第17話 崇高なエルフは眠っているエルフだけ
薄暗い部屋の土間にある湯桶の中には漆黒の液体が貯まっており、その冥府の底へ続く井戸には、覗き込む僕の顔が暗く映っている。手を入れると、確かに少しは温いものの、湯面から下にあるはずの僕の手首は全く見えなかった。
風呂は既に風呂ではない何かに変貌していた。カリーニャの体から落とされた汚れの全てが浴槽の湯に溶け込み、それ自体が黒い塗料と化していた。
「ちょっと、カリーニャ! これは一体――」
「あ、そういえば! えへへ、ごめんねー。お湯を真っ黒にしちゃったー。でも汗ぐらい流せると思うから、入ったら?」
「入れるかっ、こんな風呂に!」
そう言いながら残り湯から抜き出した右腕は、薄黒い液体で濡れている。そして薄らと金色をした長い髪と縮れ毛が、数え切れないほど纏わり付いていた。
「あの、カリーニャ?」
「ふえ?」
「湯船の中が抜け毛でいっぱいなんですけど」
「え? あ、そうだ。えへへ、ごめんねー。お湯の中で体中を擦って汚れを落としたときに抜けたんだねー。でも、掬って入ったら大丈夫だよ」
「こんなにたくさん掬ってたら湯がなくなるわ! 大体こんな汚い湯の中から出て、おまえ、どうやってきれいにできたんだ?」
右腕についた湯は既に乾きはじめ、付着したカリーニャのどこの毛だか分からない縮れ毛がはらはらと落ちていくが、薄黒い汚れは付着したままだった。
「隅に置いてある水瓶に掛かり湯を先に汲んで置いたんだよ。それで最後に体を流して拭うと、こんなにきれいになれましたー」
カリーニャはそう言って綺麗なブロンドをかき上げる。燭台の明かりが生み出す印影で、その姿は妙に色っぽい。
彼女の言葉に浴槽脇を見ると、確かに二つの水瓶が置いてある。残念ながらいずれも空だったが。しかし、そんなやり方をよく思いつくものだ。このエルフ、結構頭いいな。それとも、思いつかなかった僕がバカなのか。
帳場で新しい湯を用意できないかと聞いてみたが、宿の湯釜は、明朝の準備の為に沸かし始めたところで、今は湯を提供できないとのことだった。
仕方が無い。風呂は諦めて、もう寝ようと帳場から戻った僕がベッドを見ると、そこには既にエルフが寝転んでいた。こちらに背を向ける均整のとれた後ろ姿が美しい。
よく見ると、彼女の脇腹が小さく周期的に収縮している。まさか、もう眠ってしまったのだろうか。ついさっきまで起きていたはずなのに。よほど寝付きがいいのか、それとも疲れがピークに来ていたのだろうか。
その時、僕は自分のミスに気づいた。宿帳には主人と奴隷の二人組と記した。奴隷は当然、厩で寝る。すなわち、この部屋の寝台は一台限り。そしてそこでは、カリーニャが静かに寝息を立てている。この状態で、僕はどこで寝ればいいのだろうか。
比較的広いベッドだ。巨体のマーサと並んで寝転べたぐらいだから、少し詰めれば三人は寝られる。そしてそれは、相部屋だったら当たり前のことだ。しかし相手が女性となると……。
とはいえ、エルフをたたき起こして、厩に行けとはとても言えないし、そうさせるつもりも端から無かった。
ベッドに近寄り、その端に腰を掛ける。壁際を向いて寝台上に無防備に横たわるエルフ。頬の産毛が燭台の灯りに映える。神々しいまでに美しい寝顔。こうしてみると、脳天気で失礼な少女にはとても思えない。崇高なエルフは眠るエルフだけということか。
しばらくカリーニャの寝顔を眺めていると、閉じた瞼にじわりと涙が滲み、流れ落ちる。特に寝言を口にはしないが、辛い夢でも見ているのだろうか。
いや、こいつにとっては夢よりも現実が一番辛いのだ。成り行きとはいえ、僕が守ってやらなければ……。
薄開きの艶やかな唇にかかる横髪を、優しくそっと払ってやる。涙も拭ってやりたかったが、起こしてはいけないのでやめておく。寝台の足下に落ちていた麻布をエルフに掛けた後、扉脇の燭台の蝋燭を消すと、途端に部屋は真っ暗になった。
そして僕は、出入り口の扉にもたれるように腰を下ろして休むことにした。
『なんだかんだ言っても、アンタ、やっぱり紳士ね』
いままで黙っていたソニアが静かな声で言う。おそらく指向性モードという、僕にしか聞こえない声で語りかけているようだ。
「紳士って、何が」
『アンタがカリーニャに近づいたとき、その子を壁に押しやって、ベッドに並んで彼女の匂いを嗅ぎながら寝るつもりかと思ったけど、そうじゃなかった。アンタはやっぱりアタシが思ったとおりの紳士だったってこと』
「それって、端から疑ってたってことじゃないか。何が思った通りの紳士だよ。とんでもなく失礼に聞こえるんだけど」
『だってアンタ、カリーニャがエルフ姿に戻ってからというもの、胸やお尻ばっかり見てるじゃない。確かにその子は綺麗なエルフだから、若いアンタの気持ちも分からなくはないけど、アタシは内心いつか間違いが起こるんじゃないかって不安だったのよ。アンタはヘタレだから襲ったりはしないだろうけど、アンタの変態行為に逃げ出して、この子が行方不明になるかも知れない。もしそんなことになれば、ザンギのおじさんに申し訳が立たないって。折角カリーニャが心を開いてきたって言うのにさ』
一体何ということを考えてたんだ、ソニアは! 失礼にもほどがある!! とはいえ馬鹿にする様子でもなく、静かに淡々と話す彼女の様子に、僕自身が他人にそう思わせる行動をとっていたのだろうかと、大いに不安になってきた。
確かに、今夜はカリーニャの体をたびたび盗み見ていたのは事実だ。ルガンナまでの旅の途中でも、少年奴隷姿の彼女が僕の前を歩くときは、女らしさを示すその腰回りを眺めていたことも否定できない。そう考えると、ソニアの言うことが至極当然のように思えてきた。そして、自分自身が恥ずかしくなる。
「ごめん、ソニア。確かに僕は女の人の体が気になって仕方が無い。今夜はカリーニャだけでなく、マーサの体も見つめていたような気がするし。もしかしたら、僕はソニアの言う“星人”なのかも知れない」
『男の子はそれでいいのよ。あんまり気にすること無いわ。性的な妄想に耽るのも、立派な男性に成長するためには必要なことなの。その妄想に振り回されない、確かな自制心を身につけるためにはね。そして、今のような紳士的な振る舞いを常に心がけることで、人間としても立派になれるはず。いえ、アンタは既に立派よね。それは認めているつもりよ』
いつもの尖った口調ではなく、妙に優しく話すソニア。
「ソニア、変だね。優しすぎないか」
『何が変なのよ』
「いつもだったら、思いっきり馬鹿にしてけなすくせに」
『それは、アンタが情けないことばっかりするからでしょ』
「なんだか今のソニア、僕が昔憧れていた魔道士の女の人に、雰囲気が似ている気がする」
『――いいから、もう寝なさい。そんな姿勢じゃ、ゆっくりはできないでしょうけど』
「うん、それじゃ寝るね。おやすみソニア」
『――おやすみなさい、ノエル……』




