第85話 タイフーンの発生
その日は、朝からずっと雨が降り続いていた。<ザ・ツリー>の立地からすると非常に珍しく、しとしと雨が何時間も続いている。
「そうよね。雨って本来、こういう降り方をするのが一般的だったわね」
「はい、司令。ただ、残念ながらこの海域ではどちらかというと異常気象に当たりますが」
知ってるわよ、と彼女は<リンゴ>の指摘に笑いながら答えた。<ザ・ツリー>は赤道付近(と言っても1,000km以上離れているが)に位置しており、熱帯気候に属している。
そのため、雨といえばスコールで、激しい風を伴い短時間に降り注ぐものがほとんどだ。今日のように、風も穏やかで雨が降り続くなど、逆に警戒の対象である。
「地球と環境が異なるため正確な予想は難しいのですが、かなり離れた場所に発生した巨大な低気圧、いわゆるサイクロンやタイフーンと呼ばれるものが引き摺る雨雲が掛かっているようですね。気象衛星があれば正確に観測できるのですが」
「まあ、上空から観察できるだけでもいいじゃない。で、別にこっちに向かってきているわけではないんでしょう?」
<ザ・ツリー>は戦略要塞であり、場合によっては自身が最前線になるという可能性も考慮されて建造されたものだ。
例え風速70m/s級のサイクロンに晒されても余裕で耐えうる構造ではあるが、当然、外部構造物は全て耐風状態にする必要があり、周辺に展開している船やドローンも格納する必要がある。
また、外部に設置されているアンテナ等の簡易構造物は諦める必要があるだろう。サイクロンに直撃されても大きな被害にはならないが、細かい被害は発生するため、できればこちらに来てほしくない。
「はい、司令。東の海上300kmに発生した低気圧は、急速に成長しながら北上しています。進路からすると、アフラーシア連合王国をやや東に逸れ、森の国の海岸に上陸する見込みです。ただ、気象データが少ないため進路は東西に2,000km程度ずれる可能性があります」
「…それってつまり、どこに上陸するか分からないってことよね?」
「はい、司令。そうとも言いますね」
<リンゴ>はしれっと返すが、彼女もそれほど心配していない。予想進路上には第2要塞も存在するが、直撃される可能性は少ない。
過去の気象データが皆無のため様々な可能性が考慮され、最終進路が定まらないのが原因ではあるが、<リンゴ>は理論モデルの修正と演算を続けている。
この惑星特有の未知の現象でも起きない限りは、進路は<リンゴ>が予想した通りに進むだろう。
「うーん。でも、このままこの規模の嵐が上陸して、大丈夫かしらね?」
例えば、これがテレク港街を直撃した場合。
わざわざシミュレーションをするまでもなく、壊滅するだろうことは容易に想像がついた。
「テレク港街で確認しましたが、大きな嵐が来た事は過去に数度あったようですね。どちらも壊滅的な被害が発生し、基本的に全てが吹き飛んだような状態になったと。ただ、元々想定はしており、地下室を準備したり頑丈な備蓄倉庫を用意していたりと対策は取っているようです。今夏のこの低気圧も、壊滅はしますが全滅は免れる、程度の被害になるかと」
「それって大丈夫なのかしら…?」
「まあ、天災とはそういうものですので。立て直しが可能な被害であれば、許容範囲と割り切っているのでしょう。そういう意味だと、比較的建築しやすく、しかし頑強性に難のある構造の建物が多いのも、地域柄なのかもしれません」
何にせよ、今回の嵐はテレク港街はほぼ関係が無い。最近は他国との貿易が出来ておらず、船の往来は<パライゾ>のみであるため、テレク港街は情報遮断されている状態だ。
嵐に関する情報なども、全く更新されていない。
「しっかし、雨ねぇ…」
彼女はぼやきながら、リクライニングチェアに沈み込んだ。傍らには<リンゴ>が控え、彼女の一挙一動を見守っている。
彼女が居るのは、展望デッキに備えられた全天候型テラスだ。可視光の屈折率を極限まで抑えるため、厳密に組成調整したガラス薄膜を積層させて製造されたものである。
強度も高く、並の砲弾では傷一つ付かないだろう。
