第6話 高貴なること汚泥のごとし
ソニア以外の誰かと会話をしながら食事をするのは、本当に久しぶりだ。そこそこ旨い野菜の炊きものを口に運びながら、二人と会話を交わしているうちに腹もくちくなり、急に眠気が襲ってきた。
山脈越えの際、山賊との戦闘で馬を失ってから、ここまでの数日、ずっと歩きづめだった。体力には自信があるものの、かなり疲れが溜まっていてもおかしくない。
情報収集は、また明日にしよう。早いところ勘定を済ませて宿を探そうか。でも、こんな遅い時間に開いている宿屋はあるのだろうか。
ああ、そういえば、ソニアがこの酒場に泊まれるかもしれないって言っていたなあ、などと、ぼんやりと思いを巡らせていたとき、突然、妙に甲高い男の声が響き渡った。
「これはこれは、カリーナ嬢、ご機嫌麗しゅう。今宵も男を侍らせて、何より何より。それでこそ、ボクの見初めた女というものだよ」
声のする方に、ゆっくり目を向けると、これでもかというほど装飾品を過剰に身につけたおかっぱ頭の若者が、その狐のようなつり目を細めてにやつきながら、こちらに向かって歩いてくる。
背は高くも、痩せたその身に纏う金銀が、蝋燭の明かりで煌びやかにひかめくが、その高貴そうな身なりからは、卑しさだけしか感じられない。
いま、この酒場に集っている者の中で一番に下品な男は、彼であると断言できよう。
「カリーナじゃありません。カリーニャです! 今夜はいったい何の御用ですか、アリーゴ御殿下様!!」
「御殿下様だなんて、よそよそしい。ボクとオマエの仲なんだ。いつも言っているだろう、姓ではなく、ランツァ様と呼べと」
カリーニャは椅子から立ち上がると、その若者に振り向き、過剰な敬称で暗に愚弄するが、ランツァという名の御殿下様は、栗色の前髪をいじりながら、まんざらでもない様子だ。
それにしても、自分で様づけを望むとは、見た目どおりの品性なしだ。
「奴はここの領主の御曹司だ。あの分城に住んでいて、金と権力に飽かせて女を侍らす穀潰しで、最近はカリーニャにご執心ってわけさ」
ひそひそと、ドルフが耳元で教えてくれた。
「御殿下様、前にも申しあげましたけど、この時間に来られましても、仕事中でお相手できません! 御殿下様よりも、お客様の方が大事ですので!!」
「そーですぜ、御殿下様ぁ。この時間、カリーニャはあっしらの……」
「下賤の輩の発言を許した覚えはないっ!」
店内から上がった誰かの無駄口に、ピシャリと言い放つ御曹司。それ以降、誰も声を上げないところを見ると、反感を持ちつつも、正面からは逆らえないという、この場の力関係が窺える。
「己の職務に対する高邁な心、実に、じつに素晴らしい。さすがはカリーナ。だが、仕方なかろう。ボクも昼に会いに来たいのだが、うるさい付き人の目があるのでね、外出もままならないのさ。だけどこの時間なら、この者たちの計らいで、毎夜オマエに会いに来られるのだよ。父上が新たに送り込んでくれた傭兵連中は、物わかりが非常に良くて助かるよ」
おかっぱ頭をかき上げながら、出会う誰もが嫌悪感を抱くかのようなにやけた表情で、カリーニャの肢体を嘗め回すように見るランツァ。
彼の後ろに控える、ニヤニヤと下卑た笑みを口元に浮かべた数名の男たちは、衛士の格好はしているものの、領主の召し抱える兵隊にしては、著しく品位が劣るように見えた。殿下の言うように、傭兵だからなのだろうか。
「殿下! 毎回申しあげておりますように、何度お声掛けいただいても、お城に上がる気持ちは、全くありませんからっ!! だいたいヒトとエルフじゃ、なかなか子を成せないと言うじゃありませんか。わたしを正室にしても、意味がないんじゃないですか?」
「子を成せない? 何を言っているんだい、カリーナよ。ボクはこれから長い年月にわたってオマエとまぐわい続けるのだから、いつかは子も授かることだろう。仮にそうでなかろうと、その時は側室に産ませればよいだけのこと。ボクはオマエが毎夜夜伽に励んでくれさえすれば、他のことはどうでもいいのさ。それに、今は乗り気ではなくとも、正室の暮らしをひとたび知れば、オマエも町娘の生活になど、二度と戻りたいとも思わないことだろうさ」
何という自己中心的な殿下だろうと思いながらも、辺り憚らず、自分が人間として、この上なく低劣であることを公言するその姿に、不覚にも僕は一瞬、ある意味、神々しいまでの潔さを感じてしまった。
「知ってのとおり、ボクの館には、ボクの側室が何十人もいる。もちろん中には、内心嫌々上がった者もいるだろう。だが今では、ボクなしでは生きていけないと、寵愛を求めてやまないのさ。だが、悲しいかな、今いる者たちは皆、いずれ醜く歳をとる。古く汚れた玩具なんぞ、そのたび新しい美玉に入れ替えれば済むことさ。だが、いつまでも変わらぬ美しさを愛で続けるのも、乙なものだと思わないか? だからこそ、長命族であるエルフのオマエが、禁忌が明ける十七歳になるまで、今や遅しと待っていたんだ」
いや、やはり神々しくなぞあるものか。こいつは全くもって人間のクズでしかないということを、今ここに認定してやろう。
「特にオマエのような長耳エルフは、とても長く生きると聞いた。だからオマエを正室として迎え入れ、そのカラダがより美味に熟れゆくさまを、一生かけて味わうことにしたのさ。いつしか気丈なオマエにも、側室たちと同様にボクの真の素晴らしさを理解できる時が来る。そして、孫子の代にまで、エルフを妻に選んだボクの偉大さが、オマエの美しい姿とともに語り継がれていくことだろう」
幾数十年が過ぎ、皺だらけの痩せこけた老人の姿になりつつも、少女姿のままのエルフを貪るつもりなのか、このクズは。脳裏に浮かぶその光景の、何とおぞましいことか。
眉間に深い溝を刻ませて、目前の相手を睨みつけるカリーニャの腰に手を回し、おもむろに引き寄せるランツァ。
「そう、その怒りの表情も、また美しい。その美しさを永遠に、ボクのもとで庇護したいだけのこと。これを正義と言わずして、何を正義というのだろう」
その手を振りほどき、後ずさるカリーニャの頭に、殿下の右手が伸びたかと思うと、その、仄かな灯りに輝くブロンドを、頭巾越しに鷲掴みにして引きあげると、はらりと下げ髪が解けた。
「――っ!」
体重のほとんどが頭皮と首にかかる痛みに、汗を滲ませた顔を歪めるカリーニャは、ランツァの腕に爪を立てるが、色とりどりの宝石がはめ込まれた金の腕輪が、それを妨げる。
細いながらも、意外に力強い殿下の腕に吊り下がるエルフの身体。木靴の丸いつま先だけが、辛うじて床に触れていた。
「今夜は、このままオマエを連れ帰る。そして、オマエを悦びの声しかさえずらない、かわいい小鳥にしてやろう」
御曹司の非道ぶりに総毛立った僕は、思わず席を蹴った。
「この、くされ――」
「ランツァ殿下。申し訳ございませんが、その辺で勘弁して頂けませんでしょうか」
カリーニャを吊し上げるクズ野郎の腕に掴みかかろうとしたその瞬間、いつの間にか厨房から出てきた店主がランツァに跪き、その禿げ頭を垂らしながら、低く据わった声を発した。