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政治と結婚

※このお話はフィクションです。

 新憲法草案は合意に至り、約二年後の西暦二〇二四年九月二日に新国家が発足することが正式決定された。

 一旦「ウクライナ」の地方政府という形を取りつつ、日本、ウクライナ、ロシアの政府は統合へ向け、二〇二四年新国家建設委員会を立ち上げ、その最初の仕事として、新国家の国号を全地域(ロシアを含む)から募り、その中から多数派の候補を採り上げ、採決することを決定した。

 候補としては「未来」「希望」「幸福」「光」を意味する言葉が圧倒的に多かったのだが、中には「第二ソビエト社会主義共和国連邦」なる回帰的でそもそも立憲君主制を否定するようなものもあった。

 最終的には最早見做し皇帝となっているチカコ殿下の、

「これ! これが良いです!」

 という特別な思し召しがあって、「Мрія()(ムリーヤ)」という言葉が選ばれ、両国議会で承認された。

 戦争で無惨に破壊された、完動品は世界に一機しかなかった超巨大輸送機アントノーウAn-225の愛称であるそれが選ばれたことに、ウクライナ側の人間は皆、目頭が熱くなるのを感じたという。

 余談ながら、後にアントノーウAn-225は、残骸と設計図と未完成のまま放置されていた二号機をリバース・エンジニアリングした上で、三年の歳月をかけて再生の上、量産されることになった。二〇四四年現在も大物航空機輸送シェアの大半を占めるそれら「ムリーヤ艦隊(フリート)」は、ムリーヤ国の平和の象徴として、元気に世界中を飛び回っている。

 さて、大まかに国の形が固まったところで、別の問題が生じた。見做し皇帝であるチカコ殿下の結婚問題である。

 新国家の憲法草案では、初代皇帝チカコ一世陛下の皇統(子孫)から国民の信任投票を得ること、という規定が設けられていたが、そもそもチカコ殿下は妙齢で未婚の女性であり、元々婚約者が居るというわけでもなかった。

 ここで下手に日本人から婿を迎えると、日本人に贔屓し過ぎとなり、それはウクライナ人にも同様のことが言えてしまい、かと言ってロシア人――例えばかつてロシア革命でロシアを追われた帝室――などから迎えればヨーロッパの青い血の人々が騒ぎ出しかねないし、ヨーロッパの青い血の人々を迎え入れれば、それはそれで変に皇位継承問題を勃発させられる恐れがあった。

 そこで恐る恐る、日本の宮内庁関係者が探りを入れたところ、本人はあっさりと、

「それなら、私はこの方と結婚します!」

 と、ロシア最後通牒の場に供回りとして付き従い、その後もチカコ殿下の傍に侍っていた、純朴そうなロシア人青年に抱き着いたので、主に日本側で大混乱が生じることになった。

 中には保守系某国会議員の、

「唐人を天帝の直系皇女の伴侶に迎え入れるとは怪しからん」

「敗戦国ロシアの人間が皇室に入るのはロシアの復権につながりかねない」

 という意見もあったが、完全に人種差別であるそれは、周囲の議員はおろか有権者である国民からも袋叩きに遭い、議員辞職勧告まで出されて政治生命を断たれるという事件も発生した。

 最終的には今上天帝が当の二人と会見し、

「稀に見る、誠実で、新国家の皇帝という立場に臨むチカコの支えとなる立派な考えを持ち、またこれからの人生を守り通してくれると確信させてくれる、気持ちの良い青年でした」

 と述べて結婚を支持したことで、反対論者の声は立ち消えた。

 そんな具合で結婚問題が片付き、御成婚の日取りについても「何度も祝賀行事を催すのはスケジュール調整も費用負担も大変ですから、建国・即位宣言の日と一緒にしてしまいましょう」という、チカコ殿下の意見が通った。

