第2話 精霊の残虐な魔術
部屋から主人が出て行ったあと、ソニアは再び僕に攻撃を仕掛けてくるでもなく、いつの間に着替えたのか、ゴーグルの無いヘルメットをかぶった戦闘服姿で出窓に手をつき、何が面白いのかじっと裏通りを見下ろしていた。
まだ機嫌を損ねているのだろうか。何も喋らないまま、僕の方を見ようともしないソニア。
一体何が彼女の怒りに火を点けることとなったのか、よくわからないままだったが、気まずい空気を取り繕うため、とりあえず僕は謝ることにした。
「ソニア、さっきはごめんよ。どうやら、君の気に障ることを言ってしまったみたいだ。これからは気をつけるから、許しておくれよ」
『何が悪かったか分からないのに、何をどう気をつけるのかしらねぇ……』
「とにかく僕が悪かったと思うんだ。機嫌直してよ」
『別に、もういいわよ。やることはやったし、気は済んだから』
彼女のその言葉に、思わず表情が綻ぶのを自覚しながら、ソニアの怒りが鎮火したものと思った僕は、言葉を続けた。
「君がそう言ってくれてうれしいよ。やっぱりソニアはそうでなくっちゃ。お互い気まずいのは嫌だもんね。でも、君が精霊で良かった。もしも魔物のように触れられる存在で、本気で襲われていたらどうなっていたことか。アハハ」
『……本当にそう思う?』
ソニアの不穏な物言いに、なぜか背中に冷たいものを感じた。
『アタシがアンタに手を出せないなんて、本気で思っているの?』
「え……」
窓の外を眺めていたソニアは、僕を振り返り、徐々に視線を下げていく。そして、ニィと歪んだ笑みを薄く浮かべた。
「何、バカなことを言ってるんだよ。精霊の君が、僕に触れることなんてでき――」
ソニアの視線を追って下を向くと、視界に違和感を抱いた。それは、僕の股間だった。砂色の迷彩柄が施された戦闘服のズボンは、その部分だけが赤黒く染まっている。
まさか。いや、そんなことはあり得ない。
その場に立ち尽くしたまま、僕はベルトを緩める。早く確かめたいという焦りと、見てはいけないと手を止めようとする思いとの間で、恐る恐るズボンの中を覗くと、信じたくない事実がそこにあった。
僕の男性器は無残にも押し潰れ、惨たる裂け目からは、脈動に合わせて鮮血が噴き出ていた。挫滅したそれから、何か白い筋のようなものがはみ出て垂れ下がっているのを認識したとき、僕の意識は突然途切れ――
―――――――――――――――――――――
『ノエルッ! ノエルッてば!! ごめんなさい、ごめんなさい! アタシ、調子に乗ってた。お願いっ、目を覚まして、ノエルッ!!』
誰かが呼びかける声に目が覚める。朦朧としながら頭をもたげると、ベッドの脇に仰向けに倒れた僕の胸に、顔を埋めて泣き叫ぶ女性がいた。誰だろう。何か懐かしい感じがする。そうだ、あの人だ。僕はその名を呼ぼうと――
『よかった! 気がついたのね! ノエルッ!!』
「――あれ、ソニア。どうしたの?」
『ごめんなさい。アタシ、冗談が過ぎたみたい。ちょっとからかうだけのつもりだったのに……。アンタが気を失うなんて思ってもみなかった。本当にごめんなさい……」
ソニアはかなり落ち込んだ様子で、いつも尊大な態度の彼女に似合わず、シュンとしていた。
気を失っていたのは、ほんの僅かの間だったようだ。股間に深刻な外傷を負うという幻覚をソニアに見せられ、僕は失神してしまったらしい。
彼女が使った幻覚は、本来、戦闘で負傷した兵士の精神的な負担を軽減するためのものだそうだ。酷く損傷した部位を、いかにも無傷もしくは軽傷であるかのごとく、視覚的に粧うことにより、痛みと不安を軽減する効果があるという。
また、僕に用いたように、捕虜の尋問などにも使われるものらしい。いくら残虐に肉体損壊を与えようとも、それはあくまでも幻覚で、実際に身体を痛めつけるわけではなく、ソニア曰く、“この上なく人道的”な拷問だそうだ。
もちろん、ゴーグルを外すと現実が戻ってくるわけで、僕の愚息も無事に生きながらえていた。
『ノエル、頭は痛くない? 倒れたときに打ったみたいだけど』
多分、ソニアの言うとおり頭は打ったのだろうが、ヘルメットを被っていたのでなんともなかった。僕は起き上がりながら、被っているヘルメットをポンポンと叩きながら言った。
「大丈夫だよ、ソニア。でも、これがなかったら死んでいたかもね」
『まったく、なに冗談言ってるのよ。本当に心配したんだから』
特に冗談を言ったつもりはなかったが、涙目の彼女を見ると、それ以上、余計なことを言う気にはならなかった。
「ソニア、僕の方こそごめん。正直に言うと、僕は君が何故あそこまで怒ったのかがわからない。でも、君を怒らせるようなことを、そうとは気付かないまま平気で口にする僕自身が情けないんだ」
僕はベッドに腰を下ろしながら、側に立つソニアに自分の思いを正直に話した。
「君はとても信頼できる相棒で、尊敬できる師匠だと、僕はいつも思っている。いや、それ以上に、僕にとって、ずっと大切な存在だということだけは、せめて知っておいてほしい」
『わかってるわよ、それくらい。バカ……』
照れ隠しのためか、再びぶっきらぼうな態度をとるソニア。そして、僕も自分の言葉に照れながらも、口に出した事への後悔はなかった。
さて、外出の支度は調った。とりあえずは、朝食をとるべく酒場へ向かうとするか。そういえば、さっき、誰かに会ったような気がする。懐かしい誰かに。誰のことだったのかを思い出そうとしたが、記憶の蓋が再び開くことはなかった。




