息をのんだ。
「済みません。差し出がましい事を申しました」
「そうですね。あなたらしくないですよ」
静音は口角を上げたまま言った。
「あなたは最初に、自分を空気か影のようなものだと思えとおっしゃいました。ですのでそのようにしています。空気や影は行動を制限したりはしませんよ。認識を改めるべきですか?」
「いえ」
男は頭を下げた。
「まあ私も「護衛がいる」事を少しは考えて行動するようにしますよ。死んでしまってはお困りでしょうし。ただ息が詰まりそうになる事もあります。人間ですからね」
この現状を、どうにもできないのであれば。
「誰を信用していいのかも判りませんし」
そう言って、それきり振り返らずテントへと戻った。