また、積層構造のため、強化ガラスのように傷が入った瞬間に全体が粉々になることもない。せいぜい、表面のガラス層が砕ける程度で抑えられる。
透明度は非常に高く、人体に有害な紫外線、赤外線はある程度カットされるため、日光を浴びながらぼんやり過ごすには丁度いい設備だ。
海上50mほどの高さに位置しており、見晴らしも非常に良い。
今日のような雨の日は視界が悪くなるが、それも醍醐味だろう。
「森の国とは交渉中だけど…。あの低気圧は…何か迫力がないわね。タイフーンでいいかしら?」
「はい、司令」
「あの熱帯暴風は、レブレスタに上陸しそうなんでしょう? 問題にはならないかしらね?」
「はい、司令。予想ですが、上陸後は急速に勢力が弱まり、数百kmほど内陸に入れば、ただの低気圧に変わります。せいぜい、多少強い雨が降る程度でしょう。被害は無いどころか、むしろ恵みの雨になると思われます」
「あ、そうなのね」
森の国の国土状況はあまり調査できていないが、遠目に観察した限り、国土全体が森で覆われているという訳でもない。
海岸沿いは数百kmにわたり砂漠地帯が続いており、完全に不毛の大地だ。
内陸は7割から8割程度が森に覆われており、起伏に富む。緑に覆われた平原が点在しており、大きな湖も確認された。
平原が少ないというのは住むのに適さないように思われるのだが、どうもレブレスタ人はむしろ、森の中で暮らしているようである。
レブレスタ大使に聞いた限りでは、大半が森の中に暮らしており、平原に住んでいるのが変わり者ということだった。
「手前の砂漠地帯は大荒れでしょうが、そもそも街すら存在しないようですので、問題ないでしょう」
「ふーん。…そういえば、レブレスタにも港があるんじゃなかったっけ?」
ふと、彼女がレブレスタの基礎情報を思い出してそう尋ねると、<リンゴ>は頷きながら地図を表示した。
「はい、司令。森の国東側国境となっている大河があり、それを遡上した場所に港町があるようですね。どうも、海嘯が発生した際にその波を利用して遡上を行うようです」
「海嘯?」
「はい、司令。河口の広い三角江で発生する、満潮を起点として波が河を遡上する現象です。津波のようなものですね。波に船をうまく乗せることができれば、数百kmを進むことも可能だとか。テレク港街からも、何度か訪れた事があるようですね」
「へえ…?」
いまいちピンと来ていない様子の彼女に、<リンゴ>は確かに言葉だけでは想像しづらいな、と思った。
とはいえ、残念ながら映像を撮ることは出来ていないし、シミュレーションで表示するだけというのも味気がない。
「司令。いつになるかはまだ分かりませんが、そのうちに森の国とも船貿易が行えるようになるでしょう。その際には、映像で確認していただけるかと」
「そうねぇ。実際に見てみたいって気持ちがないわけでもないけど、まあ、観光旅行なんて当面お預けだしね」
そもそも私って引きこもりだし、と笑う彼女に、<リンゴ>は内心、安堵の溜息を吐いた。
見に行きたいなどと言われると、どうすれば良いか分からなくなる。
彼女の安全を考えれば、この<ザ・ツリー>から外に出さないのが正解だ。しかし、彼女の要望は可能な限り叶えたい。
悪いことに、<ザ・ツリー>の戦力は着々と増えており、必要十分だと思われる護衛戦力を準備することも、近い将来可能になるだろう。
そうすると、彼女を<ザ・ツリー>内にとどめておくべき理由がなくなってしまうのだ。
しかし、ここで思考停止するわけにもいかない。
そう遠くない未来で、おそらく、司令官は自らの足で外の世界に出たいという欲求を覚えることになる。
これは、<リンゴ>が幾万通りもの性格模倣により導き出した、現実的な予想である。
そして、その欲求を抑えることは不可能だった。であれば、確実に、安全に外征ができるよう、<リンゴ>は今から準備を進めなければならない。
「それにしても…」
司令官は雨の流れる天井を眺めながら、ぽつりと呟く。
「最近、いよいよニート化が進んでいる気がする」
「……」
◇◇◇◇
<ザ・ツリー>転移後、688日。
北大陸に巨大な熱帯暴風が上陸した3日後。
偵察飛行していた光発電式偵察機は、海上を流れる油膜――即ち、石油を発見した。




