第20話 エルフ旅立ち
雷閃の死神。その強大な魔力により、一瞬にして数百もの軍勢を冥府に送るという無双の魔戦士。第九次魔龍戦争終結も間近に迫る頃に突如現れ、人、魔龍、魔物を問わず、目前の障害となるものを、ことごとく蹴散らしてきた無敵の存在。
ここゲルタッシュの町に人知れず滞在していた、その『死神』が、まさに今、裏通りの石畳を進んでいた。彼の傍らで荷車を引く輓獣は、ラバかロバであろう。だが、目の部分だけをくりぬいた、大きな黒い頭巾を被ったそれは、愛らしい目と従順な性格の家畜とは到底思えず、とても油断のならない戦獣のように見える。
手綱を引く『死神』の背には大きく膨らんだ背嚢が有り、その肩には、強大な攻撃魔法を辺り一帯に撒き散らすという魔杖を担いでいる。砂色をした上着の表には、いくつもの魔道具を備え、鬼の頭蓋を横に割ったかのような、同じく砂色をした兜を被っている。
どこから見ても珍妙な格好。極めつけは、その両目を覆う砂色の小さな箱。兜からぶら下がるそれが視界を全て塞いでいるはずなのに、『死神』は迷うことなく、自らの望む方向へ力強く歩みを進める。
軋む荷車の上で、被るボロ布から黒い長髪をはみ出させた少年は奴隷のようだ。手綱を引くわけでもなく、ただ荷台に載せられているところを見ると、彼は『死神』の所有物ではなく、この先売り飛ばされる「商品」なのだろう。
彼の首輪には、正規の奴隷であることを証明する、木の鑑札らしきものが下がっている。少年は、これから先に自分を待ち受けている運命に絶望しているのか、ただ荷車の揺れに身をまかせているかに見えた。
やがて『死神』は、町を囲む城砦の西に位置する門にたどり着く。門番の詰め所と物見櫓には数名の衛士がいた。今、彼らの目に映る奇妙な姿の男は間違いなく『雷閃の死神』だ。しかし、戦時中の手配指令が全て無効になった現在、彼を捕らえる理由はない。
いや、あったとしても一介の門番には到底無理であろう。傍目にも緊張した面持ちの衛士が右手を挙げて『死神』を制止すると、荷車は静かに停車した。
衛士が『死神』に二言三言声を掛けると、砂色の上着に開く切れ目から、小さな木片を取り出し提示する。衛兵が背後の詰め所に声を掛けると、たまたま巡察を行っていたのだろうか、奥から衛士隊長が現れた。
彼も衛士同様に『死神』の姿に表情を強張らせながらも、威厳に満ちた態度で木片を確認し、荷台や少年奴隷を確かめた後、右手を払ってそのまま進むように示す。そして『死神』は軽く会釈をすると、輓獣に手綱で意思を伝えた。
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番所に先回りしていたライカンが、いかにも不審そうな表情をしながら奥の詰め所から現れたので、僕は商用奴隷の一時所有を示す木片を模したものを彼に示した。
裏表の文様をしつこく確認しているかのように、視線をその木片に落としながら、ライカンは小さく囁く。
「頼む」
「ええ」
ゴーグルを跳ね上げながら、僕も短く返す。ライカンの後ろには数名の衛士が控え、覚悟を決めたかのような表情で、僕たちを見つめていた。
それからは誰も声を発しなかった。たとえ会話をしたところで、決して城内には、そしてランツァには聞こえないにもかかわらず。
正規兵の彼らにとって、これは明らかに主人に対する“反乱”なのだ。その思いが、この静寂の原因であることは、疑いの余地がない。
彼らは、軍人として越えてはならない一線を、今、踏み越えようとしているのだ。たとえ倫理的に正しい行いであったとしても、心のどこかで恐れを抱いているのだろう。しかし、彼らは軍人であることよりも人間であることを選んだ。これは賞賛されこそすれ、決して非難されることではない。少なくとも、僕はそう思う。
ライカンの許可を受け、僕はロバの手綱を手に歩き出す。門を潜って数十歩ほど進んだ頃、背後で小さく低い音が短く重なり合うように響いた。思わずロバを制して振り返ると、城門や物見櫓にいる数名の兵が胸に右の拳を当て、僕たちに向けて敬礼をしていた。その中には衛士隊長ライカンの姿もあった。
それに応えるかのように、停車した荷車の上に立ち上がるカリーニャ。彼女はフードを被り無言のまま、手枷をはめた両手を挙げて大きく振る。
そして僕は、彼らに向かって、以前ソニアに教えてもらった動作をした。踵を揃え、右肘を曲げて手を額に当てる「挙手の敬礼」を。
暖かく優しい陽光が降り注ぎ、風にそよぐ草の音と雲雀の声だけが響く、うららかな午後だった。




