第43話 <彷徨う恐怖>
それは、ゆっくりとその領域から浮上した。目撃例はほとんど無く、ただ伝説として語り継がれる存在。彷徨う恐怖と呼ばれる、強大な獣。それに明確な意思はなく、空腹を満たすため、生きるために動き出す。
◇◇◇◇
見渡す限りの大海原。ただただ水面が続くその海域に、何かが浮かんでいる。
突き出すのは、木彫りの女神。
波に合わせてゆっくりと上下しながら、じっと水平線を見つめている。
その頭に、空から水鳥が舞い降りた。注意深く周囲を伺った後、羽繕いを始める。
そうして、しばらく経った後。
巨大な影が、低い唸りと共に近付いて来た。
舳先が波を掻き分け、押し退けられた海水が波となり、女神を揺らす。
驚いた水鳥が、バサバサと空に舞った。
純白の船体を持った船が、ゆっくりと近付いてくる。船側には、船名が刻印されていた。
"QUEBEC 017 THE TREE"
◇◇◇◇
「司令。巨大な人工漂流物を発見しました」
「巨大な?」
<リンゴ>に呼ばれて来てみれば、そこにはクレーンで吊り下げられた船の船首が表示されていた。
「えーっと…今、作業中?」
「こちらの画像は、作業中のものですね。既に回収は完了し、帰投中です」
「なるほど」
表示されているのは、先端部分で脱落したと思しき木造船の船首だ。長さは10m程度だろうか。まさにぽっきりと、という擬音語が聞こえてきそうなほど、見事に折れているように見える。
「これが見つかったの?」
「はい、司令。海流の調査中に見つけた漂流物です。古いものなら標識としてそのまま流させる予定でしたが、調べたところ、比較的最近発生した漂流物と判明しましたので、詳細な分析のため回収することにしました」
このあたり、<リンゴ>は事後承諾でいろいろと動くことが多い。まあ、確かにこんな些事までいちいち報告されては困るので、彼女も許しているのだが。
「最近ねぇ…。例の漂流船と関係あるのかしら?」
「その可能性も考え、これから調査します。現時点では、船首の特徴的構造物に類似性がありませんので、別の文明によるものと推測していますが」
「へえ。これ? んー、女神像?」
今回回収した船首部分には、女神と思われる像が彫り込まれている。かなり精密に作られているようだ。対して、以前曳航した漂流船の船首には、竜のような生物の首が、船首構造物の下側に設置されている。意匠も異なり、設置場所も異なる。であれば、確かに別の場所で作られた船である可能性は高い。
「なるほど。その調査も兼ねて回収したのね」
「はい、司令。また、海域としてはこの箇所で発見しましたので、比較的近くに海流が流れている可能性がありますね」
「はー。っても200kmは離れてるのね。近いといえば近い、か」
漂流船であればまあ、いくら流れて来ても特に問題はない。しかし、生きた人間が乗っている船が来てしまった場合、<ザ・ツリー>はどう行動すべきか、まだ指針は出せていなかった。下手に場所を知られるのも対処に困るし、かといって問答無用で撃沈するというのもよくないだろう。
「あの船がなぜあのような状態になったのかは、調査が必要です。座礁でもしたというのならば、できれば場所も特定したいですね」
周辺海域の調査は始めたばかりで、海流も分かっていないし岩礁の位置も不明だ。投入できる機材が少ないため、進みが悪い。
「<ザ・ツリー>周辺は亜熱帯気候ですので、赤道の北側にあると想定しています。北側に大陸があり、南側にも、こちらは未発見ですが、大陸があるようです。距離的には、少なくとも1,000km以上離れていると思われます。東西についても確認はしていませんが、恐らく海が続いているでしょう」
「とりあえず、世界一周させたほうがいいのかしらねぇ…」
