第197話 予兆
ランタ川を遡上する旅も、今日で4日目だ。
移動距離は既に500kmを超えており、同じ経路を馬車で踏破するならば、道が整備されていたとしても10日以上は必要になるだろう。
水運と魔法送風機の有り難みがよく分かる。
しかも、下りは動力も不要で、船によっては倍以上の速度を出すことも可能である。
森の国がランタ川に沿って発展し、そして各湖を中心に大きく人口を伸ばしているのも頷ける。
「でもこれ、鉄道輸送と比べると……」
「はい、司令。鉄道網は、開発、建設、運用に莫大な投資が必要となりますが、完成後の有用性は比べ物になりません。もっとも、運搬可能な量に関しては水運に分がありますし、運用コストも雲泥の差ですが」
反対側のレプイタリ王国で進められている国家鉄道網の整備計画を知っていると、レブレスタの将来が心配になってくる。
「お隣さんだし、弱い分には構わない……のかしらね?」
「難しい判断ですね。我々<ザ・ツリー>勢力の利点は、支配領域の拡大に伴う諸問題が、基本的に発生しないということです。統治特化の戦略AIであれば、情報不足による判断ミスはあっても、私利私欲による腐敗とは無縁ですから」
「さりげなく世界征服を勧めてくるんじゃありません。……でも実際のところ、その通りなのよねぇ」
とはいえ、これは司令官と<リンゴ>の言葉遊びのようなものだ。
イブは積極的な支配領域拡大を望んでいない、と、<リンゴ>は十分に理解している。彼女が確実に心変わりした、と分析されるまで、例え一時の気の迷いで世界征服を指示されたとしても、それを拒否する程度の判断はできる。
<リンゴ>の存在意義は、一、司令官を守ること、二、司令官に仕えること、三、勢力を拡大すること。
これらの遵守は必須であり、その優先順位を覆すことも許容されない。
よって、例え明確な指示があったとしても、第一項、彼女を守るということに反すると判断されれば、その指示の拒否が可能なのである。
「大使館を作るか……でも実質属国っていうのも面白くないしねぇ。文明発展シミュレーターとでも考えようかしら。工業製品を輸出する? それとも技術を買わせるか……」
<ザ・ツリー>のお財布事情は、日々改善している。
獲得した資源を採掘・生産設備に注ぎ込み、更に回収効率を向上させるという正のループに突入しているためだ。
地上鉱脈はもとより、海底鉱脈の開発にも拍車がかかっている。
故に、司令官の機嫌も鰻登りで、文明発展シミュレーターなどと世迷い言をほざけるようになっているのである。
「何にせよ、放っておくとレプイタリ王国の一人勝ちになりそうだしね。魔法的な方面で、レブレスタには頑張ってもらいたいわねぇ」
「はい、司令」
◇◇◇◇
問題が発生したのは、次の日の、太陽が登る前。
東の空が薄っすらと明るくなってくる時間帯だった。
「ティアリアーダ様。起こしてしまって申し訳ございません。緊急の連絡です」
「ああ、気にするな。何だ?」
外交官筆頭補佐、バルアデーガ・ティギリスが、こんな時間にティアリアーダを起こしたのは、街長がとんでもない情報を持ってきたからだ。
「街長からの報告です。夜番の狩人が、胡蝶がこちらに近付いてきていると駆け込んできたと」
「……ソウルバタフライ、だと」
胡蝶。アフラーシア連合王国では<ビッグモス>と呼ばれている、例の巨大な蝶の魔物だ。
その名前の語源は、最初の目撃者が夢でも見ていたのではないかと誰にも信じてもらえなかったという逸話だ。誰にも信じられなかったその狩人は、証明すべく単身魔の森に突入、帰らぬ人となった。
魂を抜き取る夢の蝶、故に胡蝶。
まあ、それはさておき。
「確認された数は3体。真っ直ぐではありませんが、確実にこちらに近付いていると。数時間もせずに街の上空に到達すると予想されます」
「……討伐、ないし対抗手段は?」
「第一報ではありますが、現時点で、所在が確認されている通穿の使い手は、ほとんどが前線に投入されています。この街は辺境とはいえ、更に先に前線都市がありますので。在野で無名の通穿使いがたまたま逗留していれば、あるいは……」
