05
遠征最初の魔の沼は森の中だった。
近づくにつれ瘴気が漂い皆が息苦しそうにマスクを装着する。
布で瘴気をよけられるのかと思ったが、あの役に立たない聖水を含ませておくと多少は緩和されるらしい。
とはいえ、苦しかろうと、試しに魔力を寄せ集めて薄い霧状にし、それに浄化をまとわせて空間を満たしてみた。
自分の周囲十メートル程の範囲ではあるが。
まあ充分だろうと思う。
騎士の大半は王子の馬車を守るために後方にいる。
沼に近づくのは静音とガイキとアリオと従者、騎士数名だ。
すっと呼吸が楽になった事に気が付いて皆が静音を見る。
静音は黙って剣の柄に手をかけて沼を見つめている。
奥からは真っ黒に塗りつぶされた動物の形をした何かが躍り出てくる。
それらは引かれるように静音の元へと駆け寄って来るが浄化の霧に触れるとじゅっと音を立てて蒸発するように消えていく。
なので浄化結界の中に入ったまま進めば安全であるはずなのだが。
どういうわけか騎士は剣を振り上げてそれらを切り伏せにいくし、アリオは火の玉で攻撃する。
騎士はともかく、攻撃魔法は静音に近づいてくる魔物へ向かって放たれるので気を付けていないと巻き添えを食う。
「やめてくれませんか、私まで怪我します」
アリオへ向かって言うと、
「済みません。あなたの結界は私には見えないのです」と飄々として答える。
「だから攻撃しなくて良いと言っています」
「ですが私はあなたを守るよう仰せつかっておりますので」
「攻撃してほしい時はそう言います」
「わかりました」
無表情なのでそれが不本意なのか本当に納得しているのかよく判らない。
結界は前方へ少し伸ばした。
これで静音に近づく前に魔物は消滅する。
ガイキはやや後方で黙っていたが、彼だって静音の傍にいれば攻撃魔法の余波を食らう可能性もあるだろうに。
「文句はないんですか?」
尋ねてみたが苦笑して首を振った。
「俺にも結界の境目は見えない」
「でもあなたはやたらな攻撃はしませんよね」
「まあそれは……」
言い淀んで魔物に突っ込んでいく騎士たちを見やる。
「別に必要ないからな」
「必要って?」
ガイキは肩をすくめて答えなかった。
魔物の討伐数とか武勲とかそういう話なのだろうと想像した。馬鹿らしい。
「ま、王子殿下も見ている。大目に見てやれ」
それではアリオもそうなのかと振り返るが相変わらず無表情だった。
宮仕えの苦労とは無縁そうに見えたが。
気を取り直して沼を見る。
黒い水が尽きることなく湧き出している。
沼からは瘴気が湧きたち、どろりとした水からは黒く塗りつぶされた魔物たちが次々と這い出してはこちらへ襲い掛かってくる。
近づいて、浄化結界を伸ばしてみる。
沼の水に触れると蒸気を上げながら消滅と生成の間をせめぎ合うように激しく音を立てて揺れた。
どの程度の魔力を持ってきて浄化魔法に変性させれば良いかは予想が付いた。
予想はついたが、どうしたものかと思う。
簡単に済ませてしまっていらぬ問題を引き起こしたくない。
何がどう転ぶか全く想像がつかないのだ。
そもそも静音を元の世界へ帰せるというのも眉唾物だ。
全て終わって「さあ帰せ」と言った途端、殺されておしまい、という可能性は高い。
身の処し方を決めるまでは現状を維持しておきたい。
考えつつ必要量の八分の力で沼を包み込んだ。
当然一部は結界を破って襲い掛かってくる。
薄く身体にシールドを張りつつ、わざとそれを受けるつもりだった。
そこへアリオの炎弾が飛んできた。
黒い炎は浴びずに済んだが、魔法の炎は髪を焦がして頬をうっすらと焼いた。
浄化は無事済んだ。
何故かほぼ女性ばかりの治癒と回復専門の魔導士たちは怪我をした騎士たちを治療して回り、最後に静音の所へやってきた。
焦げた髪と火傷した頬をちらりと見るとすっと一本指で空気を撫でておしまい。
淡い光が頬に触れたが大して力を込めたようにも見えず「他の方の治療で魔力が足りないのです」と言ってさっさと戻って行った。
仕方ないので誰も見ていないのを確認して自分で傷を治しておいた。うっすらと赤味が残る程度に。
「大丈夫か?」
声をかけてきたのはガイキだけだった。頬を押さえたままうなずく。
「ええ、大したことはありません」
他に答えようがなかった。