第232話 閑話(レイディア王国)
ガサガサと茂みが揺れ、ひょこりと何かが茂みから飛び出した。
(……)
それは、灰色の毛に覆われた、やや幼気な顔つきの狼だ。子狼らしく、キョロキョロと興味深げに周囲を見回す。
風が吹き、ガサリと枝葉が揺れた。その音に驚き、子狼は茂みに引っ込む。
しばらくの間が空き。
今度は、ゆっくりと、子狼は茂みから抜け出した。
自分以外、周囲に何もないと確信したのか。
子狼は傍に生えた黄色い花に鼻を近付け、くしゅんとクシャミをする。
ぶるぶると首を振り、やや大胆に歩き始めた。
それは、この子狼の種族にとっては、些か早い巣立ちだった。未だ両親の保護を必要とするにも関わらず、巣から抜け出したのだ。
それでも、今日がこれまでと変わらぬ日々であれば、何の問題も起きなかっただろう。
子狼の両親は、周辺一帯を完全に配下に置いていた。その子供を害するようなものは、縄張りの外であっても居ない筈であった。
カシュン、と微かな音が響き。
経験不足ゆえ、子狼はその類稀な身体能力を発揮することはできず。
飛来した毒矢が皮膚を貫き、一瞬で全身に回った麻痺毒に声も上げられず、地面に倒れる。
(……)
そしてそれを為した男達は茂みを飛び出し、体長1.5mほどの子狼を手早く布に包み、1人が背負う。
3人の男達はそのまま、一目散に走り始めた。
1人が前方の枝葉を切り裂き、1人はその後ろ、子狼を背負った1人がそれに続く。しばらく走り続け、先頭を交代。
そうして、3人の男達は、森の中とは思えない速度で走り抜けていった。
◇◇◇◇
長閑な農村だった。
男達は畑の手入れをし、女達は集会所で糸を紡いでいる。
そして、幼い子供たちは、教会の一室で大人しく牧師の話を聞いていた。
魔の森にほど近い、何の変哲もない農業村である。
特徴は、極稀に訪れる狩人を泊めるための小屋がある程度。もっと条件の良い村や町は他にあるため、この村にはほとんど狩人は寄り付かないのだが。
そんな村に、久々に狩人が訪ねてきたのは、もう1週間も前のことだった。
3人の男達は村に1泊し、ほとんど交流もないまま魔の森に旅立ってしまった。
そうして、そろそろ村人達も彼らの存在を忘れた頃。
3人の男達が、魔の森から飛び出し、草原を走り抜け、村に駆け込んだ。
「おお、どうした、そんなに慌てて!!」
それに気付いた村人が声を掛けるが、男達は無言。一瞥もせず、そのまま村の中を走り抜ける。
男達の走る速度は、あまりにも速かった。
ぽかん、とした表情で、それを見送る農民達。
やがて、どうしようもないと気付いた彼らは、めいめいに仕事に戻っていく。今日の仕事が終われば、明日は安息日だ。
やや騒がしい一団が走り抜けたが、それ以外はいつものとおり。変わったこともなく、やがて日没が近づき、そのまま一日の作業が終わる。
そんな時間帯。
地面が、どん、どん、と揺れ始めた。最初は小さく、やがて、皆が気付くほどに。
ざわざわと騒ぐ村人。揺れに気づき、慌てて外に飛び出す女達。
教会から、子供たちが牧師に先導されて外に出る。
どん、どん、どん。
揺れが、近付く。
村外れに生えていた一本の大木が、バサリと葉を散らしたかと思うと、バキバキと音を立てながら折れ曲がった。
現れたのは、巨大な狼。
建設途中の、村の中心に建つ教会の尖塔よりも、遥かに背が高い。
「ゥウオオオオオォォォォォーーーン!!」
ビリビリと体ごと震えるような、強烈な吠え声が響いた。事実、木々の葉が揺れ飛び、驚いた小鳥達は一斉に空に舞い上がる。
魔狼。あるいは、神狼。
それは、おとぎ話として語り継がれてきた、巨大な狼の魔物であった。
吠え終わった狼は、そのまま、その巨体で村に襲い掛かった。
逃げ惑う村人が、狼の鼻先で薙ぎ払われる。冗談のように、人が空を舞った。
教会の牧師が、何かを叫びながら、子供たちの前に出る。
何人かの男達が、村の外に向かって走り始めた。