 しかし、斯様にスムーズに全ての話が進んだわけではなかった。

 例えば国内や近隣では、そもそもの紛争の発端となったドネツク、ルハンシクの両人民共和国には元ロシアの傀儡政権が宙に浮いたまま細々と生き残っていたし、ベラルーシではリュカチュンコ政権が倒れた後、旧政権側と静かな内戦が始まっていたし、旧ロシアではチェチェン共和国や北朝鮮が蠢動するなど、争いの芽はまだまだ残っていた。

 他に国際関係で言えば、国際連合から日本国は自発的に退場していたし、ロシアは国家が消滅したのでこれも退場。ウクライナの席は残ってはいたものの、国際連合安全保障理事会が機能不全に陥り、平和のための結集をしてもなおロシアの侵攻は止まらなかったことから、国際連合の存在意義そのものに疑問符付きの評価をしている状態だった。更には第三次世界大戦最末期の核戦争危機に際し、在日米軍による日本国武力占領未遂事件が起き、日米安全保障条約の破棄と在日米軍追放が行われたことから、日米関係は、

「あんなに一緒だったのに」

 と言われるほど敵対的な関係に陥っており、これらの関係性を改善ないしは正常化する必要があった。

 二〇二四年新国家建設委員会は、一先ず国内の治安維持と復員先の準備のため、第三次世界大戦で動員した兵士の動員は解除しないものとした。その上で、速やかにIAEA(国際原子力機関)を受け入れて核弾頭の拡散と諸外国の不安を防ぎつつ、新国家に加入を望まず分離独立を求める地域については、そのまま分離独立を認めることにした。

 但し、「最終的かつ永久的で完全な国境確定条約」を結ぶことが条件で、しかも条件闘争として戦闘を選んだ場合は、テロリストとして容赦なく殲滅するという宣言(脅し)付きだったが。

 結果として、ドネツク、ルハンシクの両人民共和国は「蜂起したこと自体は自決権の行使として罪に問わない(蜂起後の戦争行為については個々に妥当性を裁判で争わないとは言ってない)」ことを条件に新国家の一部(州)となって吸収されることを選び、逆にチェチェン共和国は分離独立の道を選んだ。また序のように、旧ロシアとジョージアとの間に生じていた領土問題(南オセチア紛争)もジョージアへ譲る形で決着を付け、国交正常化への道が開かれた。

 国際連合については、ウクライナの国号変更という形で加盟状態を作り出すことで承認が得られ、また国際連合総会に於いて賛成多数でロシアと入れ替わる形で常任理事国入りが認められた。核戦争の危機を招いた連中ということで、それなりに反対意見も多かったが、これだけの大国(しかも核兵器の全廃を予定してはいるが、現時点では世界第一位の保有国)を国際連合に加盟させないままにしておいた方が危ない、というのが大勢だった。但し、国際連合安全保障理事会の常任理事国に拒否権なる特権を与えていたのが、そもそも第三次世界大戦を招いたのではないかという国際社会の意見もあり、国際連合は常任理事国から拒否権や敵国条項を削除した。

 交渉が長引いたのはアメリカで、核戦争の危機から一度心労で倒れたジョン・バッテン大統領は、新国家との関係性についても非常に厳しい態度で臨んだ。日本側からだとまともに取り合ってくれないので、ウクライナを前面に推し出しての交渉で、やっと「新国家はアメリカの武力占領未遂の責を問わない」「アメリカは核戦争の危機の責を新国家に問わない」「新国家は核兵器全廃の履行確認のため、IAEAと共にアメリカの文民による査察を受け入れる」「新国家は戦災復興のため、アメリカから一〇〇億ドル相当の民需品生産設備を購入する」などの条件で国交正常化の合意に至ったが、非公式にアメリカ側から「今後貴国にステルス戦闘機やイージスシステム、ミサイル防衛システムは売却しない」とのメッセージが伝えられ、自衛隊は「誠に遺憾ながら致し方ない」とこれまた非公式に伝えたと言われる。

 ともあれ、そのような調子で新国家「ムリーヤ」は一歩一歩、建国宣言のその日へと向かっていったのである。

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