第1話 深夜の酒場とエルフの給仕
足を踏み入れると、酒場の喧噪は静寂へと変わった。すべての視線が僕に集まっている。初めての店ではお馴染みの、初見の来店者を品定めする、あの視線だ。
僕は小柄であるうえに、あまり一般的とは言えない格好をしていることから、大抵はこの後、品のないからかいの言葉を浴びたうえ、気性の荒いゴロツキどもに絡まれる。
しかし、この夜は全く違った。遅い時間にもかかわらず、ほとんどの席が埋まる店内からは、揶揄の言葉は一向に聞こえてこない。
だが、そこにいる者たちすべての目を、僕が一身に集めていることには疑いがなかった。そして彼らの表情は、なぜかいずれも、怯えているかのように見えた。
後ろ手で扉を閉めながら、空席がないものかと顔を巡らすと、いかにも柄の悪そうな男たちは、すぐに僕から視線を外して下を向く。
ヘルメットから下がるゴーグルが、目隠しのように僕の両目を覆っているから、決して目が合うことなどないはずなのに、何をそんなにうろたえるのだろう。
いつもとは全く違う雰囲気の出迎えに、思わず足を止めてしまった。しかし、空腹を抱えた僕は気を取り直し、わずかに席が空いているように見える店の奥に向かって、再び歩を進める。
厚底のブーツで床板を踏み鳴らす僕の前には、誰も立ちふさがる者は現れず、通路に足をはみ出させていた巨漢の戦士は、僕が近づくと見るや、慌てて行儀よく座り直す。人相の悪い男達のグループも、決して一言も発することなく、僕が通り過ぎるのを見守るだけだ。
そして、沈黙と緊張の支配するなかを、僕は何のトラブルに遭うこともなく、目的の地に到達することができたのだ。
果たして、空席はそこにあった。混み合う酒場の一番奥にある六人掛けのテーブル席。その壁際に、背の無い木の丸椅子が、ぽつんと一人分だけ空いている。
そしてそこでは、冒険者風の身なりをした五名の若者が、酒を楽しんでいた。いや、楽しんでいたはずだ。僕が来る前までは。
当初は他の酔客と同様に、僕に視線を向けていた彼らは、僕が近づいて行くにつれ、次第に目を見開き、今では視線を外してじっと俯いている。心なしか、皆、全身を小刻みに震わせているように見える。
「あの、相席してもよろしいですか?」
僕の問いかけに、ビクンと全身を震わせたかと思うと、下を向いたまま、ただ頷くだけの先客達。快く相席を承認してもらえたところで、壁を背にした椅子に腰を下ろすと、店内の全景があらためて目に入る。
ガレイド山脈を越えて、初めて訪れる小さな町の、荒くれ者たちが集っていそうな酒場。路地の角にあるその店は、真夜中だというのに、多くの酔客で賑わっている。
しかし、多様な食べ物や酒のにおいと、男臭さが渾然一体となった、熱気と湿気と臭気にあふれた薄暗い社交場には、なぜか冷たい緊張の糸が張り詰めていた。
いつもなら、闖入者の見定めが終わると、酒場は再び喧噪に包まれるものだ。ある者はすぐに興味を失い、再びカードゲームに興じ、またある者は、新しい来店者が与しやすい相手だと見るや否や、舌なめずりしながら歩み寄ってくる。しかし、この夜は全く違った。
「何だよ、この雰囲気? 貸し切りか何かで、店に入っちゃ、まずかったのかな?」
異様な空気に当惑して、思わずつぶやいた言葉に、周りの緊張が、さらに高まったかのように思えた。
『アンタの噂が、ここにまで轟いているってことじゃない? 海兵隊の装備って、この世界じゃ特徴的な見かけなんだから、無理もないんだろうけどさ』
僕の左側に立つ相棒のソニアが、ヘルメットを脱いで赤い前髪を掻き上げながら、たいして気にする素振りも見せずに返してくる。
確かに彼女の言うとおり、地元では結構名前が通っている。しかし、ここまで顕著な反応はなかったものだ。
「それにしても、大げさな気がするけど」
『地元から、大きな山脈一つ越えたところだから、アンタの噂に尾ひれはひれが付いているのかもね。知らないけどさ』
確かにソニアと共に旅に出てから、無法者達を退治したことは幾度かあった。ガレイド山脈を越えた際も、山賊団を一つ壊滅させたところだ。とはいえ、こんな遠方にまで噂話は広まるものなのか。それにこの怯えようは一体何だ。
「今は何か食べられさえすれば、そんなことは別にどうでもいいさ。旨そうな匂いで、余計に腹が減ってきたし」
『食事するのはいいけど、装備品を盗られないように、注意だけは怠らないでよ』
「分かってるって。だから、いつも用心しているじゃないか。それに、今までだって大丈夫だったろ? 本当にソニアは心配性だなあ」
相席の冒険者達が、ソニアと交わす僕の言葉を耳にして、俯きがちでありながらも、気味悪そうな表情を浮かべているようだ。
まあ、それは当然のことだろう。僕と同じ砂色の戦闘服を身に纏う、頼れる相棒は精霊だ。実体を持たないその姿は、僕がかぶっているヘルメットのゴーグルに備わる魔鏡を通してでしか見られないし、言葉もヘッドセットかスピーカーを介さなければ聞こえない。
誰にも見えない精霊と話す僕の姿は、端から見れば、独り言を呟き続ける異常者にしか見えないことだろう。ともすれば、不埒者どもの格好のおもちゃになるところだが、そうなったことは一度もない。
なぜならば、僕は無敵の魔戦士として名を馳せるほどの力をもっているからだ。あまり嬉しくない異名とともに。
「いらっしゃいませー! おかしな仮面のおにいさーん!!」
突然、緊張感の漂うこの場にそぐわない、妙に明るい声が響いた。顔をあげるとソニアのすぐ脇に、純白の頭巾とエプロンをまとった金髪の少女が笑顔で立っていた。どうやら、この酒場の給仕らしい。
給仕の邪魔にならないよう、ソニアが立ち位置を少しずらす。実体がないので、決して邪魔になるわけはないのだが、その振る舞いは、とても自然に見える。
それにしても、おかしな仮面って、失礼な。まあ、実際のところ、鼻から上をゴーグルが隠しているのだから、そう思われてもしようがないか。ゴーグル自体も、知らない他人が見れば、ただの砂色をした小箱にしか見えないし。
まさか、その内側の魔鏡をとおして、まわりの全てが様々な情報と共に見えているなんて、誰も想像さえできないことだろう。
「はいはぁい、おにいさん。ご注文は何にする? ウチのおすすめはねぇ……、ええとねぇ……。何だろう……?」
大丈夫か、この娘……。よく見ると、突き出た両耳の先端が頭巾からはみ出ている。どうやらエルフのようだ。これは珍しい。
「まあ、何でもおすすめなんだけどね! ウチは何でもおいしいよ! まかないご飯もすんごくおいしいし! 昼まかないの『玉子かけチーズ野菜炒め』なんか、もう絶品だったんだから! そうだ! おにいさんへのおすすめはこれに決まりだね!!」
いやいや、まかない飯をおすすめされても困るんですけどねえ……。
給仕のエルフは、燭台の明かりを映す大きな瞳で僕を見おろしながら、弾むような口調で話しかけてくる。それに合わせた彼女の楽しげな動きが、明るく優しい雰囲気を醸し出していた。