村の中央に、村人達が集まっているその場所に飛び込んだ巨大な狼は、再び首を振った。
牧師、プラーヴァ神国から派遣された駐屯僧が、子供達を守るために立ち向かった。僅かに狼の攻撃を押し留め、軌道を逸し。
しかし、その動きを止めることはできず。農村は、半刻もしないうちに壊滅した。
都市に知らせに走る男達を残し、長く魔の森に寄り添い世代を重ねた村は、全滅した。
◇◇◇◇
走る男達。
追い掛ける魔狼の番。
男達は手練の狩人であり、一昼夜全力で走り続けてもなお余裕が有るほどの魔技使いではあったが、魔の森の上位種相手にはそれでも不足だった。
村を経由し、街に入って臭いをごまかしても、徐々に距離を詰められる。
そもそもの運動能力が違いすぎるのだ。男達が一刻を掛けて走る距離を、魔狼は四半刻で駆け抜ける。途中の街をついでのように壊滅させつつ、着実にその距離を詰めていた。
そうして、遂に、男達は魔狼の射程圏内に捉えられる。
子狼を捕獲しているが故に、遠距離攻撃こそ受けていないが。
視界に捉えられる距離では、どう足掻いても逃げ切ることはできないだろう。
両側から挟まれ、逃げ場を塞がれ、それでもなお足掻こうとした男は簡単に潰された。
子狼を背負う男を庇い、もう1人も食い千切られた。
最後の1人も、荷物を背負うがゆえに回避に失敗し、子狼を包む袋を奪われ、爪で引き裂かれた。
そして無事に子狼を取り戻した番は、仔がただ気を失っているだけということを確認し、遠吠えを行った。
長く、そして大きく。
声と共に広がった魔力波は、周囲に彼らの脅威になる存在が居ないことを伝えてくる。
更に、彼らの仔を攫った動物と同じ存在が多数生息している場所も。
雄親はそれを脅威と認識し、排除するために走り出した。
そうして、辺境随一の交易都市であるトラリクイン市は、突如出現した魔狼の襲撃により、僅か数刻で全滅したのだった。
◇◇◇◇
レイディア王国王都、アルガスタ。
王国軍の精鋭が集結し、レイディア王国内で唯一、プラーヴァ神国に対抗し続ける、最後の城塞都市である。
都を囲う城壁を突破しようと、プラーヴァ神国の僧兵が昼夜を問わず襲い掛かっている。そしてそれを撃退し、時には逆撃し、王都を守り続けるのは近衛騎士団と王国外征軍の混合部隊だ。
各地で僧兵共と戦い続け、前線を後退させつつ、遂には王都まで押し込まれた、というのが実情ではあるが、それでも生え抜きの戦力を一箇所に集めてしまったというのはプラーヴァ神国側の作戦ミスだったのだろう。
備蓄食料も多く、まだまだ戦意も高い。
なまじ僧兵と戦力が拮抗しているがゆえに、この攻城戦は完全に停滞していた。
そして、それ故に。
多くの僧兵、魔技使いが集まるがゆえ、魔狼はそれらを外敵と見做したのである。
突如として戦場に現れた、巨大な狼。
プラーヴァ神国の僧兵達が建てた簡易陣地は蹴散らされ、戦闘態勢ではなかった少なくない数の僧兵が踏み潰された。
警戒し、慌てて城壁の上に戦力を集めたレイディア王国軍だったが、そこに魔狼の吐いた火炎が直撃する。
魔力を糧に燃え上がる火炎は、魔法的防御も含めて何もかもを消滅させた。
態勢を整えた僧兵達が、魔狼を攻撃する。
だが、一切の攻撃が魔狼には通用しなかった。
斬撃は通らず、打撃も効かない。魔法で炎を浴びせても白銀の毛並みに弾かれ、焦げ跡の一つも付かないのだ。
そして、それはレイディア王国側も同様だった。
プラーヴァ神国の戦力を蹴散らした魔狼は、王都防衛軍にもその牙を向ける。
体当たりで城壁は崩壊し、吐き出される炎に王城が燃え上がる。
僅か一刻の間に、レイディア王国王都は崩壊。
プラーヴァ神国の侵略で既に虫の息だったレイディア王国は、乱入してきた魔狼の手で、完膚なきまでに叩き潰されたのだった。
そして同じく、レイディア王国完全攻略のために大部分の戦力を集中させていたプラーヴァ神国レイディア王国方面軍は、多くの聖騎士を失うことになったのである。




