第4話 熟柿の香りの大男
『もう時間も遅いんだし、食事はさっさと切り上げてよね。この後すぐに宿を探さないといけないんだからさ。あ、そう言えば、ここの看板に「旅籠」って書いてあったわよね? ということは、この酒場って、宿もやってるんじゃない? さっきの給仕さんに聞いてみなさいよ、アンタ』
向かいに置いたヘルメットのスピーカーから、ソニアが話しかけてくる。ゴーグルを外しているので彼女の姿は見えないが、腰に両手を当てた、いつもの偉そうな態度が目に浮かぶ。
ソニアは、このヘルメットに憑いている精霊で、いろいろと戦いの場でのアドバイスと支援をしてくれる。
ステイツという創造主によって生み出されたという彼女は、僕の頼もしい相棒であると同時に、尊敬できる戦技の師匠でもあるのだが、僕に対するその態度は、実に尊大なものなのだ。
ヘルメットのスピーカーから聞こえるソニアの声は、不思議なことに僕にしか聞こえない。前に仕組みを聞かされたが、指向性がどうのとか、超音波がこうのとか、一体何のことやらさっぱりだった。
まあ、別に理解できなくても、精霊の不思議な魔法であることには変わりがないだろう。
重い装備から解放された僕は、ソニアの言葉に適当な返事をしながら、あらためて辺りを見回してみた。
演説をぶっていた際には気にも留めなかったが、店内は燭台の揺らめく灯りに照らし出されてはいるものの、少しばかり薄暗い。
板張りの低い天井を支える板壁に並ぶ、ガラスが嵌まった格子窓越しに、満月に浮かぶ町並みがぼんやりと見えた。
騒がしさを取り戻した店の中で、あちらこちらからの注文に、給仕が独楽鼠のように走り回っている。どうやら、エルフ娘以外にも給仕は二人ばかりいるようだ。
隅の暗がりでは、なにやら妖しげな女たちが、粗野な酔客と下卑た笑みを浮かべて囁き合っている。商談が成立したのか、席を立ち、二階へ続くと思われる階段へ向かうカップルも見えた。ところは違えども、ここもよくある酒場のようだった。
「よぉ! 兄ちゃん!」
突然、太く大きなダミ声が降ってきたかと思うと、右隣に大男が腰を下ろす。その、あまりの勢いと巨体に、木椅子が歯ぎしりを響かせた。
見ると、先ほどエルフの給仕に名指しされ、うろたえていた髭面だ。歳は三十代半ばというところだろうか。
熟柿の香りを吹きかけながら、鼠色のシャツを着たザンバラ髪のその男は、馴れ馴れしく話しかけてきた。
「さっきはカリーニャが失礼なことを言ってすまなかったな! まあ、あまり気にしないでくれや!」
親愛の情を示しているつもりなのか、僕の背中を幾度も激しく叩きながら、店の常連らしい巨漢は笑顔で大きな声を張り上げる。しかしこのおっさん、人を叩かないと話せないのか?
「まあ実際、あいつが言っていたミルクの件は、ここにいるみんなが思っていたことだしな!」
大男はそう言って、大きく笑う。
ああ、やっぱりそうですか。そうですよね。牛乳という完全栄養食品に対する世間の評価って、そんなもんなんですね。
「だからといって、そんなチンケなことで人様に絡むようなやつは、この酒場には一人もいないぜ。もしいたら、ザンギのおやじが放り出すことだろうよ。なあ、そうだろ? おめえら!」
巨漢の大声に、「そうだ、そうだ」と応じる酔客達。
いつの間にか、先ほどまでの張り詰めた空気が嘘のように、どこにでもある酒場の空気があたりを包み込んでいた。
ザンギというのはこの酒場の店主で、先ほどエルフをさらっていったスキンヘッドのことらしい。腕っ節が強いことに加え、悪事を許さない主人の酒場ということで、ここはならず者が一切寄りつかない店とのことだ。
この世の酒場が全てそうであるならば、僕も酒場嫌いにはならなかったのだが。
「しかし、あんたが『雷閃の死神』じゃなくて、本当に良かったぜ。もしもそうだったら、今頃は、ここには生きているやつはいなかっただろうよ」
また『雷閃の死神』だ。いままで耳にしたことがない名だが、この地方ではかなり有名な戦士か何かなのだろうか。先ほどの恐慌を見るに、かなりの危険人物なのだろう。
だが、僕がその人物に間違われるということは、その男も、海兵隊の装備を身に纏っているということなのだろうか。
「あのう、さっきから皆さんが仰っている『雷閃の死神』って、どんな人なんですか」
見知らぬ地方の情報は、なるべく早めに入手しておくべきだ。情報の有無が生死を分けるのだと、ソニアもいつも言っている。普段からそう心がけているためか、知らぬ間に問いかけの言葉が、口を衝いていた。
「お、気になるか。奴のことを訊いてくるってことは、本当に『死神』の関係者じゃねえんだな」
「ミルクとその他のセット、お待たせしましたー!」
男の話を遮るように、ことさらミルクを強調しながら再び現れたエルフの表情からは、もう先ほどの激情は感じられない。
「おにいさん、さっきはごめんねー。わたし、興奮すると訳がわからなくなってしまうんだ。ドルフもごめんね?」
「いつものことじゃねえか、いいってことよ」
いつもなんだ、と思いながら、料理を並べるエルフの顔を盗み見る。
さっきは気にも留めなかったが、白い肌の整った顔立ち。頬の産毛と長い睫毛が、燭台の灯りを受けて金色に輝いていた。後ろで結った下げ髪が、リズミカルに揺れている。大男の言う『カリーニャ』は、この娘のことなのだろう。
魚醤が薫る野菜煮と、揚げパンの芳ばしさに空きっ腹を刺激され、思わず唾を飲み込んだ。
大きく響いたその音に、僕を見てニタリと妖しく微笑むエルフ。その含んだような笑みに、妙な誤解を与えた様な感じを抱いたが、弁解するのも野暮だと思い、何も言わなかった。