八月六日ハルキウ上空の戦い
時系列で言うと本編に組み込むべきですが、敢えてこっちに投下します。
第七次ハルキウの戦いでは、ハルキウ上空の制空権を巡り、日宇・露間で盛大な航空戦が行われたことは既に述べたが、改めて詳細を綴ることにする。
JTF-ウクライナ司令部は、ウクライナ東部作戦コマンドの包囲撃滅を狙うロシア野戦軍に対し、ハルキウ近郊に於いて決戦を挑む方針を固め、臨時第一機甲軍を編成しハルキウ目前まで進出させた。
これに対し、ロシア野戦軍も臨時第一機甲軍集団を編成し、野戦砲の射程限界まで進出した。
ここで双方が対地攻撃を企図して攻撃機(爆撃機)とその護衛を発進させ、その邀撃に迎撃機を緊急発進させ、その迎撃機を制するために増援を寄越し……という具合に、ハルキウ上空の制空権獲得競争はエスカレートした。
「制空権を得た者が概ね地上戦をも制する」という多数を占める戦訓に両者は従っており、両者は制空権の優勢を獲得するという原理原則を譲らなかった。
その衝突が最高潮に達したのが、八月六日(現地時間)払暁のことだった。
JTF-ウクライナ司令部は、ハルキウを中心として以南に描かれた半径三〇〇キロの巨大な半円を、「光一号B7R戦域」なる呼称に定め、この範囲の航空優勢獲得を至上命題に掲げ、夜明けから総力を挙げて航空撃滅戦を仕掛けた。
どう考えても日本製ゲームに肖って名付けられたそれに、日本人・ウクライナ人・話の通じるヨーロッパ人のパイロットの士気は有頂天に達したという。
これに対し、図らずも同類の目標を持っていたロシア軍側も、呼応する形で多数の戦闘機を発進させ、ここに湾岸戦争以来の現代的空軍同士による大規模航空戦が生起することになった。
双方合わせて延べ五〇〇機余り(※ここでは制空戦闘に臨んだ機材のみを数える)に及んだこの航空戦は、ステルス機と無人機に席巻される直前の、有人戦闘機同士の戦いの粋を極めたものとなり、そして機材・機数・練度の複合的な要因により、双方に甚大な被害を出して終了した。
どれぐらい甚大な被害だったかと言うと、翌日以降、陸上戦力に対し、双方共に碌な航空支援の傘をかけられない程に消耗し尽くした、という表現になる。
或いは、JTF-ウクライナ司令部に詰めていた日本人参謀の、
「これで来年度の予算はゼロだな。来年度があれば、だが」
という、後々の戦争展開を思えば、最早予言としか思えないような発言に象徴されているだろう。
話を光一号B7R戦域での戦闘に戻すと、この戦闘では日宇・露の双方に、エースパイロット(五機以上撃墜)が複数誕生した。
「リボン」「ブライ」「仔牛」「碧の十四番」などの二つ名を贈られた彼らエースパイロットの中でも、際立って異彩を放つのは、「キーウの幽霊」「ハルキウの鬼神」の二者である。
この二者については、現在に至るまでその本名・軍歴等の一切が国家機密のヴェールに包まれ、一部には実在を疑問視する声さえあるものの、この八月六日の航空戦に従軍したパイロットの多くが証言している、曰く付きの存在である。
「キーウの幽霊」はウクライナ空軍のトップガンで、第三次世界大戦初頭のキーウ上空での戦いで初戦を飾った。開戦劈頭、キーウに攻撃を仕掛けたロシア空軍機で撃墜されたものの多くが、「キーウの幽霊」によるものだと言われている。
光一号B7R戦域での戦いの頃には、ウクライナ空軍機は消耗し尽くしており、殆どが飛行隊の体を成しておらず、多分に漏れず「キーウの幽霊」も光一号B7R戦域には単機で挑んだというのが、戦史家の通説である。
対する「ハルキウの鬼神」は、ロシア空軍の最多撃墜記録保持者(最多被撃墜記録保持者を兼任)である。
彼(或いは彼女)もまた、開戦当初からの熾烈な戦いを生き残ってきた猛者であり、開戦以来良い所無く、また戦後これでもかと親の仇として叩かれ解体されたロシア軍の、最後にして唯一の栄光だったとも言える。
光一号B7R戦域での戦いで、両者は夕暮れ頃に会敵し、両者は早々にミサイルを撃ち尽くすと、機銃一本で互いを狙い合い、また有人有視界戦闘の究極に到達していたその機動は、周囲に乱舞していた余人の介入を許さなかったと、現代に伝わっている。
一種神格化されたとさえ言えるその戦いの決着は、両者相討って終わったとも、何れかに軍配が上がったとも言われているが、真相は依然として闇の中にある。