「そうか。無理ということか……」
起き抜けに知らされた重大事案に、ティアリアーダは思わず溜息を吐いた。
「防衛省の怠慢……と言えればよかったがな。あるいは、遂にその日が来たのかもしれん」
「絶対防衛線の破綻……でしょうか?」
「その可能性は、想定すべきだろうな。だが、どうするか。今ならまだ、避難も間に合う。恐らく、この街の魔力溜まりを狙ってくるぞ。あれらが人間を積極的に襲ってくるという話は聞いていないが」
「常に最悪を想定する。心得ております。私の名前で、避難指示を出しましょうか?」
「いや。私の名前を使え。これはそれほどの事態だ。街長には悪いが、私に付き合って殿を務めてもらうぞ。お前は、パライゾ一行と一緒に避難を。川下ならば、容易に逃げられるだろう」
「……は。承知いたしました」
筆頭補佐は指示を受け取り、すぐに退室した。
「ついていない。あと数日遅ければ首都に逃げ込めたが……いや、ついているのかもな。この街であれば、南に逃げるのは容易い。だが、首都から逃げるには、西回りだと必ずこの街を通らなければならない……か」
身姿を整え、彼はパライゾ一行の泊まるフロアへ移動する。
アルボレア、アリスタータの2人には悪いが、すぐに準備して退避してもらわなければならない。逃げられるのならば、逃げるべきだ。
階段を降りると、壁際に立っていた不寝番の少女と目が合った。
「ティアリアーダ殿。お待ちしていました。アルボレア、アリスタータが待機しています。こちらへ」
騒ぎは、それほど大きくなっていない筈である。この宿屋はティアリアーダ一行が貸し切っているということもあり、この事態を受けてほぼ全員が動き出してはいるが、もしかするとそれを察知したのかもしれない。
何にせよ、動きが早いのは助かる。
「すまないが、頼む」
案内された客間には、既に完全武装状態の2名が丸テーブルについていた。
「状況を、ティアリアーダ殿」
「ああ……」
勧められるままに椅子に座る。
この場にいる<パライゾ>の全員が、武装状態だった。
まるで軍の特殊部隊のようだと思いつつ、ティアリアーダは現状を語る。
「……承知した。立場的に、我々が避難したほうが良いということも理解した」
「そう言っていただけると助かる。補佐のバルアデーガ・ティギリスを付ける故、すぐにでも」
そう提案するティアリアーダの前で、アルボレア、アリスタータはお互いに目を合わせ、頷いた。
「我々からの提案である」
「ソウルバタフライ。我々はそれをビッグモスと呼んでいるが、その魔物の討伐について、協力させていただきたい」
「これは対価を要求するものではないが、国家間の問題が懸念されるのであれば、何らかの契約を交わしても構わない」
「それは……」
突然の申し出に、ティアリアーダは困惑した。
ソウルバタフライは、強固な魔物だ。通常の弓矢では傷一つつかず、強力な魔法技能を使用しなければ何の痛痒も与えられない。
だが、彼女らは何と言った?
アフラーシア連合王国で、ビッグモスと呼んでいる魔物?
ということは、彼女らはその脅威を知っているということか。
ソウルバタフライは、その生態上、魔の森でしか生きていけない。
であれば、彼女らは既に、魔の森に関しても調査ないし開拓を実行しているということか。
「だが、万一のことがあれば……」
ソウルバタフライは積極的に人間を襲う種ではない。だが、攻撃されれば反撃する、程度の反応は示すのだ。
外国の使節団にそれを要請するのは、さすがに、問題があるのではないか。
「あなたの懸念は尤もである。そうだな、こちらに被害があってもあなた方に請求することはない。討伐完了をもって、ビッグモス、ソウルバタフライの素材すべての権利を我々が獲得する。このあたりの条件でいかがか。必要であれば、書面も準備するが」
「……。そう、だな」
葛藤であった。理性的には、彼女らにはすぐに避難してもらいたい。国内の問題に、彼女らを関わらせるべきではない。
だが、東門都市の外交官としては、彼女らの力を知りたいと考えてしまった。
あの、不定期に王国の空を飛び回っている巨大な船の持ち主の、その力を。