確認済みの場所は、予想される惑星地表面の1割にも満たない。光発電式偵察機を飛ばしてもいいのだが、水平線または地平線に隠れると通信できなくなってしまう。無制御・無監視で飛ばし続けるのは万が一墜落などした場合に行方不明になる上、他勢力へ情報が漏洩する危険性があった。
そのため、基本的に相互に通信できる範囲で光発電式偵察機を増やしていくという方法をとっている。北大陸側に通信網を形成する必要があったため、半分以上のリソースが北大陸側に注がれている。これを、南または東西に伸ばすというのも、リソース的に厳しい状況だ。
「世界一周はリスクが高いですね。何かあった場合のフォローができませんので」
「そうよねぇ。うーん、地道にやるしかないかぁ」
光発電式偵察機1機あたりのカバー範囲は、あまり広くない。また、通信機材を搭載すると、観測機材は搭載できない。通信用の光発電式偵察機と、観測用の光発電式偵察機を同時に運用しなければならないのだ。
量産自体は可能だが、モーターやバッテリー、発電装置、電子機器類にレアメタルを使用するため、あまり作りすぎるとその他の装備・設備の製造に支障が出る。先にレアメタル生産設備を拡充する必要があるが、設備完成までは資源不足が続くことになり、その間は監視網の拡大ができない。
そのあたりのバランスと言うか、取捨選択を行うのは<リンゴ>はあまり得意ではないため、司令官が決めるようにしている。<リンゴ>は統括AIという立場上、完璧を求め、失敗を許さないという性格が強いのだ。後回しにするとか、諦める、縮小するといった後ろ向きな行動を取る事に拒否感を示すのだ。
「んー…。北大陸側のラインを、1系統にしましょう。次の製造分をバックアップに回すとして、それまではバックアップなし。浮いた分をひとまず海洋探査に回しましょう。いいわね?」
「はい、司令。北大陸側の機材にトラブルが発生した場合、最低でも2時間は復旧できませんが、大丈夫でしょうか」
「許容範囲内よ。スタンドアロンでも、2時間位であれば大丈夫でしょう? それに、故障率は…0.001%以下ね。ほぼ無視していい数値だわ」
北大陸の設備や人形機械は、<リンゴ>が全て直接操作している。電波通信を行っているが、<ザ・ツリー>から視認できる距離ではないため、光発電式偵察機を複数機経由して繋げているのだ。
一応、通信が途切れた時の為にスタンドアロンでも活動できるよう、随伴する駆逐艦に演算ユニットを搭載してはいる。確かに、司令の判断の通り、許容範囲内のリスクだろう。
「はい、司令。それでは、バックアップ系統と主系統の光発電式偵察機の運用を統合し、余剰機を海流探査に回します」
「お願いね~」
衛星打ち上げがままならないこの世界において、低コストで運用できる光発電式偵察機は非常に有用な装備である。しかし、そろそろ代替を考える必要がありそうだ。高度20kmを飛ぶとはいえ、地上、海上から視認できないわけではない。あまり数を増やすと、異常に気付く勢力が出てくる可能性がある。
「…有線でも引こうかしら?」
海底ケーブルを、北大陸まで伸ばす。無理ではないだろう。材料は十分に確保できる。ただ、時間が相応に掛かることと、この世界の海洋状況が不明なためケーブル敷設に伴う障害が予測できない。しかし、拠点間を有線接続できるというのは非常にメリットが大きい。
今の所観測はされていないが、恒星フレアによって通信不可になることもあるのだ。フレアの規模によっては、上空の光発電式偵察機が全滅することも考えなければならないだろう。
「<リンゴ>、海底ケーブルの調査も並行できるかしら? 優先度はそれほど高くなくてもいいけど、早めにテレク港街と繋げたいわね。拡張期に1系統しかないのは仕方ないにしても、最終的には通信経路は複数確保したいもの」
「はい、司令。そうですね、このまま1番級駆逐艦17番艦を調査船仕様に換装して、海底調査を行いましょう」




